社会主義的な『大きな政府』とF.A.ハイエクの『隷属への道』:計画経済と市場経済が生み出すもの

『民族・国家の繁栄』『社会・技術の進歩』のために労働力としての国民(個人)が存在するという国家主義的な発想は、『帰属する社会集団』と『部分としての個人』を同一化させる集団主義の倫理性につながる。だが、ファシズムの挫折や実験的社会主義(計画経済)の失敗、付加価値(他者との差異)を重視する産業構造の変化、金融証券市場の拡大によって20世紀後半にはその有効性の大半を喪失した。更に言えば、バブル崩壊後の日本経済の停滞によって、ケインズ主義的な完全雇用を目指す財政政策も殆ど経済成長・景気拡大には貢献しないことが明らかになり、国家(政府)が無理やりにマネーをつぎ込んでも持続的な有効需要は生み出せず、財政赤字が蓄積するだけになるリスクが高いのである。国家行政による意図的な経済介入や雇用管理(財政政策)には、一時的な景気対策や国民の生活支援といった効果はあるが、長期的スパンでは市場経済の競争が非意図的に生み出す『自生的秩序』に及ぶことはない。

政府の発注する公共事業を現場で請け負った労働者の大半は、仕事を探していた自発的就業者であるが、それでも労働生産性や税収効率は上がらなかったのであり、就労意欲のないホームレスやニートを政府主導で強制的に労働させるという発想は、逆説的に仕事を生み出すための行政コストと財政赤字を拡大するだけになる可能性がある。就労の意志が少しでもあるホームレスや無職者は積極的に教育訓練や企業研修、資格取得などの公的支援をすることが望ましいのはもちろんのことであるが、本質的な問題は本人の労働意欲と雇用される市場価値の向上にあるといえるのではないだろうか。

勤労の権利・義務を定めた憲法27条が、国民各人にとにかく無理やりにでも労働をさせるといった類の義務規定でないことはおよそ明らかであるが、国民に最低限度の文化的生活を保障するという憲法25条の社会権の規定によって納税者と福祉の受益者との間で利益相反が生まれる可能性がある。真面目に毎日働いている人が生活保護を受けている人よりも生活が苦しいというような勤労意欲を低下させる状況があれば改善する必要があるが、『労働者所得の向上・ワーキングプアの改善・グローバル経済への適応と労働者保護』というのは政府と企業に課せられた非常に重く難しい課題である。

しかし、一般サラリーマンの所得が低下していることや将来の社会保障が心配なことは、社会的弱者やホームレス、ニートに対する偏見や不満とは位相の異なる問題であり、これらの非労働者層が雇用されたとしても一般サラリーマンの所得水準や社会保障が引き上げられるわけではない。グローバル経済における競争環境の激化や人件費・国内需要の低下、生産拠点の海外移転、企業の従業員に対する所得分配率の低下、雇用環境・給与水準の悪化、外国人労働者の受け入れなどに対して、どう有効な経済政策・産業規制や企業改革を行うことができるのかというのが本筋になるだろうし、『経済の問題』を『政治の問題』に置き換えることで非効率的な過去の轍(全体主義・統制主義・社会主義等)を踏んでしまう危険もある。

ホームレスをどのような方法で保護すべきなのかは、不可侵の基本的人権とは何かという根本問題に突き当たることになるが、人権の原点が『他者や国家に個人の権利・自由を侵害されない』という消極的自由であることを考えると、『国家から保護して貰うという実質的自由(積極的自由)』は消極的自由に優越するものではないと解釈することもできる。行政のあらゆる働きかけを拒絶して『ホームレスになる自由』を徹底的に貫こうとする個人がいる場合において、国家が強制権力を発動してホームレスを無理やりにやめさせ『生存権・労働権の保障』をすることができるのかという問題であるが、人権には『強制(干渉)からの自由』『物理的欠乏(貧困)からの自由』があり自由社会においては通常前者のほうがより本質的で重要な自由と考えられる。

こう書くと、多少不自由があってもすべての国民の基本的人権(社会権)が守られるのであれば、国家・行政に『個人の行動選択の自由』を制限する権限を与えても良いのではないかという意見を持つ人もいると思うが、国家が福祉や保障を強制的に与えることと引き換えに『国民の行動選択の自由』を大きく制限するということは、基本的人権の半分(自由権)を自ずから失うということであり自由社会の存立基盤が瓦解するということである。この問題は20世紀前半に、フリードリヒ・フォン・ハイエク(1899-1992)『隷属への道』の中で実証的な社会主義批判によって指摘していることでもあるが、国家から『貧困からの自由・結果としての平等』を絶対的に保障して貰おうとすれば、国民個々人は国家・社会の計画的な基本方針や全員参加の制度設計に全面的に隷属する他はなくなってしまう。その結果が、良いほうに転べば高負担・高福祉の北欧的な福祉国家に行き着くが、悪いほうに転べば精神的自由が抑圧されたファシズムの統制国家に行き着くことになり、いずれにしても行政機構・国家財政の肥大化を伴う官僚主義的な政治指導の強化が起こることになる。

自由社会とは何かというと、個人が自分の人生と生活に対する選択を権力から強制されることのない社会であり、個人を監視・罰則によって家畜化する『パニッシュメント(懲罰)』ではなく、個人が人生に対する一定の自己責任を引き受けて『インセンティブ(報酬)』と『モチベーション(動機づけ)』によって自発的に活動する社会である。精神的自由がある“自由社会”にはホームレスやニート、遊び人など労働規範からの逸脱者やフリーライダーが確かに存在するが、ホームレスやニート、無職者の存在を法制的に取り締まる精神的自由のない“統制社会(社会主義・ファシズムの社会)”よりも、国民個々人が実感する利益や幸福が結果として大きくなるという逆転がある。景気後退や国際情勢によって社会不安が大きくなったり、社会を中核で支える中流労働者階層が崩壊するリスクがでてくると、正義と社会保障の両立を謳った独裁者やファシズムが台頭する余地が生まれるが、精神的自由のない社会では個人の安心や幸福というのは基本的に実現できない。国民を恐怖や圧制でコントロールして特定の理想世界に導こうとするユートピアニズムは、フランス革命の共和主義でもロシア革命の共産主義でも共産中国の文化大革命でも全て失敗に終わっただけでなく、膨大な国民の犠牲と経済的な効率性低下の代償を払うことになった。

頭脳明晰な官僚・指導者が考案する計画経済や労働の強制のパフォーマンスは、決して自由経済や労働の選択のパフォーマンスに及ぶことがないというのが20世紀の歴史的実験のもたらした帰結であり、就業義務や日常行動に関わる経済的自由の規制は直接的に精神的自由の制約につながってしまう。ソ連や東欧でなぜ、芸術や文学、映画、娯楽産業が振るわなかったのかの理由は『思想・言論の統制』にあるが、個人の行動や選択の自由を政府が規制すれば、必然的に文学・芸術・娯楽・ジャーナリズムなどに反映される精神的自由が萎縮し制限されることになる。若者のモラトリアム(無業の猶予期間)や収入にならない創作的・文芸的な試行錯誤を許さない就業の強制があるとすれば、資本主義経済の需要を生み出す個人の嗜好・価値観の多様性が阻害され、新規ビジネスや娯楽・メディア産業における柔軟なアイデアが発展しないということになる。現代の経済活動では、みんなが一つの目標やノルマに向かって休む暇なく生産し続ければ経済が成長するというわけではなく、『商品供給・労働力の不足』によって景気が悪化し一般サラリーマンの所得が低下しているわけでもない。高度経済成長期のように労働集約性や行政主導の産業規制によって日本経済が順調に成長できる状況ではないところに経済政策の難しさがある。

無論、完全な自由放任主義(レッセ・フェール)の社会に頼れるほど個人の大多数は強くないし、自由市場経済には『資源の効率的分配・富の増大』を実現する力はあっても『資源の倫理的再分配・格差縮小』を行う力は備わっていない。そこで、社会に必要な公的事業を行うために社会契約に基づく国家権力が要請されるわけだが、国家が基本的人権を確実に守るためには社会権以上に自由権を尊重しなければならない。これは自由主義を重視する恣意的選好というわけではなく、『ナチスドイツ・ソ連・東欧・近代中国・北朝鮮』などファシズム(全体主義)や国家社会主義の悲惨な犠牲に基づく歴史の教訓であり、結果としての平等である『社会権の保護』『個人の自由の制限(特定の道徳的・政治的規範への忠誠)』と引き換えに強引に実現しようとした『集産主義・統制主義・計画経済(社会主義的な完全雇用)の政治権力』は、ほぼ例外なく国家を国民相互が監視し合う強制収容所に変えてしまったのである。

ナチスドイツの総統であったアドルフ・ヒトラーは、ゲルマン優位主義を掲げるナショナリストではあったが現在の右翼(国家主義者)のように経済的自由を尊重したわけではなく、精神的自由と経済的自由の双方を規制するファシストであった。1933年に成立したナチス政権はワイマール共和国の民主主義が生み出したものであるが、ヒトラーは国民の世論を重視する民主主義者ではあっても国民個々人の自由権を尊重する自由主義者ではなく、基本的な政策は国民を民族国家の発展の道具として活用するナショナルな国家社会主義のイデオロギーに支えられたものであった。

自由主義・人権思想の前提を欠いた民主主義というのは、立憲主義の抑制を欠いた国家権力と同様であり、民主主義が『政治的意思決定の法手続き』に過ぎない以上、民主主義国家だからファシズムや人権抑圧を行わないということには全くならないのは当然である。その為、個人の生命・身体・財産を守るためにより本質的な効果を持つ政治思想というのは、民主主義でも福祉国家思想(社会権)でもなく権力と個人の間に安全距離を置いてくれる自由主義ということになるだろうし、自由主義をベースにして経済政策や国家運営、社会権の保障を考えていくためには、国民自身が自発的な社会貢献や共感性のエートスを持たなければならないということになる。






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■書籍紹介

隷従への道―全体主義と自由
東京創元社
フリードリヒ・A. ハイエク

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