伊坂幸太郎『重力ピエロ』の書評:性愛・家族・内面の倫理を巡って紡がれる『罪と罰』の物語

伊坂幸太郎のミステリー小説を初めて読んでみましたが、軽快で読みやすいウィットの効いた文章と個性的な登場人物の取り交わす哲学的な会話が印象に残る作品で、『性』『生』の悲愴感溢れる相関を照射しながら進むストーリーは人を引き込むものがあります。現代小説で人気の高いベストセラー作家には、東野圭吾や宮部みゆき、桐野夏生、重松清など色々な作風の小説家がいますが、伊坂幸太郎もそれらの作家と並ぶような『創作世界への誘引力』を持っており、物語の先を知りたいと思う読者の視線と時間を心地よく奪っていきます。小さな謎解きと知的でシュールな雑談を効果的に組み合わせながら、最後まで物語をきっちりと読み切らせる筆力、劇画的なエンターテイメントの中に社会的な問題意識を何気なく滑り込ませる技術はかなり高いです。

『重力ピエロ』はグラフィティアート(街の落書き)で放火場所が予告される『連続放火事件の謎解き』という大枠の物語構成を持っていますが、その根底にあるのは春(はる)の自らの生物学的ルーツを巡る倫理的な葛藤であり、現代におけるイレギュラーな家族像の呈示によって『家族・兄弟の結びつきの本質』について再考させられます。兄の泉水(いずみ)と弟の春(はる)は強い信頼で結ばれた異父兄弟ですが、春は優しい母を突然襲った性犯罪によってこの世に生を受けたという逃れがたいスティグマ(社会的烙印)を背負った存在として創作されており、『性的(他者欲望的な存在)』であることを回避できない人間の本質(快楽・優越感への志向性)に強い憎悪と絶望を抱いています。

容姿端麗で芸術的才能に恵まれ野性的な魅力を漂わせる春は、学生時代から女性の視線を惹きつけてモテるタイプでしたが、否定したい自らの原点(出生)にある『生物学的な父』の邪悪な性欲を徹底的に嫌悪しており、自らが生物学的父と同じ『性的人間』ではないことを立証するために一切の女性との係わり合いを断ち切っています。物語の冒頭では、高校生の春が同級生の生意気な女子生徒を集団暴行する計画を立てていた三人の男子生徒を、思い出の詰まったジョーダン・バットで不意に滅多打ちにして卑劣な計画を実力行使で阻止する場面が描かれ、春の善悪の基準のほぼすべてが『性』と相関していることが示唆されます。

歴史的に繰り返されてきた人類の『悪』には『性欲』が分かちがたく結びついているという春の信念は、自分の人生から性欲を完全に排除しようとしたインドの聖人マハトマ・ガンジーへの敬愛へと行き着き、あれほど性的なものを遠ざけていたガンジーが晩年に若い女性を添い寝させたという矛盾に懊悩します。春は繰り返しガンジーのアフォリズムを引き合いに出して、性欲を根絶しようとする聖者の境地へと自らをストイックに引き上げていきますが、それは『性の欲望』そのものへの憎悪であると同時に『自己の起源(ルーツ)』に対する父の罪悪との対決となっています。生物学的な父が犯した罪を春が背負う必要性は全く無いのですが、父と子というDNAの繋がりを心理的に否定しても科学的には否定し得ないという現実性が春を苦しめます。『お前に責任はないんだから気にすることはない』という他者の自分とは無関係な言葉によって、春の自己存在に対する罪の感覚が免罪されることは無かったのです。

暴行で妊娠した春を中絶しなかった母を奇異な目で見つめる周囲の人間の差別や侮蔑の視線が、暗黙裡に春の遺伝的なルーツに内在する罪悪を指弾するかのような重圧となってのしかかります。過去の事件の経緯を知っている大人たちの多くは、『表面的な節度ある対応』の背後に『春と母親に対する差別感情』を隠しており、それを敏感に察した子ども時代の春は『出自に内在する他者(父)の罪悪』に呪縛されざるを得なくなります。元々強迫的なパーソナリティを持ち、倫理的にも過度な潔癖性を有する春は、『罪に対する罰』を常に意識しています。多くの人が異性との恋愛の中で自然に信じるようになる『性』と『愛(喜び)』の結びつきを信頼できず、『性』は必然的に他者を痛めつけて侮辱する『暴力(一方的快楽)』に行き着くという信念が、春を異性や世俗社会から遠ざけます。

春は古今東西の哲学書や文学書を読み漁って、人間のセクシュアリティ(性的事象)の本質を探究しており、『性の知的理解』によって性欲のメカニズムを掌握し、性のイメージと記憶に内在する不快な罪の感覚を克服しようとします。男女間のセックスを促す恋愛感情を『遺伝子保存の手段(利己的な遺伝子に組み込まれたメカニズム)』と解釈するリチャード・ドーキンスの学説とレフ・トルストイの『クロイツェル・ソナタ』のエピソードを引いて、春は『それでも、なぜ我々(わたし)が存在しなければならないのか?』という実存的な問いに向き合います。春の人格の中核には、マハトマ・ガンジーの欲望の抑制を最重視する平和主義・非暴力主義があり、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉が発布した『生類憐みの令』にも強い共感を覚えています。

温厚で知的探求心の強い公務員の父と優しくて美しい母は、春を自分の子として深い愛情を注いで育てましたが、母は既に亡くなり父は過去に患った胃がんが再発して厳しい病状にあります。最終的に春を産むことを決断したのは父のほうであり、父は特別な信仰がないにも関わらず内面的な神との対話の中で『自分で考えろ!』という神の怒鳴り声を聞き出産を決めたのでした。

この辺の倫理感覚は余り日本的な宗教文化との親和性がなく、ドストエフスキーの『罪と罰』に啓示されたキリスト教的な背景を持つ内面倫理に近いものがありますが、『重力ピエロ』全体のストーリー構成も現代版の『罪と罰』として解釈できる要素が多くあります。現代版の罪と罰はドストエフスキーの作品とは異なり、『罪を犯した本人(ラスコーリニコフのような主人公)』が普遍的な倫理(=神の視点)の前で罪悪感に苦しむのではなく、『罪を犯した本人』が無反省に享楽的な遊興を貪る中でその罪を精神的・社会的に継承した子が『遺伝的なつながり』に苦悩するという不条理な筋書きになっています。

『他者の傷つき』に鈍感な人、『自己の罪悪』に無自覚な人、『社会的・法的な規範性』を無視する人、そういった人たちに無造作に傷つけられる人が『直接的な苦痛』と『倫理的な罪悪』という二重の負債を背負わせられるという現代的な理不尽の図式が採用され、本来的には自分が感じなくても良い罪悪感や自己嫌悪にどのように向き合っていくべきなのかが問われます。良心や道徳観、常識感覚、正直さを持てば持つほどに倫理的な罪悪感や自己批判に苦しめられる心理的・性格的な不平等を前にして、私たちはどのように他者の痛みを無視するような『悪』に誘惑されずにいられるのか、『良心・倫理・思いやり』を持ち続けることの現代的な意義とは何なのかという問題意識に改めて直面させられることになります。

『罪と罰の要素』と『家族愛の物語』を巧みに融合しているわけですが、泉水と春の異父兄弟の間で『性の本質』を巡って交わされる知的な会話は、過去のトラウマティックな出来事を乗り越えようとする試みでもあります。『DNAの認知的な呪縛』を『家族のつながり』によって打ち破ろうとする家族小説の体裁を取りながら、過去の出自を巡るトラウマとその倫理的葛藤をミステリー小説の謎解きの形式に当てはめています。

『重力ピエロ』で倫理的考察を促す構成として、母親を暴行した犯人は未成年の少年であり、悪質な手口で連続暴行事件を起こしたにも関わらずその罪に見合った適正な罰が与えられなかったというのが前提にあります。グラフィティアートが描かれた場所で放火が必ず起こるという事件の謎を巡るミステリーの結末は、最終的に『人間の罪悪の自覚(内省的な更正可能性)』という地点を照らしているのですが、それに対置する加害者の独我論的な享楽の哲学も開示されており、倫理的に頽廃した人間の反省や更正について色々と考えさせられます。

家族以外の登場人物の設定にも読ませる工夫が為されており、女に興味を示さない春を高校時代からストーカーし続けた女性・郷田順子(泉水や父が夏子と呼んだ女性)も、『春の生活・内面の変化』を静かに観察し続けているという小説内で重要な位置づけが与えられています。春に受け容れられない愛情を粘り強く抱いている彼女が中心になって、『春の不安定な精神状態』が解き明かされていく過程はなかなかスリリングですが、本書の面白さの多くは多彩な雑学的エッセンスを小気味良く織り交ぜた泉水・春・夏子・父親の会話部分にも依拠していますね。

グラフィティアートで予告される連続放火事件というミステリーの主題をなぞりながら、性愛と家族、犯罪と倫理、罪悪と罰(内省)、遺伝子と生物の存在意義といったトピックについて多角的に考察する興味深い会話が展開されていますが、それらのトピックは『私はなぜ、ここに存在するのか?』という実存の問いに収斂します。『重力ピエロ』の主題は現代社会における不安定な倫理観・家族像や拡散しやすい自己アイデンティティの問題とも近接しています。そして、『致命的な絶望(空虚・無意味さ)』を回避するために、自己の存在意義(人生の目的意識)をどのような属性・関係・理念に結び付けていくかということは、あらゆる個人にとって普遍的で切実な課題でもあります。






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■書籍紹介

重力ピエロ (新潮文庫)
新潮社
伊坂 幸太郎

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