尚氏の琉球王国が実現した大交易時代と中国王朝の冊封体制・文治主義(官僚政治)の伝統

沖縄関連の記事で近世以降の沖縄の歴史について少し書きましたが、尚氏の琉球王朝は15世紀に万国津梁(ばんこくしんりょう=世界の架け橋)の黄金時代を迎え、東南アジアや中国大陸(明)との海外貿易によって繁栄を謳歌しました。琉球王国は尚巴志(しょうはし)が建国して尚泰久(しょうたいきゅう)において盛期を迎える第一尚氏王朝と、尚徳の血統に取って代わった金丸(尚円)以降の第二尚氏王朝とに区切られます。

しかし、第一尚氏と第二尚氏は王族の国家体制と外交理念は一直線上にあり、国王が天孫氏の系譜に連なるという『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』という正史を共有しています。尚氏王朝は琉球国内(周辺島嶼部含む)においては漸進的な中央集権を進めて、対外的には非軍事的な貿易外交主義を採用しました。琉球王国の通史的な最盛期は、尚円(金丸,1415-1476)の子の第三代・尚真(1465-1526)の時代であり、尚真は琉球版の刀狩・永続的な参勤交代ともいえる強攻策を実施して、琉球王国の王権に対抗し得る地方の有力豪族(按司・あじ)を中央政府に統合しました。

沖縄(琉球王国)は尚泰久王が首里城に万国津梁の鍾を建設(1458)して以降、周辺海域における貿易利益を集積する貿易立国として安全保障と経済的繁栄を獲得しますが、この時代を西欧の大航海時代に比して大交易時代と呼ぶこともあります。スペインとポルトガルが主導した大航海時代には、キリスト教圏の拡大(不況)や非ヨーロッパ圏の植民地支配という目的がありましたが、琉球王国は非軍事的な貿易利益をメインとした平和的な外交に終始しました。

琉球王国の繁栄の要因には、明(中国王朝)との冊封関係による朝貢貿易と国家安全保障が関係していますが、それ以上に明自身が貿易利益を放棄する海禁政策(鎖国政策)を取っていたことも琉球王国への富の集中を高めました。中華帝国との朝貢貿易には、確かに中国にとって必要な地方の特産物・珍品宝物を納めさせられるという要素もありますが、基本的には中国(宗主国)と冊封国(従属国)との主従関係と中国皇帝の権威を確認するための儀礼的なものであり、中国側の貿易利益を目的とするものではありませんでした。

中国王朝は冊封国からの貢物を受け取りますが、朝貢してきた国・使節の忠誠心と労苦をねぎらう意味を持って回賜(かいし)という貢物の数倍の価値があるお返しをしており、その中には各地の文明化(当時の水準での文明化ですが)を進展させる文物や思想・技術が含まれていました。冊封国の負う負担としては集団安全保障的な軍役・賦役の義務がありましたが、海を挟んでいることもあり、琉球王国や室町幕府(日本国王の称号を賜与された足利義満)が中国王朝・明(1368-1644)の要請によって軍を派遣したことはありません。

明の要請によって室町幕府が倭寇(わこう)取締りの協力をしたことはありましたが、中国・朝鮮・日本の周辺海域を荒らしまわった倭寇は実際には明の王直(おうちょく)が大海賊勢力を率いる頭領であったように、中国人と朝鮮人の比率が高かったと考えられています。尚氏の琉球王朝が貿易立国として栄えていた15~16世紀の大交易時代には、福州を拠点とした中国貿易や朝鮮半島との貿易だけではなく、ルソン島(現フィリピン)やマラッカ(現マレーシア)、インドシナ半島、シャム(タイのアユタヤ朝)、マジャパヒト王国(現インドネシア)を含む広大な貿易圏の中継地点としての機能を果たし、琉球王国には莫大な富と多様な文物が流入しました。

中華思想に基づく冊封体制(さくほうたいせい)というのは、通常は国内だけで通用する封建主義的なご恩と奉公の主従関係を世界規模にまで拡大した体制であり、朝貢というのは冊封の主従関係が未だ有効であることを確認するための儀式でした。無論、形式的にではあれ国家主権を否定する冊封は、前近代的な帝国主義の一形態ではあるわけですが、歴代の中華王朝(漢民族の国家)が長期にわたって軍事的に優勢であることは稀でした。漢民族が建設した主要な王朝といえば『漢・隋・唐・宋・明』などですが、古代の漢王朝や短命に終わった隋王朝を除くと、唐・宋・明というのは確かに広大な領土を持つ大帝国でしたが、軍事力で周辺諸国を圧倒(制圧)したというよりも、冊封・朝貢による間接的統治によって観念的な中華文明圏を拡大したと言えます。

正確に言うと、易姓革命の実力主義で王朝の姓が変更される中国大陸では、前王朝を打倒して暫くの間は、唐の太宗・李世民(りせいみん)や明の永楽帝のような武力重視の英傑が現れて軍事的拡張(領土の拡大)を行いますが、王朝の盛期に達するとほぼ例外なく『軍事軽視の文治主義・科挙による官僚政治・政治腐敗(地方軍閥の内乱・宦官の専横)』によって周辺遊牧民からの国境侵害を招きました。特に、中国の文化・芸術・思想が成熟の極みに到達した宋(北宋)では、建国者である趙匡胤(ちょうきょういん)自身が、軍人・武力外交を嫌って科挙による文治主義・文民統制を強力に推し進め、中国の防衛力の拠点であった地方の軍事官僚機構の藩鎮(はんちん)を解体してしまいました。

宋の太祖・趙匡胤(927-976)は軍人としてのキャリアを積んで、自分が仕えていた後周から強引な禅譲を取り付けたことで『宋』の建国に漕ぎ着けたのですが、唐の後の五代十国時代(内乱時代)の原因を『地方軍閥の割拠』と見ていました。そのため、国内に中央政府の直接の指揮下にある軍隊以外の勢力(藩鎮=法制上は皇帝の命令系統に従うとされる軍閥)があることは『王朝崩壊の原因(家臣の謀反による内乱)』になると考え、武力ではなく説得的な交渉によって(その時点では宋王朝に反抗的ではない)皇帝側の地方軍閥を解体してしまったのです。

趙匡胤の人間観は、自分が後周の主君に取って代わったように、人間は強い武力を持っていると皇帝(主君)への継続的な忠誠を誓うことは難しい(家臣でも主君以上の武力とチャンスがあれば裏切るリスクがある)というリアリズムであり、皇帝以外が武力を持たなければ中国王朝の安定統治は揺るがないという考えでした。しかし、趙匡胤の軍人(国内の武官)を遠ざけ科挙合格者の文官を厚遇する文治主義(官僚政治)の致命的な弱点は、宋の国境の外部に存在する戦争に強い遊牧・狩猟民族(金・遼・モンゴル民族)の軍事侵攻を防衛できないということであり、文化・文明・経済の繁栄とは反対に国防力を大きく落とすことになります。

その結果、宋の国防を担う軍事力は著しく低下し、貴族文化・貨幣経済・思想教養・芸術作品・都市生活の分野では歴代王朝の中でトップクラスの水準を誇った宋([宋の文化と歴史])は、金(女真族)やモンゴル帝国(元王朝)といった武力に秀でた異民族に簡単に敗れ去ってしまいました。その意味では、漢民族の中華王朝の統治原理は『軍事(遠征)』よりも『文治(徳治)』に傾きやすく、文化や芸術、思想、物質的繁栄(経済)によって異民族を教化(従順化)しようとする王化思想に本質があります。琉球王国の大交易時代を可能とした冊封体制とは、広大な国境線を抱えて国防に絶えず不安を抱いている中国王朝が採用した『武力行使・軍事防衛を省力化した安全保障システム』であると解釈することが出来ます。

前近代期における東アジアの冊封は軍事外交と無縁ではありませんが、中国皇帝の武力によって実際に異国を攻撃して服従させるというよりも(現実問題として、複数のアジア周辺諸国に同時的・継続的に軍を向けて征服・統治するまでの力と安定を中国王朝は持っていませんでした)、中華帝国の経済的繁栄や文化的成熟を異民族に誇示して心理的な自発的服従を強いる(戦わずして主従関係を勝ち取る)というところに冊封の目的があったと見ることが出来ます。逆に言えば、漢民族側の『文治主義(学問重視)・皇帝権威・朝貢貿易の論理』が通用しない、『実戦』によって問題を片付けようとする北方遊牧民族(匈奴以来の宿敵でもある)というのが近代以前の中国は苦手だったのです。漢民族(中国人)が未開の蛮族として蔑視した元のモンゴル民族や清の満州民族は、武力で中国王朝を滅ぼして中国大陸に政権を確立しましたが、中国王朝は、相手を中華思想・冊封体制のフレームワークの中に押し込めることでこそ強い影響力を行使できる帝国でした。

高度な官僚政治や経済制度、文化水準に対して威厳や劣等感を感じるような発展途上の異民族に対しては中華帝国は厳然とした存在感を持って君臨できましたが、それらに『自発的な従属』ではなく『侵略の意図(中国の富と領土への略奪欲)』をかき立てられるような遊牧・狩猟民族に対しては中華思想は全く無力でした。ただし、中国文明の影響力の強さは万古不易の側面を持っており、農耕民族的な定住を嫌い武芸を誇った遊牧民族であっても、中国王朝の首都を占領して主権者になると遊牧民族としてのライフスタイルを捨てて中国風の政治制度や文化生活を模倣するようになりました。琉球王国の大交易時代は、16世紀後半に明の海禁政策の終了やスペイン・ポルトガルの貿易船の登場によって急速に衰退に向かいますが、薩摩藩の統治下に入った江戸時代にも中国・朝鮮との交易ルートは小規模化しながらも残ります。

中国王朝の華夷秩序(かいちつじょ)というのは、文明の中心地域(君主の在所がある首都)から遠い地域や人々を蔑視する政治秩序ですが、日本にも皇室・京都を頂点とする小中華思想や朱子学(宋学)が輸入されました。桓武天皇と坂上田村麻呂による蝦夷(東北)征討や上級貴族(皇族)の京から離れた辺土への流刑、後醍醐天皇の討幕(王政復古)の宣旨など、京都(朝廷)中心の中華思想・宋学(大義名分論)のロジックに根ざした政策や処分が実施されたことから中国的な世界観の影響を読み取れます。

江戸幕府の官学にもなった朱子学の説く王道政治や君臣秩序は、最終的には、徳川将軍家が簒奪した政治主権を本来の君主である天皇に取り戻そうとする王政復古・尊皇思想のスローガンと結びつき、日本を封建国家から近代国家へと変革させる明治維新の精神的原動力となります。しかし、文明の中心とされる京都朝廷から離れた地域(人々)を蔑視する小中華思想や殺生・汚濁に関わる行為を禁忌とする触穢思想(怨霊信仰)は、変更不可能な律令制の身分秩序を生み出し、農業重視‐商業軽視‐賤業認定の職業序列(職業差別)や被差別階級の創設につながったという一面もあります。







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