京極夏彦『邪魅の雫』の書評:“毒の雫”を持つことによる危険な誘惑と男女の別離に絡みつく情念

陰陽師の拝み屋で古書店を営む中禅寺秋彦(ちゅうぜんじあきひこ)が、“言葉の呪力”で『憑き物落とし』をする京極夏彦の京極堂シリーズを何年ぶりかに読んだ。想像妊娠をトリックに用いた『姑獲鳥の夏(うぶめのなつ)』や戦時中の科学研究が絡んだ奇怪な事件を題材にした『魍魎の匣(もうりょうのはこ)』から京極堂シリーズを読み続けているが、最近は新作が出たからといってすぐに読むというわけでもなくなっている。

『邪魅の雫』のページ数は約800ページで、空き時間を見つけて急ぎ足で読んでも読了まで三日間くらい要したのだが、内容は独我論に囚われて現実認識能力を失った画家・西田が登場している点が前作の『陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず)』と共通点を持っているように感じる。『陰摩羅鬼の瑕』は、外界と殆ど接触したことのない儒学者の由良昂允(ゆらこういん)伯爵の花嫁となる女性が次々に殺害されるという事件がテーマになっているのだが、由良は自分の館の外部の社会や常識を全く知らない特異な学者として描写されている。

本作に出てくる画家・西田も、結核療養によって徴兵を免除され(京極堂シリーズの時代設定は戦後間もない時代である)、外部社会の現実や人間関係と接触する機会を失った特異な人物であり、衆議院議員の資産家の子息であることから社会で働く必要のない画家としての人生を送っている。写実的な静物画を専門に描く画家としてのキャリアは積んでいるが、西田は『異性を好きになるということ』がどういうことなのかも分からないという生活を長年送っているという非現実的な設定であり、前作の由良と西田は『現実社会から懸隔しているという共通項』を持つ。

京極夏彦がどうしてこういった現実認識と他者のリアリティを喪失した人物像を好んで描くのかという理由はいろいろと考えられるが、哲学の『主客問題・R.デカルト以降の独我論』にひっかけているというのが一つの理由であり、外部世界や他者の刺激とまったく接触しない『人間の精神』は極度に内向して病みやすいということである。この世界が“私の意識(自我)”のみによって生成されるという独我論や自我中心の世界観の文脈で読む素地があれば、由良や西田のようなキャラクターの創作について面白いと感じることができるだろう。

そうでなければ、『外部世界や他者の実在性を認めない人間がいるはずがない』という話で終わることになるが、画家の西田は自分が愛していた絵のモデルの真壁恵(まかべめぐみ)が殺された時にも『彼女が亡くなった』と認知できずに、『自分の完全な世界が欠損した』という風に認知するような人物として描かれている。

変化と刺激のない完全な秩序を持って静止していた『西田の独我論の通用する世界』に、原田美咲という画商の斡旋で真壁恵というモデルの女性がやってくるのだが、静物画しか描かなかった西田が人物画を描きだした時に、西田の静止していた世界の秩序が緩やかに流動し始めることになる。西田の世界から恵が消え去った時に、それまで自覚したことのなかった『漆黒の雫』が西田の精神内部に充満し始め、西田を激しい殺意に駆り立てることになる。

京極夏彦は『独我論的な認識の誤謬・驕慢』について、冒頭で『砂浜(世界)』『砂粒(自我)』のメタファーを用いて以下のようなモノローグを記している。



人は、誰しもそうした勘違いをして生きている。
否、勘違いをしなければ生きて行けぬものであるらしい。

自分は特別だと、自分と世界は同等だと、自分が世界の真ん中に居るのだと、そう思い込まなければ生きて行くのが難しい時と云うのは、矢張りあるのだ。逃避することで漸う(ようよう)向き合える現実と云うのもあるだろう。

何しろ――。
私達の掌(たなごころ)にはひと粒の砂しかないのだから。
だから私にとって、否――誰にとっても、そのひと粒が何ものにも替え難い、特別な砂粒であることは疑いようがないことなのだ。

何しろ、それ以上の、そしてそれ以外の砂粒を手に入れることは、私達には決して出来ないことなのであるから。
それは、特別なものであるに違いない。

私にとっても、貴女にとってもそうだったのだろう。でも、それは私や貴女にとって特別なものだと云う、それだけのことである。
砂粒は所詮砂粒に過ぎない。

当人以外の凡ての者にとって、それは特別なものではあり得ないのだ。それは他者から見れば只のつまらない砂粒でしかないし、砂浜から見れば無限分の一のボリュウムしか持たない、要らぬものでしかないのだ。

だから。
それは逃避なのだと、それは勘違いなのだと、そして自分以外の誰もがそうした勘違いをしているのだと――きちんと識っていたなら、それはそれで良かったのだろう。

でも、私は解っていなかった。
その場合、錯覚は驕りともなる。

凡ては自分のボリュウムを無限に拡張しただけの驕慢、現実逃避の幻影に過ぎないからだ。
私は驕っていた。何も解っていなかったのだ。

己こそが砂浜と思い込む者にとって、他者は遍く砂粒としか認識出来ないだろう。

己にとって特別な価値を持つ者――己の一部となった者以外は、皆、くだらない砂粒に見えてしまうのだ。己を砂浜だと勘違いしている限り、自分以外の者は世界――自分を構成する一要素――砂粒に過ぎないのだから。

自分もまた砂粒に過ぎないと云うのに。


京極夏彦『邪魅の雫』 p10-p11より引用


『邪魅の雫』は過去の作品である『絡新婦の理(じょろうぐものことわり)』と同じく非常に複雑な人間関係のプロットが敷かれていて、その人間関係を解きほぐすことによって最終的な事件の真相が暴かれるという構造を取っている。事件の根幹にあるのは、『探偵・榎木津礼二郎の縁談』『戦時中に軍が開発していた青酸系の毒』であるが、致死性の毒を精神状態が不安定な個人が保有することの危うさ、破滅的な誘惑についても興味深い心理描写が為されている。

この事件には本当の意味での真犯人というのは存在せず、『死が凝縮された雫(青酸系の化学化合物)』に魅せられた複数の人間が、誰に強制されるでもなく自発的に次々と他者を殺害する恐ろしさと罪の意識の弱さが強調されている。

物理的な破壊や刃傷沙汰の暴挙には無い『邪魅の雫(毒物)』の誘惑の強さというのが一つの主題になっていて、毒殺の卑劣さと犯行意志の曖昧性に焦点が当てられているのだが……意志の弱い者、現実感覚が弱っている者が“致死性のある毒”を所持した時の『計画性‐衝動性の両価性』に関係する葛藤が、鉛のような感情のない目をした酒屋の店員・江藤徹也(えとうてつや)という人物を通して書かれている。毒殺の特殊性というのは、刃物や殴打とは違って『その場の激情・衝動から遠い心理』の下で犯行が行われるということであり、そこに一定以上の『計画性の存在』があることを論理的に否定しきれないということである。

また、毒を冷静に用いる為にはその場でカッとなって激昂するのではなくて、『殺意・憎悪・怨恨の持続性』が無ければならず、騙し討ちにも似た卑劣な『毒殺の歴史』は時の有力者を密かに暗殺するという人類の歴史(政治権力の闘争の歴史)とパラレルなものである。本作の事件の背景には『悪意の持続性』と並列する『消え去らぬ色恋の未練・情念』があるわけだが、クライマックスでは卑劣な謀略を駆使せざるを得ないほどの『色恋の情念』に冷水が浴びせかけられることとなる。

公爵家の華族で榎木津財閥の御曹司である榎木津礼二郎(えのきづれいじろう)は、『相手が過去に見た対象や映像』をそのまま見ることができるという特殊能力を持つ探偵であるが、傲慢不遜かつ傍若無人なキャラクターで一貫して描かれている榎木津礼二郎の『過去の異性関係』が少し紐解かれるのが本作の面白い部分かもしれない。相次いで発生する毒殺事件は、榎木津礼二郎の元に来ていた『良家の令嬢との縁談』の周囲で起こっているものが多いのだが、初めから結婚する気など毛頭ない榎木津の縁談を意図的に潰すだけの理由は見当たらなかった。

最後は、黒衣の装束をまとった京極堂(中禅寺秋彦)の『憑き物落とし』の流麗な語りによって事件の物語が滔滔と語られ、公序良俗・人倫道徳・法律の範疇から外れた『ある女性の情念=邪な想い』が静かにその実態を現してくる。事件の登場人物の数が多いこと、“偽名”を使っている重要な役割の女性が登場すること、“語り手の視点”で物語の見え方が変わることによって『複雑奇怪な物語の世界(誰が誰だか分からないような入り組んだ人間関係)』が巧みに構築されているが、京極堂の理路整然とした語りによって『客観的な人間関係の相貌(登場人物のそれぞれの立場と関係)』が浮き出てくるクライマックスには爽快感がある。毒の魅惑と消えない情念(男にとっても女にとっても)を巡るミステリーとして読み応えのある作品に仕上がっている。






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■書籍紹介

邪魅の雫 (講談社ノベルス)
講談社
京極 夏彦

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