島田荘司『龍臥亭幻想 上下』の書評:森孝魔王の正義の復讐と村落社会の迷信・差別の悲しみ

明治維新によって幕藩体制と身分制度が解体され、備中藩の旧藩主・関森孝(せきもりたか)はかつての所領と家臣の多くを失い、関家の遺産を元に暮らすことになった。廃藩置県と四民平等によってかつての威勢と富裕を失ったとはいえ、関森孝は江戸時代であれば備中藩を治める殿様であり、明治の御世に入っても派手な暮らしを繰り返して次第に関家の財産は細っていった。

身分ではなく金銭がモノをいうようになった明治の世、関森孝は周囲の取り巻きにおだてられて儲かりもしない投資話や事業にお金を注ぎ込みイエの財産を減らすが、そのおこぼれに預かる者たちは財を蓄えた。関森孝は元来、商売(金儲け)などには興味も才覚もない武家の趣味人であり、忠実な犬と土地の美女を気ままに愛でる人生を楽しんでいたが、あれこれと浮いた儲け話にお金を注ぎ込んでいるうちに、関家の財力は急速に衰える。

それまで残っていた先祖代々の家来にも俸給を出せなくなり、多く囲っていた側室たちにも暇を出すしかなくなり、関家の広大な本邸も売却して別邸の『犬坊』で質素な余生を暮らすしかないところまで追い込まれた。働かなくても最低限の生活を維持できる田畑・所領がぎりぎりで残っていたが、関森孝に付き従っていた家来と女性のほとんど全員が金の切れ目が縁の切れ目とばかりに彼の前から姿を消した。

別邸の『犬坊』まで森孝に従ってきたのは、女中頭のお振り、本妻お胤(おたね)、側室のお嘉(およみ)、使用人の浜吉・芳雄だけであったが、次第に自分でまともに働いて稼ぐこともできない関森孝のことを妻や使用人が侮って軽視するようになる。関家の当主とはいっても、家来も所領も財産の大半も失っており、打ち首ものの無礼狼藉を働いてもそれを咎め立てする家来衆が既にいないのである。若い時分は大勢の側室を揃える女好きで鳴らした森孝だったが、犬坊に移ってからはめっきり元気がなくなり精力も一気に衰え、貪欲で淫奔な本妻のお胤を満足させることもできなくなった。経済的な貧窮のために可愛がっていた犬もすべて譲り渡すことになり、森孝は次第に家中で孤立していく。

お胤は夫の森孝にあからさまな侮蔑の視線を送るようになり、20代の美男子で筋骨たくましい使用人の芳雄に強引に関係を迫って不倫を重ね、遂には経済的にも性的にも役に立たない森孝を謀殺して関家ののっとりをしようと企てるまでになる。お胤は森孝がいつも温泉に向かう時に使う『木の階段』に細工をして踏み外させ足を骨折させたが、その怪我は癒えずに森孝は右足を切断した。更に、森孝の毎日の食事に毒を盛って緩慢な毒殺を図り、情夫としてしつけた芳雄と一緒に暮らすことを夢想する。

使用人の芳雄のほうは、身分の無い貧しい自分を拾って養ってくれた森孝に強い恩義を感じており、何とかお胤に不倫関係を清算してまともになって欲しいと土下座して頼み込むがお胤は許さず、『剣を練習して私を守り、すっかり弱った老人の御前様(森孝)などに負けるな』と発破をかける。

そういった不義不倫の密会をしていたお胤と芳雄の元に、戦国武将さながらの兜と鎧(具足)、刀を身に付けた義足の森孝が鬼気迫る峻厳な殺意をもって出現する。関森孝は主君である自分を虚仮にして愚弄した芳雄の両腕を躊躇せずに刀で切り落とし、必死の形相で狂ったように命乞いする本妻のお胤も容赦せずに斬首した。本作の冒頭ではこういった血腥くおどろおどろしい関森孝の明治時代のエピソードが語られ、本編の途中でも、『森孝の亡霊』と思しき鎧武者が農民の女房を奪い取ろうとした卑劣な代官を成敗するエピソードを挿入している。

しかしその後、関森孝と芳雄の遺体は消失して、『森孝魔王(しんこうまおう)』の伝説が犬坊のあった貝繁村に残された。岡山県の貝繁村は、昭和の戦時中に都井睦雄(といむつお)が夜這いの風習や徴兵検査の不合格などを元に、自分を愚弄・差別した村中の人間を殺して回った『津山30人殺し(津山事件)』が起こった土地として設定されている。実際の地名は異なるが津山事件そのものは史実である。

島田荘司は津山事件を題材にしたミステリー小説で『龍臥亭事件・上下』を書いているが、『龍臥亭事件』の8年後の貝繁村と人間関係を舞台にして書かれたのが本作『龍臥亭幻想』である。

『龍臥亭幻想』では御手洗潔シリーズで助手役を務める石岡和己(いしおかかずみ)が主人公となっており、司法試験に合格して司法修習生となった犬坊里美(いぬぼうさとみ)、吉敷竹史シリーズの加納通子(かのうみちこ)、貝繁村の住職の日照(にっしょう)、神主の二子山などがメインキャラクターとして配置されている。時間的なつながりがある『龍臥亭事件』を読んでから、本書を読んだほうが物語の世界観に入り込みやすいと思うが、本書だけを読んでも森孝魔王の伝説や軍の人体実験(生体と遺体の部分的な接合術)を下敷きにした『不可能犯罪のトリック』は楽しめる。

『森孝魔王の伝説』というのは、君主を軽侮したお胤・芳雄・お振りを斬殺して凄絶な自死を遂げた華族の関森孝にまつわる伝説で、森孝の遺品である鎧兜(具足)を無念の死を遂げた遺体に身に付けさせると、鎧をまとった遺体が生ける武者の如く動き出して『貝繁村の人間を苦しめる悪人(不義や悪事を為しながらも法では裁けない悪人)』を切り捨ててくれるという伝説である。上巻の中ごろでは、農民・留吉(とめきち)と結婚していた村一番の美人で働き者の妻・お由(およし)に横恋慕した悪代官が、森孝魔王に斬首されるエピソードが書かれている。

留吉は働き者の農民だったが、家から遠く離れた場所にある畑仕事の帰りに熊に襲われて足に大怪我をしてからは思うように働けなくなり、生活や一人娘のお春のために借金をするようになってしまう。金を借りた貝繁村の人々から『留吉は怪我をしてから怠け癖がついてしまった・本当は働ける癖に働こうともせずに妻の働きに頼っている』という陰口を叩かれるようになるのだが、『龍臥亭幻想』の主題の一つは、封建的な村社会の閉鎖性や差別意識、迷信信仰が罪の無い人を追い込んでしまう悲劇である。みんなが平等に田畑を耕作し年貢を納めて生活する農村共同体では、『怠惰であることの風説の流布』は致命的な村八分の要因にも成り得たのである。

『身体の悪い留吉の怠け』を批判する村人の声が、代官・岡田弦左衛門の耳に入り、好色な代官は美人のお由に仕事を与えて手篭めにしようとするが、お由は夫がいることを理由に頑として代官の妾になることを拒絶する。兼ねてから目をつけていたお由が自分の妾にならないことに激昂した悪代官は、年貢を納められない留吉とお由を呼び出して、『お前が怠けて年貢を納めないから他の村人に示しがつかん・お前は女ばかりを働かせて恥ずかしくないのか』と激しく罵倒・叱責して締め上げる。

悪代官は自分が横恋慕するお由が夫の留吉を庇おうとすればするほど、留吉がお由について言葉にすればするほど、嫉妬と激怒の色合いを強めていき、遂に抜刀して痛めていた留吉の足を『使えない足ならいらんだろう』とばかりに斬り落とした。その残酷な懲罰を見た代官のご家来衆が『いや、お見事!』とお世辞で誉めそやし、身分制度によって人権が認められない封建主義社会の理不尽さが浮かび上がらせられる。結局、留吉の田畑は召し上げられて、生活の糧を失ったお由は代官の側室にされてしまい、女好きの代官は留吉の美しい一人娘で年頃になったお春にも食指を動かすようになってくる。

右足を切断された留吉は身体も精神もすっかり衰弱してしまい、死んだような日々を送るばかりであった。娘のお春は村の信仰を集めていた社の『森孝さん』を訪れて、必死にお父さんとお母さんを何とか助けてくださいと祈り続ける。降りしきる雪の日に留吉が無念を残して死去すると、悪代官は母親のお由を殺すと脅して娘のお春にも手を出そうとするが、何とか家を逃げ出したお春は『森孝さん』の社にある刀で代官を斬ろうと考えるが、『森孝さん』から『その必要はない。父親の体を持ってきて、この鎧を着せなさい』という不思議な声が降ってくる。

お春が既に死後硬直した父留吉の身体に森孝さんの鎧を着せると、鎧をまとった動くはずがない遺体が雪の中で立ち上がる。森孝魔王が憑依した武将姿の父の遺体は、母親を折檻していた悪代官を壁に激しく叩きつけ、その憎むべき代官の首を根元から怪力でちぎり取ってしまった。その後、お由とお春には何の咎めもなく平穏に暮らすことができました……という明治時代よりも前の時代の創作的な『森孝魔王の伝説』が貝繁村には伝わっていた。

現代の貝繁村にも、村の人々の弱みにつけこんで女性を泣かせる神職の菊川がいて、その神職は巫女のバイトをしていた19歳の大瀬真理子にも手を出していた。新嘗祭の祭儀の途中で大瀬真理子は突然姿を消して行方不明になってしまうのだが、真理子の恋人だった黒住はこの神隠しのような行方不明に菊川が関わっていることを確信していた。貝繁村に大地震が起こると真理子の遺体が、神社の境内をすべて覆っているコンクリートの地面の下から出現するが、コンクリートの下に遺体を埋める方法は原理的に存在しない。

この不可能犯罪を起点として物語は進行していくが、雪が激しく降りしきる真冬の貝繁村に、再び悪人を断罪する『森孝魔王』の亡霊が鎧をまとって復活しようとしていた。鎧兜を身につけた遺体が、どのようにして代理復讐を成し遂げられるかのトリックは意外な形で明らかにされるが、島田荘司が描くミステリー小説では『真犯人に悪人がいない・犯罪に痛ましく悲しい動機がある』という特徴がある。これを言ってしまうとネタバレになるかもしれないが。

ショッキングな正義遂行の復讐譚である『森孝魔王の伝説』と封建主義社会の因習をひきずった『村落共同体の迷信偏見・差別意識』によって、『龍臥亭幻想』の陰惨な事件の条件が準備されることになる。

閉鎖的な村社会で謂われなき偏見や差別を受けながらも明るさを失わずに逞しく生きてきた女性、昔話の留吉のエピソードに出てくる『場所と収穫率の悪い田畑』を引き継いだ家系の経済的困窮、村人の弱みにつけこんで人々を様々な形で苦しめて貶める村の外部からやってきた男、そして、古くから伝わる関森孝と鎧にまつわる不気味な伝説、それらの『断片的なピース』が次第にぴったりと組み合わさっていく中で、物語の悲しい全貌が浮かび上がってくる。しかし、すべての謎と動機が綺麗に解き明かされるエピローグでは、独特の静かなカタルシスを感じることができるだろう。










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■書籍紹介

龍臥亭幻想(上) (光文社文庫)
光文社
島田 荘司

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