パラノイア(妄想症)の特徴とジャック・ラカンの『エメの症例』に見る自罰パラノイア・理想自我の投影

統合失調症の陽性症状(妄想・幻覚)と混同されやすい精神疾患に『パラノイア(paranoia, 妄想症・偏執症)』がありますが、近代精神医学のテキストや精神分析の臨床事例で頻繁に用いられていたこのパラノイアという疾病概念は最近では用いられることが殆どなくなっています。その理由の一つは、統合失調症であれパラノイアであれ妄想症状に対する標準療法としてメジャートランキライザー(向精神薬)が用いられるようになったことであり、妄想の経過や内容そのものを丁寧に粘り強く傾聴する精神療法的アプローチは減りました。最近では、日常生活に支障をきたす妄想性障害に対して、統合失調症ではない場合には人格構造の偏りである『妄想性人格障害』という診断分類を用いることが増えています。

妄想(delusion)とは、具体的根拠がないにも関わらず訂正することが困難な信念や考え方のことであり、パラノイアでは『自意識の過剰・外界への過敏性・他者への過剰反応』に基づく関連妄想(敏感関連妄想)が多く見られます。パラノイアでは体系的な物語性や関係性のある妄想が精神症状となって現れますが、パラノイアには大きく分けて外向型性格の人に見られやすい『誇大妄想・好訴妄想・発明妄想』と内向型性格の人に見られやすい『敏感関係妄想・被害妄想』とがあります。被害妄想はどちらのタイプにも出現する典型的な妄想症状ですが、内向型性格の人に被害妄想が出た場合には『ひきこもり・抑うつ感・恐怖感』の症状がより前面にでやすくなり、外向型性格の人の場合には『不適切な攻撃衝動・報復行動』がでてくる恐れがあります。

パラノイアと統合失調症の違いは、パラノイアのほうは体系的妄想以外の部分において現実吟味能力(現実検討能力)が正常に保たれており、普段どおりの日常生活を送ることについて大きな問題を抱えていないということです。統合失調症の妄想の多くは、神経学的異常(神経伝達物質の代謝障害)に基づくもので『特定の心理的原因』を持たないことも多いですが、パラノイアの妄想には、本人の人生における劣等コンプレックスや挫折体験、トラウマ体験といった『特定の心理的原因』が見られることが多いという特徴があります。重篤なパラノイアの症状は統合失調症との厳密な区別ができないことも多いので、パラノイアは基本的に神経症圏と精神病圏の中間に横たわる精神疾患として認識することができます。統合失調症の陽性症状としての妄想に対しても、C.G.ユングの分析心理学のように普遍的無意識の元型を参照しながらその妄想の一般的意味を解釈できるとする立場もありますが、パラノイアの妄想の場合には、もっと誰もが了解しやすい『挫折・失敗・恥辱・劣等感・トラウマ・自責感』などが体系的妄想の誘発要因として認められることが多いということです。

パラノイアには元々、ピエール・ジャネが定義した精神衰弱的な性格類型の意味合いも含まれており、現在の妄想性人格障害とほぼ同義の病態・性格構造を指示していると理解することができますが、パラノイアの妄想では『思考・観念レベルの妄想』『投影レベルの妄想』とを区別することもできます。思考・観念レベルの妄想では、強迫性障害のように『自分の意識したくない思考・観念』が内面に侵入してくるといった感覚が優勢ですが、投影レベルの妄想では『自分の内面にある体系的妄想』を外部の他者や事物に投影するようになり、『他人が自分を陥れようとしている・他人が自分に悪意を持っている』といった被害的な敏感関係妄想が強くなってきます。敏感関係妄想とは、外界や他者の刺激に対して過敏になり、『自分とは無関係な人』と自分とを空想的に結び付けてしまう妄想のことで、自分と何らかの特別な関係があると思い込んだ他者に対して、一方的に被害妄想や報復感情(攻撃衝動)を持ってしまうこともあります。

パラノイア性精神病の『被害妄想・敏感関係妄想』によって、自分に悪意をもって迫害しようとしていると思い込んだ無関係の女優(ユゲット・デュフロ)をナイフで切りつけた症例として、構造主義者としても知られる精神分析家ジャック・ラカン(Jacques Lacan, 1901-1981)が報告した『エメの症例(マルグリット・パンテーヌの症例)』があります。エメ(マルグリット・パンテーヌ)は郵便局員の公務員をしていた女性でしたが、自分とは何の関係もない人気女優のユゲット・デュフロをナイフで襲撃して、デュフロの右手の小指に深い傷を負わせました。エメの持っていた被害妄想は、ユゲット・デュフロと人気作家が画策して自分の誹謗中傷を作品に書いているとか、デュフロが自分の子供を殺そうとしているといった妄想でしたが、これらの妄想はエメ自身の家族歴や生活史における挫折体験・トラウマと深く関わっていました。

エメは自分と同名だった姉のマルグリットを自分が産まれる前に、暖炉の火災事故で亡くしており、田舎の農村地帯で少女時代を過ごした彼女は小学校の教員を目指していましたが、その夢を諦めて郵便局に就職しました。郵便局で働く間に、没落貴族の娘という郵便局員と知り合いになり、それまで関心を持たなかった貴族の上流社会や華やかで贅沢な演劇界にエメは引き込まれるようになります。エメのユゲット・デュフロに対する被害妄想・攻撃衝動の原点は、凡庸な郵便局員である『現実自我の否定』と華やかな人気女優になって周囲に誉めそやされる『理想自我への欲望』との葛藤によって形成されたと考えられています。

マルグリットには空想癖と読書中毒、家事の回避の傾向があり、結婚生活には向かないと考えられていましたが、結婚適齢期に合わせる形で義務的に職場の同僚と結婚をし、お互いの価値観や趣味を受け容れ合えない夫婦仲は余り良いものではなかったようです。エメは初めの妊娠で女児を死産しますが、この時には既に『周囲の人間が自分の不幸を願っている・子供を奪い取ろうとしている』といった被害妄想が生じており、次に長男のディディエを無事に出産し終わった後にも初めの女児の死に対するトラウマが妄想症状を強く誘発していました。郵便局を退職したエメは、息子を溺愛しながら自分の理想自我へと接近するために『小説家』の道を志しますが、思い通りに自分の書き上げた作品を出版することはできず、小説家としての人生にも挫折してしまいます。エメはその後離婚の意向を夫に申し出て、人気女優のユゲットが自分の息子を襲おうとしているという被害妄想を募らせ、演劇場から出てくるユゲットを通路で待ち構えてナイフで襲撃したのでした。

ジャック・ラカンは『エメの症例』を、同性愛傾向を持つ理想自我への欲望と自罰感情を人気女優に転移させた『自罰パラノイア』の症例と診断しました。ラカンは、エメの自分の現実の生活・職場に満足できない葛藤と長女を死産してしまったことの罪悪感(トラウマ)がパラノイアの背景にあり、自分で自分を道徳的に罰したいという無意識的願望が被害妄想によるユゲット襲撃(その結果の逮捕・精神病院への収監)につながったと推測しました。






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■書籍紹介

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