重松清『疾走』の書評

重松清の小説の多くは『家族の愛情』『人間関係の喪失』をテーマにしているが、この『疾走』という作品では『家族的なものの徹底的な剥奪』がテーマとなっており、今までの小説とはやや異質である。『疾走』では、社会構造の暗部にダイレクトに晒された少年少女の苦悩と絶望が生々しく描かれているが、未熟な少年の人生を保護してくれる『家族的なもの』をすべて剥奪されたシュウジに、容赦のない性と暴力の欲望の疾風が絶えることなく吹き付けてくる。大人でも耐えられず逃げ出したくなるいじめ・屈辱的な性と暴力・寄る辺のない孤独……いつの間にか自らを守ってくれる大人のすべてを喪失した15歳のシュウジは、ただ独りでポニーテールの幻影を追って絶望的な人生の道を走り続ける。

そういった暗闇の世界は現実社会にも確かに存在しており、今この時にも絶望的な孤独と先行きの見えない人生の転落に震える若者たちが無数に存在している。自力では抜け出すことのできない大人が漏出した欲望の泥沼と裏社会の仕掛けの中で、何の準備もないままに社会に放擲された子どもは静かに自分の過酷な運命と対峙して救済の道を切り開くほかはない。国家権力も正義感の強い大人も、欲望のヴェールに覆われた奥深い闇の隅々まで照らす希望の灯台にはなかなか成り得ないし、家族や恋人の代わりにもなれないだろう。敢えて自分の平穏な日常の生活を捨ててまでそんな暗闇の奥深い場所まで踏み入ってくれる大人はそう多くはない。長く悲しい物語の最後に至るまでに中学を卒業したばかりのシュウジは二人の大人に殺意を向ける、一人目は自衛のために絞殺したサディストの極道、二人目は純粋に愛した同級生エリの叔父さんをナイフで刺した。

物語はシュウジの故郷にある教会の神父・宮原によって淡々とした口調で語られていくが、この神父の宮原も非常に重い過去の懊悩と罪の影をひきずりながら信仰の人生を寡黙に歩んでいる。シュウジの家族は『大工の父・専業主婦の母・成績優秀な兄のシュウイチ・弟のシュウジ』の4人家族で、田舎の中学校でずっとトップの成績だったシュウイチが進学校の高校で落ちこぼれておかしくなるまでは平穏でごく一般的な家庭だった。シュウジの故郷は干拓地の『沖』を挟んだ埋め立て地ではない『浜』にあり、古くからある『浜』の人たちは『沖』の人たちを差別していた。『沖』の外れのバラックには、荒くれ者の前科を持った極道と噂される“鬼ケン”とその情婦のアカネが住み着いていた。村のみんなは酒に酔っていつも荒れている鬼ケンのことを酷く恐れて嫌っていたが、ふとしたことから小学校3年のシュウジは鬼ケンと知り合いになり、ボロボロの軽トラの中でシュウジの目も気にせずアカネの艶めかしく若い肢体をまさぐる鬼ケンの姿を見て“性”に目覚めた。

狂ったように軽トラを飛ばして『アホどもが』という言葉を口癖のように語っていた豪胆な極道の鬼ケンは、その年が暮れるのを待たずに、両手両足の爪をはがされ徹底的に痛めつけられた哀れな死体となって発見された。シュウジに大人の女の色気を教えてくれた鬼ケンの女のアカネは姿を消すが、その後、シュウジと再会する時には鬼ケンと180度タイプが違う冷酷な経済ヤクザの新田の妻になっている。見かけは堅気の中年サラリーマンにしか見えない極道幹部の新田は、嫉妬深さと執拗な攻撃性を併せ持つインポテンツのサディストであり、分かりやすい暴力や荒っぽさ、女好きを誇示する鬼ケンとは異質の怖さを持った男だった。

『新田・アカネ・シュウジの三角関係』の中で激昂した新田がシュウジを執拗に粘着質にいたぶる場面があるが、この辺りの描写は馳星周や花村満月のようなピカレスクロマンの雰囲気に近いものがある。沖の新興開発の地上げを請け負う極道の幹部の女としてアカネは久々に戻ってくるが、中学生になったシュウジとアカネの関係は急速に深まっていく。10歳以上も年齢の離れた大人の女性を象徴するアカネは、弱さゆえに自滅していった母親を代替するような温かい存在でもあり、性的な欲求を初めて抱いた女でもあった。

『疾走』にはアカネとエリというシュウジが好きになる二人の女が登場するが、肉感的な包容力のある年上のアカネとクールに自分の人生を踏みしめていく同級生のエリはタイプも年齢も違う。アカネは“性愛”を奔放に楽しみ自らの宿命を逞しく受け容れているが、シュウジの前では何事にも動じない心の強さを見せるエリは“性愛”に不当に傷つけられ他者と深くつながる術を奪われていた。シュウジのアカネに対する態度とエリに対するかかわり方は全く異なっていて、思春期の少年の性愛の高まりと純粋な愛情との葛藤が巧く描けているし、アカネとエリには男性が欲求する『女性像の表裏(身体性と精神性・依存したい相手と守りたい相手)』といった様相も感じられる。

重松清はアットホームな家族の情愛や人間関係の優しさを描かせれば一流というイメージがあるが、官能的な欲情を刺激する表現やバイオレンスな情景の描写においても読者を強く引き付ける筆力があり、本作『疾走』は重松清の新たな魅力を垣間見せてくれる。小学校6年のシュウジは『浜』の県営住宅に住む徹夫と仲が良かったが、陽気でお調子者だけど臆病なところのある徹夫は小学校で馬鹿にされていじめに遭っていた。中学生になると徹夫はいじめられなくなり、ひょうきんな性格を生かしてクラスの人気者になったが、自宅の料理屋『みよし』にリゾート開発の地上げにきた極道の青稜会の連中が入り浸るようになってから、徹夫は次第に陰湿で意地悪な性格に変わり不良グループの中で幅を効かせるようになった。

『沖』で起きた兄シュウイチの絡んだ事件をきっかけにして、それまで仲の良かったシュウジと徹夫の関係は険悪なものとなり、シュウジは徹夫の率いる不良グループからいじめを受けるようになる。シュウジは唯一の友人を失い毎日嫌がらせを受けて完全に孤立したが、いじめの状況や徹夫とシュウジの力関係の逆転は、小学校や中学校で実際に起こり得るリアルなものとして読み進めることができるだろう。宮原が神父を務める『沖』の教会に通わなくなってからシュウジと徹夫の友人関係は修復不可能な形で破綻したが、小学6年だったシュウジと徹夫がエリに初めて会ったのもその教会だった。入学式の日に校則違反のポニーテールで登校してきたエリは、教師に迎合することもなく同級生に同調することもなくいつもクールに『ひとり』で過ごしていた、強がるでもなく淋しがるでもなくエリは家庭でも学校でもいつも『ひとり』で毅然として孤高の佇まいを見せていた。

毎日中学校で仲間外れにされ罵倒を浴びせられ教科書や持ち物に嫌がらせをされて『ひとり』になったシュウジの心の支えが、『ひとり』であることに何の不安も迷いも卑屈さも見せない孤高のエリの存在だった……エリの孤独は筋金入りのもので彼女には友人もいなければ家族もいなかった、シュウジも入っていた陸上部でアスリートとしての能力を黙々と磨いていたエリはリゾート開発の土建業者のトラックに跳ね飛ばされて二度と走れない体になった、それでもエリは涙を見せることなく松葉杖を使って自分なりに淡々と走る練習をしようとしていた。『疾走』の前半の学校生活の部分では『孤立・孤独・孤高の違い』について神父が説明した部分の引用が何回か出てくるが、仲間が欲しいのに誰もいない「ひとり」が孤立、ひとりでいるのが寂しい「ひとり」が孤独、仲間を欲しいと思わない誇りある「ひとり」が孤高とある。

エリは学校生活や他人の前では一切の弱気や甘えを断ち切った『孤高』を保ち続けていたが、他人に見せない内面の奥深い部分ではいつも『孤独』が渦巻いており、生きるか死ぬかというぎりぎりのラインで懊悩する日々を送っていた。シュウジの唯一の心の支えだったエリは中学1年の終わりに東京に引越していき、兄シュウイチの事件で村八分状態にあったシュウジの父親は出稼ぎに行くと嘘をついて失踪した……更に、激しく過酷ないじめを受けるようになった14歳のシュウジは死にたいと思うほどに追い詰められたが、折れない『ひとり』の強さを教えてくれたエリの後ろ姿を追いかけるように走り出した。実際には走れないエリも走ることによって全てを忘れられるシュウジも、離れた場所で『走ること』によって静かにつながっていた。

シュウジの家族が崩壊するきっかけを作ったのは、地元一の進学校に進み実力の伴わない歪んだエリート意識を蓄えたシュウイチだった。学歴がなく垢抜けない父母を馬鹿にして家庭に君臨した兄のシュウイチだったが、優秀な生徒が集まる高校では勉強についていけず仲間はずれにされて成績も急速に下落した。傲慢な自尊心と虚栄心を制御できずに生活を荒廃させたシュウイチは、自室にひきこもって独り言ばかりを言うようになり、一家を破滅の淵に追いやる大事件を起こす。兄のシュウイチの事件を引き金にして、父親は家族を捨てて失踪し、母親はギャンブル依存に陥って借金を積み重ね、弟のシュウジは自分を物心両面で支えてくれる『家族的なもの』をあっという間に剥奪されて学校でも家庭でも『ひとり』になってしまった。

シュウジもシュウジの家族もエリも神父もアカネもそれぞれに『孤独』を抱えながら『孤高』の境地に辿り着こうとし、そこに到達することのできない人間の本質的な弱さに打ちのめされている。死ぬ寸前まで追い詰められたシュウジはある死刑囚との出会いを経て、自分の感情の全てを押し殺した“からから、からっぽ”の『穴ぼこの目』になろうとするができない。ギャンブルに溺れた母親はヤミ金にも手を出して借金塗れになりシュウジを捨てた、シュウジは何も考えず、何も感じず、一切の希望を捨てた『穴ぼこのような暗い目』をして、エリの住む東京を目指して故郷を捨てた。15歳のシュウジは圧倒的な孤独と絶望の闇から抜け出すために、アカネの柔らかな肉体とつながりエリの強い精神とつながろうとするが、極道の新田から地獄のような暴力とセックスの責め苦を味わわされ、知りたくなかったエリのつらい過去を聞かされることになる。

シュウジは二人の愛する女性との関係を通して二度の殺人に手を染めることになるが、全ての感情を殺して人形のようになった視線と心に生命の息吹を吹き込んだのがアカネとエリであり、すべての関係性を剥奪されたシュウジに残されていた価値あるものはアカネとエリだけであった。シュウジの二度の殺意は、彼の意図を超えてアカネとエリの間接的な解放を導く。現実の父親と母親に縁を断たれて孤立したシュウジにとって、力強い父親の元型を為したのが恐れ知らずの『鬼ケン』であり、慈愛に満ちた母親の元型を為したのが『アカネ』だったが、対等な恋人として純粋に愛そうとした女は『エリ』だったように読み取れる。『疾走』では人間の人生の不条理な苦難や絶望を示唆するかのように旧約聖書の『ヨブ記 第10章』が引かれているが、『人間の弱さ』や『不条理な運命』と向き合うだけの強さを持つことは誰にとっても至難のことである。



<なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、
わたしは息絶えて目に見られることなく、
胎から墓に運ばれて、
初めからなかったもののようであったなら、よかったのに>



壮絶な悲運と精神の破壊に見舞われる少年少女の物語を読み終えた後に残るのは、『なぜ、ひとはそれでも生きなければならないのか?』というシンプルな生の本質の問い掛けであろう。そして、女性の胎に育まれし人の生命は続くのである。






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■書籍紹介

疾走 上 (角川文庫)
角川書店
重松 清

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