徳川将軍家と薩摩藩島津家の縁戚関係の歴史:篤姫の先例となった11代将軍徳川家斉と茂姫の婚姻

宮崎あおい主演のNHK大河ドラマ『篤姫』の初めでは、島津今和泉家(島津忠剛,ただたけ)の娘であるお一(おかつ)が、一橋派として将軍後継問題に干渉しようと計画する島津本家(島津斉彬,なりあきら)の養女・篤子(篤姫)となったが、学説的には徳川家と島津家の縁組は家定の将軍就任以前から既定されていたと言われる。次いで、五摂家で最も家格の高い近衛家(近衛忠煕,ただひろ)の養女・近衛敬子(すみこ)となるが、これは摂家以上の娘と婚姻を結ぶ徳川家の慣例に合わせたものであり形式的な家格の向上である。

篤姫は13代将軍・徳川家定(いえさだ,1824-1858)の継室(死去した正室の後継)となるが、篤姫以前の家定の二人の正室は鷹司家(任子)と一条家(秀子)の出身である。家定の死語に、当時の慣例に倣って落飾(仏門への帰依)した篤姫は天璋院(てんしょういん)を名乗り、江戸城大奥を統率して幕末の動乱の中で公武合体による徳川家の存続に尽力した。結果として、新政府軍(薩長主体の官軍)との戊辰戦争に敗れた江戸幕府は、江戸城の無血開城によって崩壊するが、下参謀・西郷隆盛との交渉で徳川慶喜が助命されたことや宗家の家督が田安徳川家の徳川家達(いえさと)に譲られたことで徳川家そのものは現在にまで存続することになる。

家定は病弱などの理由で事実上の夫婦関係(性的関係)を持ったことがないとされるものの、縁組みは基本的に摂家との間で行われており、その慣例に従うために島津斉彬は篤姫を近衛家の養女としている。薩摩藩の島津家は関ヶ原の戦い(1600)の時には石田三成・毛利輝元の『西軍』に味方して『東軍』の徳川家康と敵対したが、家康は外様大名の中で最も強大な軍事力を保持し地理的にも遠方にある島津家への影響力を強めたいという意図を持っていた。薩摩の島津家は初代藩主・島津家久(いえひさ, 1576-1638)の時代から他の大名家との政略的な縁組みには消極的であり、孤立主義的に九州南部での覇権と独立性を強めていたが、家康は島津家と血縁関係を持つために異父弟の松平定行(さだゆき,久松松平家)と家久の養女を婚姻させている。

徳川将軍家の親藩・松平家との縁組みによって『島津家と徳川家の距離』は急速に縮まるが、江戸末期に篤姫が近衛家の養女になったことも偶然ではなく、藩主・島津斉彬と近衛忠煕は義兄弟の近しい関係にあった。近衛忠煕の正室の島津興子(郁姫)は、10代藩主・島津斉興(なりおき)の養女であり斉興は斉彬の父である。郁姫(興子)は実際には島津斉宣(なりのぶ,斉興の父)の娘であったが、斉宣は薩摩藩の藩政を牛耳る父・島津重豪の逆鱗に触れて隠居させられていたため、斉興の養女として近衛家に嫁いだのである。近衛家に輿入れした郁姫に随行したのが上臈(じょうろう)の幾島(いくしま)であり、NHK大河の『篤姫』では松坂慶子が篤姫の教育係をした幾島を演じていて存在感がある役所になっているようだ。

歴史的にも、島津氏というのは家系を遡ると『近衛家の門流(家司)』に行き着くと伝承されている。島津氏の始祖は鎌倉幕府を興した源頼朝に重用されたと言われる島津忠久(母は頼朝の乳母の子)であり、島津忠久は鎌倉幕府の有力御家人(薩摩・大隈の守護)であると共に京都では近衛家の家司(家臣)だったとされる。関ヶ原の戦い後に江戸幕府が成立しても、薩摩藩の初代藩主・島津家久と2代藩主・島津光久は他の大名の娘を娶らず島津一門や家臣の娘を正室にしていたが、3代藩主の島津綱貴(つなたか,1650-1704)は鷹司家の松平信平の娘を正室にした。綱貴の娘・亀姫は近衛家久の正室となっており、ここから島津家と近衛家の縁戚関係が生まれ、後の島津家の徳川家との婚姻にも影響を与える。

4代藩主・島津吉貴(よしたか,1675-1747)は桑名松平家の松平定重の娘を正室にしたが子ができず、側室の子である島津継豊(鍋三郎)を嫡子とし正室の子として育てた。まだ幼少の島津継豊(つぐとよ,1702-1760)に対して、幕府の側用人から5代将軍・徳川綱吉(つなよし,1646-1709)の養女である竹姫(たけひめ,清閑寺煕定の娘)との縁組みのご内意があったが、島津氏はこの申し出を幼少を理由にいったん拒否した。縁組を断られた竹姫は、会津藩主・松平正容(まさかた)の嫡子久千代と婚約するが久千代があっけなく死去する。次いで、有栖川宮正仁親王(ありすがわのみやまさひとしんのう)と縁組する話がまとまるのだが、親王も間もなく病没してしまった。

1715年(正徳5年)4月に、鍋三郎は6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の御前で元服して5代藩主・島津継豊となり、初めは萩藩主・毛利吉元の娘と婚姻を結んだ。しかし、継豊の正室となった毛利吉元の娘は早逝してしまい、8代将軍・徳川吉宗(1684-1751)と松平乗邑(のりさと)の斡旋もあって島津継豊は竹姫と縁組みすることになる。これによって薩摩島津家と徳川将軍家の縁戚関係が成立することになるが、継豊のほうは竹姫との縁組みには余り前向きではなく徳川家の影響力が強まることを嫌っていたようである(格上の徳川家の娘と婚姻することによる莫大な財政支出の増大という理由もあった)。しかし、将軍吉宗が側室の子である益之助(島津宗信)を嫡子にして良いと認めたこと、6代将軍家宣の正室・天英院(島津家との縁戚関係にある近衛煕子)の強い意向があったことにより、島津継豊は徳川家の竹姫を正室に迎えることになった。

将軍吉宗は、島津家の嫡子である島津宗信も継豊と竹姫の子として産まれた菊姫も実の孫のように可愛がり、徳川家と島津家の交友関係はより一層強化されていく。菊姫は筑前国福岡藩主・黒田重政に嫁いでいる。6代藩主・島津宗信(1728-1749)は尾張徳川家・徳川宗勝の娘である房姫と縁組みするが、房姫がすぐに死去すると宗信もその後を追うかのように22歳の若さで死去した。宗信の後を継いだのは異母弟の7代藩主・島津重年(しげとし,1729-1755)だったが、重年は幕府から河川の氾濫が頻繁に起こって人々を悩ませていた木曽川の治水工事(普請手伝い)を命じられ、莫大な財政負担を負うことになった。重年の嫡子の8代藩主・島津重豪(しげひで,1745-1833)は、徳川家の御三卿の一橋宗尹(むねただ)の娘・保姫(やすひめ)と縁組みした。

8代藩主・島津重豪11代藩主・島津斉彬(なりあきら,1809-1858)に大きな影響を与えた蘭癖(洋学嗜癖)の先進的な開明君主としても知られるが、華美・贅沢な生活様式を好んで派手な浪費をする放漫財政を行い、薩摩藩の財政赤字を急速に悪化させた人物でもある。島津重豪は89歳という現代でも長寿に当たる年齢まで生きて、薩摩藩の藩政を独裁的に掌握して膨大な財政の浪費をした。重豪は自分の財政方針・藩政改革に逆らう『近思録崩れ(きんしろくくずれ)』の内紛を起こした9代藩主・島津斉宣(なりのぶ,1774-1841)を隠居させ、斉宣の長男の10代藩主・島津斉興(なりおき,1791-1859)を擁立して更に院政を継続した。

斉興は長男の島津斉彬と険悪な仲でありなかなか家督を譲らなかったが、その理由としては放漫財政や藩政独裁を行った重豪との共通点が多かったこと、斉興が側室のお由羅の方を寵愛していたことなどが考えられる。藩政改革に当たった家老の調所広郷(ずしょひろさと,調所笑左衛門)とお由羅の方は、お由羅の子の島津久光(斉彬の異母弟)を擁立する策略を巡らして『お家騒動(お由羅騒動)』が起こったが、結局、諸侯の調停によって島津斉彬が順当に11代藩主の座に就くことになる。天璋院(1836-1883)『篤姫』として13代・徳川家定に輿入れしたが、この篤姫(お篤)という名前は、8代藩主・島津重豪の娘で11代将軍・徳川家斉(いえなり,1773-1841)の御台所(みだいどころ・正室)となった茂姫(広大院)の幼名・お篤に由来している。

茂姫の徳川将軍家への縁組みには、徳川綱吉の養女として5代藩主・島津継豊と婚姻した竹姫(浄岸院,じょうがんいん)の意向が強く働いていたとされるが、元々、茂姫は父の島津重豪の縁続きで御三卿の一橋家と縁組みする予定であった。11代将軍の徳川家斉は一橋治済(はるなり)の長男で御三卿の家柄だったが、第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基が死去した後に家治に男子がいなかったため、一橋治済と老中・田沼意次の計略によって将軍に擁立された。娘の茂姫が次期将軍の正室となったことで、島津重豪は江戸城における種々の政治的特権を享受することになり、外様大名でありながら島津家の江戸での発言力が際立つようになる。






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■書籍紹介

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学習研究社

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