『哲学』と『宗教』の違いとは何か?:マルクス主義の挫折と『近代』という思想哲学の到達点

『哲学とは何か?』という問いに一義的に答えることは難しいが、哲学の実践的側面における最大の成果・実績は、『近代社会の根本原理』を呈示して権力による個人の支配(人間の道具的利用)を大幅に制限したことにある。知を愛する哲学は、宗教の子であり科学の親であるが、形而上学的な『真理(現象を規定する背後世界)』を探究するという意味での哲学は既にその役割を終えた観がある。

同じ真理を目標にしてきた『宗教』『哲学』の違いは、変更不能な絶対的価値としての『神・教祖・教義』の有無にあり、宗教は教えを信じることによって真理に近づこうとし、哲学は自分の頭で考えることによって真理に近づこうとする。哲学では主体的・論理的な思考によって『過去の理論・主張』を書き換えて厳密性を高めることが可能だが、宗教では人間個人が自分の思考や判断によって『過去から伝承される教義・物語の体系』を勝手に書き換えることはタブーである。

宗教では『神・教祖・慣習』の権威が、絶えず個人の『思考・論理・検証』の確からしさを超越するので、原則的に宗教は過去に規定された『物語的な理論・教義』を反証的に書き換えることができない。

時代が古ければ古いほど、神・教祖の原点に近づくほど宗教における真理性は高まるが、哲学では時代の最先端の発見や社会風潮の変化も取り込みながら、より普遍妥当的な理論・概念を構築しようとする。宗教は『物語的・教条的な説明』によって世界の構造や善悪の区別を絶対的に定義するが、哲学は『概念的・論理的な説明』によって世界の構造や善悪の構造を説得的に仮定するという特徴を持つ。

哲学とは論理的・説得的な言語ゲームによって、言語・文化・宗教にできるだけ依拠しない『普遍妥当的な言説(解釈)』を思考して構築する営みであり、順序正しく読み進めていけば誰もが了解できるような論理の筋道を立てることである。宗教は慣習的・教条的に信じる人たち同士で共有できる『真理性・物語』を呈示していくが、哲学は論理的・了解的に誰もが納得せざるを得ないような『普遍性・共通概念』を呈示することが目的である。宗教の本質は『無私的な信仰・受容』にあり、哲学の本質は『論理的な懐疑・批判』にあるが、哲学の場合には『信じる・信じない』とは関係なく、言説の内容を順番に読んでいけば、誰もが論理的な思考の流れとしてその内容に同意するか否かはともかく知的に了解することができる。

哲学の起源は、古代ギリシアのターレスやアナクシメネスなど自然哲学にあるとされるが、紀元前6世紀の自然哲学がより起源に近いからといって、近代以降の哲学で宗教の創始者のような『権威的な地位』を占めることは全くない(哲学の参考URL)。イスラームの『コーラン(アル・クルアーン)』やキリスト教の『旧約聖書・新約聖書』に宿っているとされる神聖な権威性・教条性というものが、特定の哲学者や哲学書に対して宿ることは通常ないのである。

稀有な例外として、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス『資本論』『共産党宣言』があり、マルキシズム(マルクス主義)は史的唯物論に反する『宗教』をアヘンとして排斥しながら、自らが反論・修正を許さない宗教的教義と化したと揶揄されたこともあった。

マルキシズムは例外的に宗教的な権威性と絶対性を帯びた哲学的営為の産出物と言えるが、純粋な『哲学』というよりは、共産主義社会の建設を目指す『政治思想(イデオロギー)』としての趣きが強い。マルキシズム(共産主義思想)は、資本主義経済を否定する暴力的・党派的な煽動や革命と不可分に結びついており、ソ連や中国において独裁権力の正当性と思想(共産主義)が癒着したために、反対者の粛清・弾圧も辞さない宗教的なドグマに接近した。

マルクスの共産主義のビジョン自体はオリジナルなものではなく、自由で平等な理想社会建設を想像力豊かに掲げたフランスのシャルル・フーリエサン=シモンに代表されるユートピアニズム(空想的社会主義)の系譜に連なる。マルクスやエンゲルスは空想的社会主義を批判して、理想的な社会主義社会を実現するための科学的・具体的な実践方法を構想したが、マルクスとエンゲルスが理論化した暴力革命を起点とする『科学的社会主義』は実際には上手く運用することができなかった。旧ソ連を盟主とする東欧の共産主義圏は、多くの非効率・悪平等と自由の抑圧、特権階級化した共産党(官僚機構)の腐敗構造を生み出して崩壊した。

旧ソ連・中国では共産党・国家主席(総書記)に言論で反対しただけで、個人の生存権さえ否定され兼ねないということから、『個人の人権の相互承認』を前提とする近代啓蒙思想の理想地点からは後退した観がある。マルクスの思想・哲学の最終的な目的は皮肉なことに『人間全員の自由の解放』にあったのだが、絶対権力によって『経済的な平等』を追求すればするほど、全体主義的な統制が強まり『精神的な自由』が失われていくことになった。

精神的な自由の喪失は言論・表現の自由の弾圧を生み出す、マルクスのラディカルな思想・哲学の営為は『精神的な自由』に支えられていたが、マルキシズムが実験的に適用された社会主義国家では、マルクスが理想社会をイメージして思索したような『哲学をする自由』も抑圧される結果になった。

古代哲学や中世哲学には、神学(宗教)と未分離な思考様式や学説の体系も多く見られたが、古代ギリシア哲学に『哲学の原型』が求められる最大の理由は、ギリシア神話のような物語的説明を用いずに、『概念・論理』によって世界の成り立ちや社会の構造、人間の本質を説明しようとしたことにある。

ソクラテスが『産婆法(反駁法)』と呼ばれる対等な立場での議論を真理探究の方法に選んだように、古代ギリシア哲学の原点は公共圏として機能した『アゴラ(広場)』における市民の議論にある。他者と公共空間で意見の正当性や論理の整合性をつき合わせて議論できる『言論の自由・表現の自由』が保障されていなければ、『哲学の営為』は成立しないのである。哲学の原理的な役割と歴史的な共同体の衰退、他者と共通する“生の意味”の欠落について追記するかもしれません。










■関連URI
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■書籍紹介

中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)
筑摩書房
竹田 青嗣

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大人こそ読むべし○○ ...
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