レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』の書評

『イワン・イリイチの死』は、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』で知られるレフ・トルストイ(1828-1910)の後期の代表作の一つである。過去に『戦争と平和』を読んだ時には、作品自体の長さと写実的な描写の回りくどさに辟易した記憶があり、一般に冗長で読みにくいといわれるドストエフスキーと比較してもトルストイの作品には若干の苦手意識を持っていた。実際、トルストイの作品を読んだのは10年以上ぶりだったのだが、本作『イワン・イリイチの死』は中篇であること、こなれた文体の新訳であることもあり現代小説のようにテーマへの興味を持続して短時間で読み終えることができた。

望月哲男の手による『新訳』は自然な現代語の語感に準拠していて非常に読みやすく、古典であることを意識せずに小説を読み進めることができる。読者に情感的なイメージやテーマの考察を喚起する表現の選択にも優れているので、いわゆるロシア文学を食わず嫌いできてしまった読書家であれば光文社古典新訳文庫に収載されているトルストイやドストエフスキーは一読する価値があると思う。本作品は同時収録されている『クロイツェル・ソナタ』と合わせて読んでも明るい気分になれる定型的なハッピーエンドの作品ではないが、『死』や『性愛・純愛』、『仕事』、『結婚』の本質について悲喜劇の構成を取りながら深く掘り下げていて、現代人の人生や生活にもそのまま当てはめて考えられる部分が少なくない。

イワン・イリイチは、農奴解放・産業改革・軍制刷新などロシアの近代化を推進したロマノフ王朝のアレクサンドル2世の統治下で控訴院判事を務めた司法官僚のエリートである。イワン・イリイチにとっての人生の意義の大半は、世俗的基準においてどれだけ幸福で裕福な家庭生活(夫婦生活)を演出できるか、そして、どれだけ優秀な司法官僚として順調なキャリアを積み重ねられるかということだった。健康で有能な官吏だった青年イワン・イリイチは、自分の人生の果てしない上昇と成功を確信しており、『地位の昇進・俸給の昇給・財産の増加』をいかにして『他人の羨望・敬意・畏怖』に転換させられるかということに心を砕いていた。イワンは他人の人生に決定的な法の裁きを下せる控訴院判事となり、皇帝アレクサンドル2世の専制権力の代行者になったが、イワンは『官職に付随する法権力』を実際に濫用することはなく、内面においてその潜在的な影響力が自身に備わっていることを密かに喜んでいた。

勤勉・有能で形式主義的な官吏であったイワン・イリイチは、所定の法的手続きに従って自分の職務を規則正しくこなして一切のミスを排除し、他人につけ込む隙を与えなかった。自分よりも強い権力を持った有力者を選んで親密な交遊を求め、司法官僚としてのキャリアの着実な地歩を固めていったイリイチは、貴族の家柄で美しい容姿と一定の資産を持っていたプラスコーヴィヤを結婚相手に選んだ。イリイチはプラスコーヴィヤを結婚相手に選ぶときに、自分のキャリア形成にとってもっと条件の良い令嬢がいるかもしれないという政治的な計算をしたが、イリイチは『自己の異性の好み』『上流階層が身分的に承認する組み合わせ』によってプラスコーヴィヤを配偶者に選んだのである。プラスコーヴィヤが子どもを出産するまではイリイチにとって理想的な上品で快適な家庭生活が続いたが、子どもが産まれるとプラスコーヴィヤのイワンに対する態度は急変して、育児や家庭生活の不満を理由に毎日のように夫婦喧嘩が続くようになった。

イワン・イリイチにとって家庭を持つことの価値の多くは、『個人的な情愛』ではなく『社会的な承認』であり、『快適・上品・気楽』といった要素が欠如した『生活の場としての家庭』は彼にとってほとんど価値を持たないものになっていく。イワン・イリイチは家庭内の問題や夫婦関係の険悪さから逃れるために『仕事の勤務』にだけ精力的に没頭するようになり、家庭で不快なことや下品な喧嘩があるとすぐに仕事に逃げ出すといったライフスタイルを確立していく。イワン・イリイチは『外見的に上品で裕福な家庭生活』を維持するために仕事に励み昇進を重ねていくが、自分の家庭の豊かさや上品さを誇示するための出費が嵩んで、十分な給与を貰っていたにも関わらず生活費に俸給が追いつかなくなる。しかし、人脈を生かした偶然の幸運によってイワンはこの経済的な難局を乗り切り、法務省で二階級昇進して年俸5千ルーブリの高級官僚へと出世した。

他人から自分の幸福や豊かさをもっと認めてもらいたい、自分の出世や権力に対してもっと敬意を示してもらいたいという欲望には際限がない、イワン・イリイチはそういった世間体と見栄に拘束され『他人の視線・評価』を中心にして自分の人生とキャリアを演出していったのである。俸給がぐんと増えて暮らしぶりが良くなればいつも不機嫌な妻も機嫌が良くなり、今まで出世競争で遅れをとってくすんで見えた己の人生が希望に満ちたものとして再生してくる。出世したイワン・イリイチは晴れやかな気分で意気揚々と優雅な新居の準備を始めた、自分の地位や俸給に見合った立派な住宅環境を整えて誰を招いても恥ずかしくない家にすること、官吏イリイチはそのことに意識を集中した。

高級な家具を買い揃え、自分好みの新しい壁紙に張り替え、家族全員がゆったりくつろげる部屋数を確保し、上品でバランスのとれたインテリア・室内装飾・応接間に配慮すること、自分の財力や社会的地位を反映するような豪華で上品なたたずまいの住宅に住みたい……出世したり大金を手にした人間が考えることは19世紀のロシア人も現代の日本人もおそらくそれほど大きくは変わらないだろう。イワン・イリイチは、他人が羨むような幸福で豊かな家庭生活を演出できる『器』としての住居を飾り立てることに懸命に取り組んだが、部屋を改装している途中で梯子から足を踏み外してわき腹を窓枠の取っ手に強かに打ちつけてしまう。これがイワン・イリイチの人生の暗転の始まりであり、外観的な幸福や自尊心を無効化する『死』の意識化の到来であった。

本作『イワン・イリイチの死』は結末を先に示す倒叙法(とうじょほう)を用いて書かれており、冒頭では45歳のイワン・イリイチは死去して葬儀が営まれているのだが、そこからイリイチの官吏・家庭人としての人生の回想が始められる。重病だったイリイチの訃報が伝わった時には、家族も同僚も『個人としてのイワン・イリイチ』には最早何の関心も保持しておらず、イリイチが死んだ後の官僚ポストの変動(人事異動)や遺族年金・退職金の上乗せ、つまりイリイチの死が『自分』にとって得になるか損になるかの話題に終始するばかりであった。儀礼的・形式的な葬礼が行われたが、妻のプラスコーヴィヤ夫人はイリイチの死後に入る遺族年金など公的給付のことばかりが気になっているようであり、本心から『イリイチの死』に際して悲しみや痛みを感じているのは友人のピョートル・イワーノヴィチや使用人のゲラーシム、中学生の息子くらいなものだった。

周囲にいる他人に自分の幸福や能力、地位を認めてもらうことに人生の時間の大半を費やしたイワン・イリイチは、打ちつけたわき腹の痛みが酷くなって体調が次第に悪化していく過程において『自己の人生の意義』を改めて問い直しその余りの無価値さと救いの無さに慄然とする。自分の地位や財力に相応しい新居を構えた時には『15歳ほども若返ったようだ』と家族への手紙に書き記したイリイチだったが、改めて自己が『誇り・自慢』と思っていた住宅を見てみれば、本当に裕福な上流階級ではない人間が、無理をして上流階級のふりをして作り上げた虚構の豊かさが詰め込まれた家(器)に過ぎなかった。

イワン・イリイチは周囲の憧憬や羨望を集めるような上品さと快適さを備えた家庭を理想としていたが、イリイチに『死の不安』が迫ってくる時に上品で優雅な上流階層の家族の一員としての役割を担っていた妻や子どもたちは、イリイチの追い詰められる孤独な心情に寄り添ってくれることはなかった。健康で職務が軌道に乗っていた時期のイワン・イリイチは、人間関係を『身分・地位・服装・知性などの属性』によって徹底的に選別して、自分の将来のキャリアの利益にならない人間が自分に寄り付かないようにしていた。しかし、その利己的・保身的な社交術が仇となってイリイチの生命が尽きようとしている時に、本心からイリイチの健康や恐怖を心配してくれる人は居なかったのである、間もなく死ぬ人間(社会的な力を失う人間)と親しく交際しても何ら得るものはないと周囲の人間も判断したのかもしれない。

イワン・イリイチにとっての人生の価値は『仕事と昇進による自尊心の充足・社交や家族による虚栄心の充足・ホイスト(カードゲーム)による享楽の喜び』の3つに集約されるが、次第に悪化していく病状の中でイリイチは『自分固有の死』の前にはそれら3つの喜びの源泉が何の役にも立たない現実を突きつけられる。イリイチが他人にそれほど強い関心がないように、他人もイリイチにそれほど強い関心があるわけではなく、『イリイチが死んでも自分は死なないという状況』がある以上、イリイチの病気の悪化は家族や社交界の知人にとって『儀礼的な心配事』ではあっても飽くまで『本質的には他人事』なのであった。名医と評される医者も含めイリイチは多くの医者の診断を仰いだが、医者は『遊走腎・慢性カタル・盲腸炎という診断上の議論』を繰り返すばかりで、イリイチがこの病気から回復できるのか否かという話については曖昧な態度に終始した。

イリイチは医学的な治療に従うことによって急速に衰退しつつある『自身の健康と人生の回復』に努めようとしたが、19世紀の非科学的な臨床医学の限界もありそれぞれの医師が示す診断結果と治療法はバラバラなもので信用が置けない。どれを信じて実践すれば良いのかが分からないまま、中途半端な治療を繰り返すうちにイリイチの病状はどんどん悪化していき、耐え難いほどの激痛がわき腹を断続的に襲うようになっていく。まだまだ自分は大丈夫、きちんと治療すれば治るはずと自分を納得させていたイリイチだが、激痛を伴う症状と気分の悪さが悪化していくにつれ、自分を騙し続けることが不可能になっていき、他人の目から客観的に見ても『死の兆候』を隠し切ることが難しくなる。そんな中でも、妻や家族はイリイチの生命力の衰退と死の接近から目を背けており、イリイチの不安や絶望の心情と真正面から向き合うことがない、薬を飲まないから病気が治らないとか自分(妻)への嫌がらせで病気になったようなものだとかいうようなイリイチの苦悩とは無関係な話題をぐるぐると繰り返しているだけだった。

イワン・イリイチは致命的な『死に至る病』を抱えたことで、自分の周囲を『社交上の嘘・欺瞞』が取り巻いていることに気づき、表面的な慰めや形式的な励まし以外には『自分に対する本心からの同情・共感』の一切が存在しないことに懊悩することになる。自分の置かれている病状や状況を誰も正確に知ろうとはせず、『死の可能性』から目を遠ざけて建前としての慰めや心配をするばかりで、『死のうとしている自分』を厄介者のように取り扱い既に利用価値が乏しくなった存在として認識し始めている。かつての自分が自分にとって役立たない旧知の人間を遠ざけたように、イリイチが自分にとって役立つと感じて付き合い始めた友人たちも、自分のことをもう役に立たない人間だと思い始めたのではないか(自分は社会的・人間的に見捨てられつつあるのではないか)という猜疑心が強まる。

結局のところ、イリイチが信頼して期待していた同僚・友人・家族たちは、死を目前にしたイリイチにとって何の役にも立たないばかりか、かえってイリイチの絶望と悲しみを深める作用しか果たさなかったように見えた。誰とも交換できない『自分固有の死』を体験しようとする時に、『自分の内面』から遊離した『外観的な力・豊かさ』は一切の用を為さず、病状の悪化に苦しむイリイチは最期までそれらの人々の前で『威厳と能力を備えた公正中立な判事(私的感情を超越した公人)』としての建前を崩すことができなかった。

病気の苦痛と他者から必要とされない孤独感がイリイチを徹底的に打ちのめしたが、イリイチの晩年に真実の慰めと救いをもたらしたのはそれまで見向きもしなかった使用人のゲラーシムだった。ゲラーシムは誰もが嫌がるイリイチの排泄の世話を引き受け、イリイチの求めに応じて自分の睡眠時間を削って、イリイチが楽になる姿勢を支えるために(イリイチの足を両肩に乗せて)夜通し仕え続けた。しかし、その献身的な正直で心優しいゲラーシムでさえも『固有の死』がひたひたと近づいてくるイリイチの絶対的な孤独と無力を癒しきることはできず、イリイチは内面の声を聴いて存在論的な対話を繰り返しある種のキリスト教的な『博愛・自己犠牲の回心』へと到達する。トルストイやドストエフスキーの作品は、ロシア正教に由来するキリシタンの倫理的感性や罪悪感の自己洞察といったものを抜きにして読むことはできない。

なぜ、自分にできるだけの努力をして一生懸命に生きてきた自分が今若くして死ななければならないのか、人間にとって『普遍的な死』に対する問いかけには説明も理由も存在しないが、イリイチは『自己の立場』を『家族・他者の立場』へと転換することによって苦悶しつつも死の受容へと動かされていく。メメント・モリ(死を思え)という標語を切実なものとして聴かねばならない時、私たちの価値体系は『世俗的価値から精神的価値への転回』を余儀なくされるが、自分固有の死や意識に捕われたままでは『他者の真情』に行き着くことはできないのかもしれない。

『死』には誰とも分かち合えない絶望的な孤独や無力といった属性が拭いがたく張り付いているが、『イワン・イリイチの死』の結末は、死の無意味さや理不尽を自覚した先にある『救済の光』を示唆している。若くて健康な時に受け容れる価値体系と年老いて(健康を致命的に害して)死を意識するときに受け容れる価値体系は自ずから異なってくるが、その価値体系の変質は『社会的属性からの距離感』とも関係しているだろう。周囲にある他者との信頼関係において、『他者の直接的な視線』の背後にある『自分が他者を眼差す視線(自分が他者に与える影響)』に気づけるか否かということを考えさせられる小説である。『クロイツェル・ソナタ』のほうは、人間社会における結婚制度の存在意義や男女関係を複雑化させる独占欲(性愛と嫉妬感情)をテーマにした回想形式の中篇小説になっている。






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■書籍紹介

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
光文社
トルストイ

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