ロック,ルソーの社会契約論(民主主義)とプルードンのアナキズム、ヘーゲル哲学についての考察

ジョン・ロックは立憲政体における『自由主義・個人主義』にもかなり強くコミットしているが、ジャン・ジャック・ルソーは厳密には『個人の人権』を最優先する自由主義の思想家とまでは言えず、社会契約に基づく『一般意志の実現』を至上命題とする民主主義者(人民政府の推進者)という側面が強い。

その一方で、一般意志を導く社会契約の内容を『自然権(人権)の相互承認』とするのであれば、自然権の相互承認(人権の不可侵性)を実現する限りにおいて『一般意志(人民政府)は常に正しい』ということになり、ルソーもロックと同じく自由主義者であると考えても良いのではないだろうか。

ここまでロックとルソーの社会契約論を見てきたが、ここで重要になるのは『普通選挙を備えた民主主義政治』という制度的手続きではなくて、『一般意志(人権の承認)を実現する民主主義政治』でなければ、政治の暴走のリスクを未然にヘッジすることはできないということである。

民主主義政治で議決された法案は常に正しいということを全面的に認めるのであれば、ナチス・ドイツのファシズムや大日本帝国の軍国主義、フランス革命の恐怖政治も民主的手続きを経ているので正しいということになるのだが、この民主的な手続きは『全体意志の反映』に過ぎないので常に正しいとまでは言えない。『多数派の専制』によって反対派や少数派の生命・財産の自由まで奪われてしまうということになれば、そもそも社会契約を結んで国民主権の民主国家を創設するという動機づけに無理がでてくる。

現代でも民主主義は『多数決ゲーム』でマジョリティ(多数派)の判断が常に正しいと勘違いされていることもあるが、それは近代思想以前の古代ギリシア的な民主主義体制における『古い正しさの基準』ということになる。ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーが構想した民主主義は正確には『自由民主主義』と解釈されるべき制度であり、『多数決ゲーム』でも否定できないものとして社会契約の根本動因である『個人の自然権(自由権)』を措定しているのである。

その意味では、第二次世界大戦後の民主主義国家には、『民主主義(全体意志の反映)』よりも『自由主義(一般意志の反映)』が優越する仕組みが備わっており、多数派ゲームの勝者によっても、個人の基本的人権を侵害することができないという立憲主義の制約が厳しく掛けられている。故に、自由民主主義国家では99%の有権者(国民)の賛同を得たとしても、マイノリティや特定の個人・集団を弾圧するような恐怖政治(政治的な粛清)は常に不正なものと判断されることになり、極端な圧政に対する革命・抵抗などの非常事態を除いては『多数派の専制』を抑制することができるのである。

ロックやルソーは民主主義政治の目標を、『自由かつ平等な個人の状態(起源としての自然状態)』を実現するための社会契約に求めたが、現実の社会・政治では『個人の自由』『個人間の平等』の両立は一般的に困難である。その為、『近代社会とマルクス主義』で書いたように、18~19世紀以降の政治思想は“個人の自由”を志向する『古典的自由主義・資本主義』と“個人間の平等”を志向する『共同体主義・マルクス主義(共産主義)』に分離してくる。

自由主義思想の中でも極端に“個人の自由”を重視する思想として、『リバタリアニズム(自由至上主義)』『アナーキズム(無政府主義)』があるが、リバタリアニズムは『最小国家論』に近い考え方で、軍事・警察など最低限度の国家権力は承認する。アナーキズムの代表的な思想家にはピエール・ジョセフ・プルードンやミハイル・アレクサンドロビッチ・バクーニン、ピョートル・アレクセイビッチ・クロポトキンなどがいるが、彼らの思想は無秩序状態を志向する無政府主義というよりは、道徳的かつ理性的な個人によって自治的に構成される牧歌的なコミュニティを志向するものである。

リバタリアニズムは一般的に個人の自由を最大限に承認する自由主義思想であると説明されるが、アナーキズムは個人の自由を制約する一切の集団権力を排除する自由主義思想であるとされ、『各個人による各個人の理性的・倫理的な自己統治』によって無政府状態でも最低限度の社会秩序を維持できると説く。フランスのアナキストであるプルードン(Pierre-Joseph Proudhon,1809-1865)は、『19世紀における革命の一般理念』でフランス革命の詳細な分析を行っているが、プルードンは政治体制による秩序形成を『権威の制度』『自由の制度』にそれぞれ分類している。

プルードンは権威の制度に『君主制(個人による万人の統治)』『共産主義(万人よる万人の統治)』を分類し、自由の制度に『民主主義(各個人による万人の統治)』『アナーキズム(各個人による各個人の統治)』を分類している。

プルードンはアナーキズムの実現可能性を政治権力を排除した『経済取引(財の交換)の社会』に求めて、個人の知性・道徳性を極度に高めれば『強制力(権力)を最小化した共同体』を構築することが可能と考えていたようである。だが、『人間の欲望の多様性』や『情緒的な関係性の複雑さ』、『道徳家・知性化を拒む個人』については十分な分析を行ったとは言えず、アナーキズムでは利益や情緒、個人の暴力(犯罪)を巡る利害対立を調停することが困難なのではないかと思う。

バクーニンは近代社会の人民を管理・統治する根拠を創出する『自然科学・科学技術・テクノクラート(官僚的な専門家集団)・知識人』を厳しく批判したアナキストとして知られる。バクーニンはソ連の官僚支配体制(官僚の特権化)を見て、人間の自由を実現するためには『生産手段の所有権』が問題なのではなく『経営管理・技術の権限』を各個人が持てるか否かが問題なのだということを主張した。

クロポトキンは個人が承認(同意)しない一切の強制・義務・刑罰を廃絶した『無政府共産主義』を構想した理想主義者として知られるが、クロポトキンは『政治的な強制力』の代わりに『共同体的な排除力(村八分のような裏切り者の放逐)』によって社会秩序を維持しようと考えていた。

クロポトキンのアナキズムは全体主義的(共同体主義的)な同調圧力で秩序を形成しようとするものであり、ルソーの言う『全体意志』がむき出しになって支配する社会に近い。そのため、中央集権的な政府(政治権力)が存在しないといっても、『個人主義・自由主義』との相性が必ずしも良いとは言えない。プルードンやバクーニンのアナキズム(無政府主義)は、精神の自由と人格の尊厳、従属を強いる関係性(権力機構)からの独立を目的とする自由至上主義的な政治思想である。しかし、クロポトキンの無政府共産主義は『世論・共同体が持つ排除の論理』を中心にした体制を仮定しており、ある意味で『法の支配・政府の統治』よりも息苦しくて自由の乏しい政治体制(=村社会の論理)のように映る。

社会契約論によって『宗教・王権・身分・慣習』によるデフォルトの支配権力が無効化され、『主権在民の民主主義政治・人民の自然権の委譲』に基づく政治権力(近代国家)が確立することになった。ホッブズ・ロック・ルソーの社会契約論は、『人民の相互契約』によって個人の自然権を国家(政府)に委譲することで、『政府の正当性(社会秩序)』が確認されると説く。実際の政治プロセスとしては、普通選挙を介在した代表者による議会政治(政府への信託)か、国民投票による直接民主制の意志決定によって政治判断が為されることになる。

産業経済(ブルジョア市民階級)の発達や近代啓蒙思想の歴史的な成果が、清教徒革命(1642-1649年)前後のイギリスにおいて、議会が国王権力を抑制した『権利の請願(1628年)』であり、国民の政治的な活動によって政府から生命・身体の自由が侵害されてはならないという『人身保護法(1679年)』である。更に、名誉革命(1688年)の後に、国民すべてに基本的な自由と権利を保障することを誓う『権利の章典(1689年)』を発布している。

第三身分(平民・農民・労働者)の権利を拡張しようとするフランス革命(1789年)が勃発したフランスでも、すべての人民の自由と権利、機会の平等を保障する『フランス人権宣言(1789年)』が出され、イギリスの不文憲法(慣習法)ではない明文化された成文憲法である『フランス憲法(1791年)』が制定されたのである。

イギリスとの独立戦争に勝利し、市民の自由と共同体的な自立・自治を守ったアメリカでも、1776年に『アメリカ独立宣言』が出され『バージニア権利章典』が承認された。1788年には、基本的人権の理念を掲げた世界初の近代的な成文憲法となる『アメリカ合衆国憲法』が制定されることになり、1791年にはロックの革命権(人民の武装権)の理念や信教の自由、司法権の令状主義などを確認する『10ヶ条の権利章典(合衆国憲法の修正条項)』が追加されている。

『自由・権利の相互承認』を実現する近代国家によって隷属的状況から人間を解放できるとしたG.W.F.ヘーゲルは、『人倫国家』『市民社会の法(法の下の平等な人格の尊重)』によって前近代的な暴力の秩序形成原理を乗り越えられることを示唆している。

ヘーゲル哲学の新規性と近代的価値は『人間』と『法』の本質を『自由への志向性』に求めた部分にあり、『家族→市民社会→人倫国家』という絶対精神の展開は“国家の統治”ではなく“自由の実現”にこそその本質が見出されるべきなのである。人間を包摂するヘーゲルの『絶対精神』は自己・自由を普遍化して展開するために、『自由を保護する人倫国家』へと必然的に行き着くが、国家の存在意義は個人の自由を支配することにあるのではなく、個人の自由の可能性を促進するためにある。そういった方向でヘーゲルの『精神現象学』を解釈するのであれば、ヘーゲル哲学と自由主義的な近代国家(福祉国家も含め)は無理なく接合することができる。

ジョン・ロックもジャン・ジャック・ルソーも共に、『個人の自然権(実力行使の権利)』を政府(国家)に委譲するという市民相互の契約によって、正統性のある政府(政治権力)が成立するという社会契約論者だったが、社会契約論は自由・平等な市民(政治主体)によって構成される『市民社会』『法の支配(コモン・ローの有効性)』をベースにした仮説である。










■関連URI
ジョン・ロック,ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論と一般意志に基づく民主主義政治についての考察


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“歴史の終焉・共同体の衰退”を予感させる近代社会の閉塞感と自由の原理を使いこなす難しさ

■書籍紹介

政治学 (New Liberal Arts Selection)
有斐閣
久米 郁男

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