男女共同参画社会の構想とジェンダーフリー・性別役割の論点2:ジェンダーによる規範性と適応行動

前回の記事の続きになるが、ジェンダーフリー思想については、男女の『社会的・文化的・心理的性差』を完全に中性化する思想という風に考えるならば、その理念としての正しさはともかく、現実的な運用可能性としてはその運用は極めて困難だろう。ジェンダーフリーをどこまで原理主義的に捉えるかによってもその思想の現実的有効性は変わってくるが、『男らしさ・女らしさに強制的な規範性や社会的な差異待遇を認めない』というレベルのジェンダーフリーであれば、北欧諸国を中心としてある程度まで実現している国はある。

ジェンダーフリーが保守的な人たちから厳しく批判されやすいのは、ジェンダーの役割規範や伝統意識によって成り立っている『既存の家族・労働・男女関係の秩序感覚』が崩壊するのではないかという不安があるからだろう。ジェンダーは『権力(社会的強制)』『役割規範(性別による行動様式)』と深く結びついており、特に『家庭内での役割分担・社会での位置づけ』を再生産して規定するという作用を持っているが、その時々の時代情勢や経済構造によってジェンダーは可変的な要素も併せ持っている。

男女のジェンダーには、狩猟採集時代から男が『狩り・戦闘』をして女が『採集・育児』をしたように、生物学的要因という自然性(自然の摂理)によってその性別役割が合理的(機能的)に定められているという意見もあるが、現在では『経済の発達水準・需要の大きな労働の変化・戦闘の倫理観』などの社会的文化的要因によってジェンダーは変化すると考えられている。

現代の先進国は、どちらかというと『戦争・暴力』が倫理的に禁止された消費文明社会という『女性原理の社会』に近づいていると言われることも多いが、確かに戦争・紛争が起こっている地域(物理的暴力が十分に禁止されていない地域)や消費主義文明の発達度合いが低い社会では、男性原理による女性の抑圧のレベルが高くなる傾向が見られる。

女性の学歴・職業的地位が上昇して社会進出が進んでいることも、経済状況とジェンダーが相互作用しながら変容しているプロセスとして解釈することができるが、ジェンダーフリーの本来的な意義は『社会進出したい女性』も『家庭で家事育児をしたい女性』もどちらのライフスタイルも実現しやすい環境を整えるという理想追求にあるのだろう。

男女の性差が逆転して、男性の専業主夫のようなライフスタイルも一部で出てきているが、伝統的ジェンダーも男女のキャリア待遇も急速には変化しにくいので、男性が働かずに家庭に入るというレベルのジェンダーフリーにまで人々の意識が変化するのかまでは未知数であるが…。

男女のジェンダーである『男性性(男らしさ)・女性性(女らしさ)』の差異は、生物学的に自然的事実として変更不能なかたちで規定されるのではなく、当該社会で望ましく適応的であるとされるジェンダーが『教育・しつけ・賞罰・情報』によって内面化されると考えるのが妥当だろう。

生物学的な決定論としてジェンダーが規定されるというジークムント・フロイトの『ファルス(男根)の理論』もあるが、エディプス・コンプレックスと関連する『男児の去勢不安・女児の男根羨望』を、ジェンダーの根源的な要因とする男根中心主義は現代社会における説得力を保つことができない。

解剖学的な物としてのペニスではなく、文化人類学的なイメージとしてのファルスが、『人類の権力と秩序の普遍的象徴である(男根が象徴する権力性・支配欲求によって社会秩序が維持される)』とするフロイトの仮説理論は独断的な男性中心主義の変奏であって、そこに実証的で科学的な根拠が伴っていないからである。

前近代社会の文化風習には、確かに『男性器崇拝の伝統宗教』があるが、それを言うならば『女性器崇拝の伝統信仰』もあるわけであり、この男性原理と女性原理の対立は『天上神の男性性(父なる神)・地母神の女性性(母なる神)』という二元論の焼き直しの反復に終わるだけだろう。フロイトと比較すれば、社会学者ナンシー・チョドロウの『母親との愛着関係からの離脱』に関係する男女差に注目するジェンダー発達論のほうが説得力があるかもしれない。

チョドロウは『母子関係の愛着からの離脱(自立)』について、女性であれば母親との緊密な感情関係を思春期以降にも持続させやすいが、男性の場合には母親との密接な関係を完全に断ち切る必要性が高まるので、『男性の理性性や分析性-女性の感情性や共感性』といった男女のジェンダーの差異が強まるのだという。

母親との愛着の持続が『女性性の起源』となり、母親との愛着の喪失が『男性性の起源』になるというのがチョドロウの仮説だが、特に男性のほうが『感情的な相互依存性・他者への甘えの表出』が苦手になりやすいというジェンダーの一側面については納得しやすい仮説ではある。しかし、パターナリスティックな母子関係を前提にして、女性の依存性や受動性を強調し過ぎているということで、フェミニズムの立場からの反論もある。

『ジェンダーの社会化』によって、子ども達は段階的に『性別に基づく社会的期待・社会的役割』を受容して学習することになるが、保守的な伝統主義の立場では、その社会化とジェンダーの結びつきは『自明の正しさ(社会秩序の必要条件)』として見なされるのである。

『ジェンダーの社会化』の担い手になるのは、両親であり教師であり周囲の知人でありマスメディアであるが、現代社会では幼少期から大人によって伝達・教育されるジェンダーの性別役割(社会的期待)を、どこまで従順に受け容れるのかについて一定の選択の自由が生まれてきている。

このジェンダーに基づく社会的役割や期待をどこまで受け容れるのかについて、個人の選択の自由度を高めようというのが『ジェンダーフリー思想』であり、反対に既存の家族・男女の秩序を守るために自由度を高めるべきではない(原則的に一定の性別役割を果たすべき)というのが『反ジェンダーフリー思想』になるのだろう。

しかし、男女のジェンダーアイデンティティは、ある時間軸の『社会的・文化的性差』を静態的に受け容れて形成されるだけのものではなく、『社会的・経済的・性愛的な環境変化』に柔軟に適応するかたちで、その時々のジェンダーアイデンティティは微妙な変化を強いられていくものである。技術革新や雇用情勢、情報環境の変化のスピードが早いグローバルな現代社会においては、日々刻々とジェンダーアイデンティティの内容も、男女関係と経済生活に適応するために微細に変化し続けている。

であるならば、ジェンダーフリーにしても反ジェンダーフリーにしても、政策的・思想的・規範的に『男はこうでなければならない・女はこうでなければならない・男女の性差にこだわらずに自由に意志決定すべきだ』と人々のジェンダーアイデンティティを特定の方向に誘導しようとしても、思い通りの方向に人々の意識が変化することはありえないということになる。

究極的には、人々は自分の生きる家庭生活や異性関係、経済状況に適応する行動様式を学習して、自己のジェンダーアイデンティティを形成することになる。その結果、政治的・思想的にジェンダーが外部要因で規定される割合よりも、『個別的な関係性・生活状況』の中でジェンダーが自発的に規定されていく割合が高まっていく。

男性が好きになる女性の行動様式の類型、女性が好きになる男性の行動様式の類型、男性と女性が相補的に生活・育児を成り立たせていける『同意可能な役割分担』などには幾ばくかの個人差があるわけだが……そういった男女関係あるいは家族の持続的な組み合わせを可能にする『個別的な男性性・女性性の要因』が、当事者(本人)にとってのジェンダーアイデンティティを形成していくことになるだろう。










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