吉本隆明『僕ならこう考える』の書評:自分のコンプレックスや人間関係にどう向き合うかの私的談義

吉本隆明が自身の人生経験や文学者・哲学者(思想家)のエピソードを参照しながら、誰もが一度は抱くであろう身近な人生や自意識、人間関係の悩みに答えていくという体裁の本。コンパクトな分量であり、分かりやすい話し言葉で書かれているのでさらりと読むことができるが、『思索の深度・論理性』よりも『日常の経験・暮らし』に重点が置かれているので読み手によっては物足りなく感じるかもしれない。

吉本が『僕ならこう考える』という個人的視点から答えようとしている問いは、『自分・恋愛・社会・真理・生命』にジャンル分けされている。何処からでも好きなように読める構成になっているが、それぞれのジャンルにかっちりと定義づけられた話がされているわけでもないので、吉本の私的な述懐や経験に基づく提案といった形で読むといいかもしれない。

『1.「自分」の行方――私は誰か、私は何か』の冒頭では、『自分を好きになる方法・好きな自分の見つけ方』では、カウンセリング理論の王道であるありのままの自己受容や認知の転換といった方向性で話が進められていき、『自分の性格の嫌いな部分・損しやすい非社交性』なんかは無理に直さなくても放っておいたほうが良いんじゃないかという結論が提示される。

自分の基本的な思考・感情・人間関係のパターンは『性格傾向・性格特性』によって大まかに方向づけられるわけだが、『自分の嫌な部分』を直そうとして直せなくて、より自己嫌悪や周囲への抵抗感というものが強まることもあるので、できるだけ『自分の好きな部分』を見つけて焦点づけすることは大切である。

吉本隆明は自分が苦手だった『話すこと(話し言葉のコミュニケーション)』ではなく、得意だった『書くこと(書き言葉による自己表現)』によって他人と打ち解けにくく外向的になれないという自分のコンプレックスを幾分和らげたと語るが、誰にでも『自分の居心地の良い生き方・長所の発揮の仕方』というのはあるのではないだろうか。そういった自分にとっての居心地の良さや幸福の実感、長所の活用といった所から離れて『社会一般的な幸せ・他人から見た自分の評価』に囚われすぎると、ますます自分で自分が嫌いになっていくといった悪循環は有り得るといえば有り得る話である。

今では大学のレジャー施設化や勉強しない大学生、学歴インフレなどが問題視されることが増えているが、吉本は『イイ年をして親の脛をかじって遊べる』というのが大学に行く一つの意義だというやや常識的論調から離れた意見を語る。それは自分が遊んだ経験を持つことによって、『他者の自由な生き方や雑多な世間への寛容性』が育まれやすくなり、学問の本質であるスコラ(ゆとりのある余暇)を楽しめる心持ちを作るということであり、人格構造における独善性や偏狭な価値判断にはまりにくくなるということである。

端的には、必死に一生懸命に苦労して生きるということは尊いが、自分が余りに余裕のない切迫した生き方を強いられる時、他者の生き方や弱さに対する寛容性が失われることもあり、そのことが精神の自由な活動に一定の障壁を作ってしまうということだろう。吉本隆明は『三歳児神話』を超える『一歳児神話』を信奉していて、子どもの性格の基本構造は1歳までの母親と子どもとの愛着や情緒的交流で決まってしまうというようなことを何度も語るが、これは発達心理学的(性格心理学的)には正しい見地とは言えない。

だが、『早期母子関係の影響の大きさ』というのは少なからずあり、特に本人の主観的な経験や記憶として『自分は母親から愛されなかった・自分は家庭環境に恵まれずいつも孤独だった』という思い込みが強いと、性格構造に歪みが生じたりその後の対人関係で打ち解けにくくなったりする。

一歳児神話の事例として、吉本は産まれてすぐに母親から話されて祖母に異常な溺愛・囲い込みをされた三島由紀夫、地方の名家の慣習で産まれてすぐに乳母に預けられて実の母親と縁が薄かった太宰治を上げているが、『母子関係における孤独感(愛情飢餓)』が後年になっても尾を引いて、その人の人間観や対人関係の大枠を規定してしまうという事例(心理的な困難さ)は確かに現代でもあるかもしれない。

他人の幸福や成功を喜べないとか、人の不幸は蜜の味と感じてしまうとか、そういった人間の原罪的な嫉妬感情については、『相手との親和性(身近さ)』『嫉妬感情』が比例するという分析を述べて、親の愛情を奪い合う『兄弟葛藤(シブラルコンプレックス)』が原点にあると語る。嫉妬感情への具体的な対処については言及がないのだが、嫉妬を軽減するには自分と他人を比較しないと幸福(満足)を得られないような認知を変容させることが大切である。『自己と他者の適切な距離感』を取り、自分自身のやるべきことややりたいことに意識を向けていくことで嫉妬は感じにくくなると思う。

容姿・外見のコンプレックスについては、『不特定多数にいつも好かれよう』と思えば深い悩みの原因と成り得るが、他者との距離感が最小限に縮まって『個人対個人の情緒関係(恋愛・結婚-家族)』を意識し始めれば、容姿・外見だけではなく学歴・地位・知識教養といった外的要素はそれほど重要ではなくなると語る。容姿の良さはより大勢の相手との距離の縮めやすさに貢献するが、結局のところ、男女関係であれば『個人対個人の情緒と責任の関係』に帰着するので容姿のコンプレックスによって、決定的に情緒的な結びつきが阻害されるわけではないという見解を示している。

本書では恋愛や結婚、性についても、『2 「恋愛」の行方―感情と欲望の考え方』で様々なテーマを取り上げており、過去の文学者や思想家の恋愛の顛末を引きながら吉本独自の恋愛観・異性観を開陳している。

吉本は冒頭の『セックスについての個人的意見』において、『生理的な性の欲求だけであれば女性は要らない・肉体的快楽のためだけのセックスがよく分からない』という意見を述べるのだが、これは男性にとって表層意識では『遊びの性愛』と割り切っている関係でも、深層意識では『異性による自己受容・自己承認の甘え(情緒)』が絡まざるを得ないということを示唆しているように感じる。

本当に好きな異性じゃないと良い性愛は有り得ないというのは多分にロマンティシズムを孕んでいるが、男性であっても女性であっても『性愛に付随する自己価値の承認・情緒的な相互交流』の要素を完全に排除した性行為というのはなかなか有りにくい。それ以外にも、相手の浮気を追及する時にはどれくらいの強さで責めれば良いのかとか、吉本が就職先の会社を選ぶならどんな基準を重視するかといった日常的な話題・俗な質問が色々と収載されており、出版年度や吉本氏の生きた時代と現代とのズレも楽しみながら読んでみると面白い。










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■書籍紹介

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吉本 隆明

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