松尾剛次『破戒と男色の仏教史』の書評1:日本仏教の戒律の歴史と宗性の童子(稚児)との男色

『戒(シーラ)』とは個人が自分で守ることを誓う内的な倫理規範であり、『律(ヴィナヤ)』とは違反に罰則を伴う僧侶集団(サンガ)の規則であるが、日本の古代仏教で尊重された戒律の原典は『四分律(しぶんりつ)』『梵網経(ぼんもうきょう)』である。

『四分律』では男性の比丘(びく)に250戒、女性の比丘尼(びくに)に348戒もの信仰・修行の生活に関わる細かな禁止事項が授戒される。女性の僧侶のほうが戒が多いのだが、これは、女性のほうが罪深く煩悩が多いという古代インドにおける女性差別の名残とされる。釈迦自身も比丘のほうが比丘尼よりも悟りに近いと考え、女性の出家・悟りの可能性に対しては消極的であったという伝承が残されているが、日本仏教でも男女の性別にこだわらない『極楽往生・解脱の道』が示されるには、平等な衆生救済を本願とする『鎌倉仏教(浄土真宗系・日蓮宗系)』の誕生を待たなくてはならなかった。

在家信者には『五戒(不殺生・不邪淫・不偸盗・不妄語・不飲酒)』が与えられたが、本来は五戒のうち『不殺生・不邪淫・不偸盗・不妄語』に違反した出家僧は、『波羅夷罪(はらいざい)』で教団を追放されるという処罰を受けていた。平安時代の中期以降、武士が台頭して『混乱の中世』へと時代が進んでいくが、『僧兵・破戒僧』が増大した中世寺社勢力は、禁欲的な戒律の護持よりも武装・権益による実利を重んじるようになっていく。

奈良に唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立した中国の高僧・鑑真(がんじん)は、日本に授戒制度(戒壇制度)を初めて導入した人物である。東大寺の大仏を建設した聖武上皇・光明皇太后も、鑑真から菩薩戒を授戒していることから、当時、正式な戒律の授与がどれだけ権威ある儀礼だったかが伝わってくる。755年に東大寺戒壇院が建設されて、国家の正式な官僧となる者は、この戒壇院で『三師七証(10人の高僧)』の立ち合いを受けて受戒することになる。

10人も師匠・先輩の僧侶が立ち会って通過儀礼としての授戒をするのは手間がかかるということもあり、次第にこの戒壇院での授戒儀式は簡略化されていき、『戒壇授戒(他受授戒)』から『自誓授戒』へと切り替える僧侶も出始めた。戒壇授戒(他授受戒)というのは、寺院の戒壇院で師の僧侶(戒師)から戒律を儀礼的に与えられるということであり、自誓授戒というのは、自分で戒律を守ることを誓って仏・菩薩から直接的に戒律を授与されるということである。

一見すると、厳かな儀式を通して師匠・先輩の僧侶から戒壇院で戒律を授けられたほうがきちんとしているように思われるが、実際に戒律復興運動を指導して熱心に戒律を守ることの重要性を説いたのは、戒壇制度にこだわらず自誓授戒した僧侶たち(公務員の官僧ではない僧侶)であったことが面白い。

8世紀・奈良時代の古代日本では、鑑真によっての3つの国立戒壇(奈良の東大寺・九州の筑前観世音寺・関東の下野薬師寺)が建設されたが、国立戒壇の最も大きな弊害となってくるのは官僧の年功序列制度(序列決定原理)に当たる『戒臈(かいろう)』であった。

早く戒壇授戒を受けた僧侶は、遅く戒壇授戒を受けた僧侶よりも、僧侶集団内での『席次(格)』が上になるという戒臈の年功序列によって、官僧(公務員の僧侶)は戒律を護持して悟りを目指そうとするモチベーションが弱まったのである。形式的に戒壇授戒を早く受けたか遅く受けたかによって、『僧侶集団内での序列・身分』が決まるので、戒律を厳密に守ったり衆生救済に乗り出したりしなくても、出自・戒臈がある程度良ければそれ相応の地位に就くことができたからである。こういった官僧の年功序列制度では、『戒臈(授戒の年次)』による出世昇進を気にする僧侶は増えても、積極的に持戒に努めたり衆生救済に乗り出したりする僧侶は出てきにくい。

比叡山延暦寺(天台宗)の始祖・最澄(さいちょう,767-822)は、出家者の悟りのみを目的とする小乗仏教の『四分律の授戒』を否定して、衆生を苦から救済する大乗仏教の『梵網経の授戒』を行おうとする。『第一章 持戒をめざした古代』は、最澄の死後に最澄の怨霊化を恐れて『延暦寺戒壇』が建設されたというところで終わるが、10~11世紀頃には日本の仏教界は僧兵集団(延暦寺・興福寺)の形成や男色(稚児愛)の流行によってかなり破戒の風潮が広まっていたようである。

中世仏教界でどういった破戒が行われていたのかの具体的な事例については『第二章 破戒と男色の中世』が参考になるが、ここでは学僧として高名な東大寺別当の宗性(そうしょう,1202-1278)の数々の破戒行為が資料を元に挙げられている。宗性が自己の過ちの反省や善行の目標を1258年に書き記した『禁断悪事勤修善根誓状抄(きんだんあくじごんしゅぜんこんせいじょうしょう』には、以下のような36歳の時の誓願が残されている。


五箇条起請のこと

一.四十一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。

二.現在までで、95人である。男を犯すこと100人以上は、淫欲を行うべきでないこと。

三.亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。

四.自房中に上童を置くべきでないこと。

五.上童・中童のなかに、念者をつくらないこと。

右、以下の五ヵ条は、一生を限り、禁断すること以上の通りである。これすなわち、身心清浄・内外潔斎し、弥勒に会う業因を修め、兜率天(とそつてん)に往生を遂げるためである。今から後は、この禁断に背くべきでないこと、起請は以上の通りである。

嘉禎三年十一月二日

沙門宗性(花押) 生年三十六


『破戒と男色の仏教史』のP75より引用


95人の相手と男色関係を持った36歳の宗性の地位は『伝灯大法師位』で平僧に過ぎなかったが、当時は中級貴族出身のそれほど出世頭ではない僧侶にも男色の機会が少なからずあったことを伺わせる。女性が好きな異性愛者でも95人もの相手と関係を持つことは少ないが、宗性を例外的に好色な僧侶と仮定しても、中世寺院社会における男色行為は、平均的な現代人の想像力を遥かに超えた普及をしていたと考えることができるだろう。

では、僧侶の男色行為の相手になっていたのはどんな人たちだったのかという話になるが、これは師僧に仕える未成年の男児(稚児・童子)が多く、この男児の外見は『長い髪・鉄漿(おはぐろ)・化粧・小袖』という感じで女性に見えるように整えられていた。男性と女性という性別を超越した『中性的な聖性』が男の童子(稚児)には宿るとされていたが、寺社・師僧に仕える童子(稚児)は『配膳・給仕・娯楽的な技芸(笛・筝・舞)・男色』など様々な役割をこなしており、上童・中童子・大童子というランク分けが為されていたという。寺社に入門する稚児の年齢は10~15歳が平均であったとされる。

現代的な倫理観からすれば師僧と童子(稚児)の関係は単なる児童虐待となるが、当時の制度化され慣習化された『中世寺社世界の少年愛』は、実質的な破戒行為ではあっても僧侶間では暗黙の了解として看過され『寺社文化』として定着していた。女性でなければいいだろうという不邪淫戒の強引な解釈もどうかとは思うが、実際には、13世紀以降には師僧が女犯(にょぼん)の戒律に違反して子どもを設け、仏弟子となった僧侶の子が『真弟子(しんでし)』と呼ばれることもあったという。第二章では、実際の稚児がどんな姿で僧侶に仕えていたのかという絵画史料として、『春日権現験記絵(かすがごんげんけんきえ)』が挙げられている。






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■書籍紹介

破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)
平凡社
松尾 剛次

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