高校の学習指導要領の改定と“英語で英語を教える授業”・全国学力テストの結果の公開と競争の問題

義務教育過程の学力向上問題については、大阪府の橋下徹知事『全国学力テスト』の結果の公開を求めて文部科学省と対立していたが、本格的な学問に至る以前の基礎学力養成の段階において、どのくらい競争原理を持ち込むべきなのかは判断が難しい。『学校間・地域間の学力競争』と『個人間の学力競争』とではその目的も意味合いも全く異なるものだが、『学校別・地域別のテスト結果』を公表する場合にはその相対的な成績(点数)の差が何に由来しているのかまで踏み込んで分析しなければ余り意味がないだろう。

テスト結果の情報公開というのは、他の学校や地域と単純に点数(正答率)を比較して、どちらが高いか低いかなどを知ること自体に意味があるのではないと思う。『点数の高い学校や地域の授業構成(教え方)の共通点』『点数の低い学校や地域の授業構成(教え方)の共通点』を統計的に分析・検討してみて、効果的な指導法や方法論、使いやすい教材などを多く見つけ出し、今後の授業の質の向上に役立てることが何より大切である。

生徒個々人の学習課程の到達段階に配慮する必要はもちろんあるが、公立の小学校・中学校の教科指導では、義務教育修了後の継続的な学習をできるだけスムーズに進めていけるような『基礎学力(基本的な知識・理解・問題解決)の習得』に力点を置いて欲しいと思う。テストの点数や偏差値は学力の指標として分かりやすいものではあるが、小・中学校の段階では『テストで高い点数を取る勉強』と同程度に『勉強すること(新しく物事を知ること・難しそうな問題を解くこと)の面白さの体験』というのが必要不可欠であり、長期的に見れば『自発的に学んだ知識・情報を、自分が直面する問題の解決に役立てる姿勢』のほうが普遍的な財産の一つになるのではないだろうか。

文部科学省がテスト結果の公開に対して抱いている懸念は、『市町村・学校の序列化』『過剰な学力競争の激化』であるという。早い段階から倍率の高い受験を通過して入学するような一部の有名進学校であれば別であるが、公立校同士で極端なテストの点数差があるとすれば、その原因を分析してできるだけ『生徒の学力向上に役立つ分かりやすい授業』を工夫することは公教育の責務ではないだろうか。入学試験を行わずに居住する地域によって通学する学校が決まる公立学校では、入学段階で学校ごと(地域ごと)の生徒の能力差が大きく開いていることは稀であり、極端な過疎地域や教員不足、高級住宅街などの条件が無ければ『スタティックな公立学校の序列化』が起こるとは考えにくい。

テスト結果を社会一般に公開する必要まではないと思うが、テストに反映される学力差(点数差)の原因が『学校・教師の指導力(授業の内容・教え方)』にあるのか『それ以外の要因(生徒の家庭環境・学習塾の利用率・学習態度・周辺環境・学校の荒れ具合等)』にあるのかくらいは大まかに把握しておいても良いのではないだろうか。橋下徹知事は授業の邪魔になりやすい携帯電話の学校への持込みを原則禁止にすべきという通告を出して議論を呼んだが、個別の事情を考えると一律的に携帯電話の持込みを禁止するというのは行き過ぎであり、『学校の授業の時間帯』には教師が生徒から携帯電話を集めて保管しておき、下校前に返却するといった方法を採れば良いだけではないかと思う。授業中に携帯電話でメールをしたりネットをしたりということは当然容認すべきではないが、下校時に働いている両親に簡単な連絡をとったり緊急時の連絡用に学校の行き帰りに携帯電話を持ちたいという要求までは否定できないだろう。

■高校の学習指導要領の改定と英語教育の正則化(英語で英語を教える授業)について

2013年に高校の学習指導要領が大幅に改定されるが、『英語の授業』を原則として日本語を使わずに英語で行うようにしようという文部科学省の試案が話題になっているようだ。ゆとり教育による学力低下の批判を受けて作成された今回の学習指導要領の改定案は、明確に『脱ゆとり教育の方向性』を打ち出しており、学習課程のボリュームを増やすだけでなく、『歯止め規定(高校ではこれ以上の内容をできるだけ教えないという制限)』も無くして内容も高度化させている。歯止め規定がなくなったことから、学習指導要領は『学習指導レベルの最低基準』を示すという位置づけに変わり、『義務教育内容の確実な定着』と合わせて『各学校の学習目標に合わせた裁量』を働かせられる形となっている。

『特集:高校・新学習指導要領案 学力向上「じっくり」 義務教育内容を復習』の記事では高校の学習指導要領の改定案の要旨をまとめているが、学校教育の目的は以下の6点と定義されていてコミュニケーションを重視した英語教育改革もその一環となっている。

『地理歴史』の項目では『日本史』の必修化が見送られたが、現代社会の国際関係や民族・宗教問題などを理解するという点においては『日本史』よりも『世界史』の必修化のほうが望ましいということは言えるだろう。また、明治時代以降の近現代史・外交関係では日本史と世界史はクロスする領域が大きいので、近代以降の大まかな世界史の流れと各事件の地理的な位置づけを理解していくことで、日本史において重要度の高い近代国家への転換やアジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)の経過についても同時に学ぶことができる。


(1)言語活動,(2)理数教育,(3)伝統や文化に関する教育,(4)道徳教育,(5)体験活動,(6)外国語教育

(中略)

■外国語

授業は英語で行うことを基本とすることを明記する。英語に触れる機会を増やすとともに、コミュニケーションの道具としての英語を意識できるようにするのが狙いで、訳読中心の授業からの脱却を目指す。生徒の理解度に応じて、使用する英語を柔軟に選択するなどの配慮をする。指導する単語数を1300語から1800語に増やす。中高で計3000語となり、中国や韓国並みになる。

科目構成は大幅に変更し、「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能の総合的な育成を図るための「コミュニケーション英語1~3」、中学での学習内容の復習を中心とし、円滑な接続を目的とする「コミュニケーション英語基礎」などを創設。「英語表現1、2」は発表(プレゼンテーション)、討論(ディベート)などの能力を育成する。「英語会話」では、海外での生活に必要な基本的表現などを使って会話する。


英語(外国語)の学習指導要領の改定については、革命的といっていいほどの大胆な変更であり、もし本当にこの通りに英語の授業が実現できれば(教師と生徒の能力が追いつくのであれば)、社会経済のグローバリズムにスムーズに適応する優秀な学生の育成に大きく貢献できるに違いない。しかし、現場の実情や教師の授業構成能力、生徒の英語力を無視した理想論ではないかという懸念を拭えないし、今まで行ってきた『読み書き主体の日本の英語教育』の全否定の上に立つ劇的なパラダイム転換をわずか5年後に実現することなどができるのだろうか。

あいさつや基本的な質問・回答など『簡単な日常会話のレベル』であれば可能かもしれないが、高校生の段階で英語のプレゼンテーションやディベートが成立するとは思えないし、コミュニケーションに特化した英語教育を本格的に行なうのであれば、更にネイティブの外国人や帰国子女の教員(講師)を加えないと無理だろう。

日本の英語教師の大半は文法・訳読・英作文を中心にした『従来の学校英語(読み書き・問題回答)のエキスパート』なのであって、その英語学習のキャリアの大部分を日本での語学教育とテキスト読解において積んでいるのだから、急に『コミュニケーション英語のプロ』になれと言われても上手く対応できなくて当たり前という気もする。何より日本人の英語教師は生活基盤を日本においており、日常生活の中で外国人との生のコミュニケーションを頻繁に経験しているわけではないという事情がある(そして、日本社会における英語コミュニケーションの必要性の乏しさこそが日本人が英語を話せない最大の要因なのだと思う)。

『聞く・話す・読む・書く』という英語の四つの運用能力を総合的に習得するという目的には賛成だが、『コミュニケーション英語Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』というような新たなカリキュラムを組むのであれば『英語教員の養成課程・コミュニケーション英語のレベル設定』から見直しを進めていく必要がある。日本は急速な近代化と国際化の必要性に迫られた明治時代の前期に、すべての教科をお雇い外国人が英語で教えるという徹底した英語のエリート教育を行い、ネイティブと同等の英語能力を持つ『英語名人世代』を学校教育で輩出したという歴史を持っている。

しかし、明治政府はネイティブ並みの英語運用能力(会話と読み書きの能力)を持つ英語の達人を生み出せる学校教育のカリキュラムを自ら打ち切った。それは日常生活で日本語を用いる『日本人としてのアイデンティティ』『日常的に英語で物事を考えて話せるレベルの高度な英語能力』とがなかなか両立しないというジレンマの現れでもあり、『コミュニケーション・ツールとしての英語』という程ほどのレベルの英語を身に付けることが如何に困難であるかということでもあった。学習指導要領が改定されても中学・高校で習得する単語数は“3,000語”だから、この単語数の範囲内で簡単なコミュニケーションができれば十分に学校教育の役割は果たせていると思う。

日本人が平均的に英語が苦手で会話能力が低い最大の理由は、日本社会の『言語環境の均質性』が極めて高く、日本で生活して働いている限りは大半の人が『英語コミュニケーションをする機会』を持てないからである。日本社会の国際化や多言語化が進んで、企業の営業マンや店舗の店員が英語でコミュニケーションをしなければ仕事にならないというような状況にでもなれば、英語が好きも嫌いもなく大半の人が簡単な英会話ができるようになると予測される。

少子化による人口減少や移民の規制緩和などもあるのでいつまで現在の社会状況が続くかは分からないが、現在と同じような均質性の高い言語環境が保持されている限りは日本語だけで生活ができるので、日本人の平均的な英会話能力が学校教育だけで底上げされるとは考えにくい。その一方で、『ヒアリング・スピーキング・コミュニケーション』に特化した『コミュニケーション英語Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』という新しい科目を導入することは面白くて意義のある試みだとは思う。楽しい授業を作り上げられる外国人教師や帰国子女の教師を導入してそれなりに時間数を割り当てれば、今までよりは英語を話せる人(英会話に継続的に関心を持つ人・外国に活動の場を求める人)の比率は増えてくるだろう。

日本人全般の英会話能力の向上ということに関しては、『学校卒業後に英語を使わなければならない生活環境(仕事状況)・人間関係』がどれくらい多く生まれてくるかに依拠していると思うが、(日本の人口減少傾向が漸進すると仮定すると)長期的に見た外国語の利用状況の推移は『外国に飛び出していく日本人の人口』『日本に移り住んでくる外国人の人口』という日本社会のグローバル化のスピードによって調整されていくのだろう。そういった時代に、言語・民族・帰属社会に規定されているアイデンティティの部分がどのように変化していくのかは分からないが、これから『日本語以外の言語を使う必要性・有用性』が高まることはあっても減ることはないと予想されるので、意欲・能力のある学生が実用的な外国語を学びやすい環境を整備することは大切なことだろう。






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江利川 春雄

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