漫画やゲームに登場する“創作上の人物”に対する表現規制の問題:『表現の自由』と『メディア学習』

あらゆる情報(コンテンツ)を容易に複製・頒布・共有できるインターネットの普及に伴って、音楽や映像作品などの『著作権の問題』が取り上げられる機会が増えましたが、ここ最近は、インターネットを含む各種メディアを介在した『有害情報の規制』に関連する政治的議論が活発になっているようです。有害情報とは何かを一義的に定義することは出来ませんが、多くの人にとって有害情報は『性的指向・性的嗜好(セクシュアリティ)』と深い関連を持っています。青少年の健全育成にとって有害な情報という時、私たちの脳裏に反射的にイメージされるのは『性(sex)』『暴力(violence)』であり、極めて簡略化して人間の反社会的な行動を定義すれば『性・暴力・金銭に関わる非適応的(違法)な欲望の充足』と言えます。

快楽原則を充足する性と金銭(行動の自由=市場での優位性)というのは人間の根源的・普遍的な欲望であり、精神分析ではそれをエス(es)と定義して、『エスを自我(現実原則)の下で統制すること』によってのみ他者と共存可能な社会生活の秩序が形成されると考えます。つまり、個人の自由を規制する社会的ルール(法律)の多くは、万人が欲望する性と金銭(財貨)は社会(他者)が容認しない不公正・暴力的な方法(手段)によっては獲得できないという現実原則に依拠しています。

自分の欲望を他者の権利・自由を無視した不公正な方法によって充足してはいけないというのが文明社会の基本原則ですが、社会的に共有される不公正性と暴力性の禁止のどちらがより普遍的に見られたかというと『(共同体で共有される公正の規律から逸脱する)不公正性の禁止』のほうでしょう。人類の歴史は第二次世界大戦の終結まで、先進国(西欧列強)においても、暴力(軍事的な武力)によって共同体の外部に存在する領土・資源・財物を略奪してはならないという他者危害原則は守られていませんでした。そのため、各国の政権や軍事勢力が関与する『集団的な暴力』による『他者の支配・略奪』は現在でも存在しますが、いつの時代でも、同一共同体に所属する個人間では『性・金銭(財物)に関わる不公正な欲求充足』は禁じられてきました。

しかし、性的な欲求充足の公正性と規範性は、『地域・民族・時代・宗教・文化・市場経済』などによって大きく異なり、当該地域(国家)の大衆・国民のスタンダードな性道徳観に大きな影響を受けます。近代国家では法的に規制されるべき性表現に対して『わいせつ』という形容をしてきましたが、わいせつ性の判定は『個人の身体性・行為性』にではなくて『行為・身体の表現(商品)による社会的影響』において下されます。個人が自宅で一人で裸体になってどんな格好をしていようが、同意を得ている相手と生命・身体の健康に危害を加えない範囲でどんな性的行為をしようがそれは『個人の自由』として容認されなければなりませんが、当該の性行為や流通している性的な商品(出版物・映像作品)が『自分たち以外の他者』に何らかの不利益を与える恐れがある場合に、わいせつ性の認定による規制の可能性が生まれてきます。

日本の判例では、社会通念と照らし合わせた場合の逸脱の程度が重視されており、『いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する』というわいせつ定義が為されています。しかし、性欲を刺激・発散させることを目的とするアダルト関連作品における『性器の顕示の度合い』においてはわいせつ性の判定が一義的に定まっていないという状況があり、最近では、ビデ倫が審査したDVD作品におけるモザイクの濃淡に対してわいせつ性が認められるという事件もありました。この場合には、性的表現を鑑賞することに同意したDVD視聴者に対して『モザイク技術による性器隠蔽の度合い』が低すぎることがわいせつに当たると判定されているのですが、当局は『DVD作品によるいたずらに性欲を興奮又は刺激させる効果』には持続性があり、反社会的な性行動を誘発する恐れがあると判断したのだと考えられます。

こういったメディアの性表現と実際の性行動についての確実性のある相関というのは科学的に検証されていませんが、性表現の有害性については『性的部位の隠蔽(モザイク)の度合い』だけではなくて『性表現の具体的な内容・対象』という問題もあります。欧米ではどちらかというと、モザイクの掛け具合など実際の被害を連想させない視覚的な問題よりも、子どもに対する性犯罪を連想・誘発させるような創作物の表現の問題、そういった作品の心理的な影響への関心が強まっているようです。

『性表現の具体的な内容』で有害と判定されやすいのは、実際にその行為を行えば他者の権利を侵害する犯罪となるような行為であり、『性表現の具体的な対象』について有害と判定されやすいのは、ペドフィリア(幼児性愛)や児童虐待を連想させる子どもを性的対象とするものです。最近では、世界的な拡大を見せている児童の性被害を抑止しようという運動がユニセフ(国連児童基金)を中心として強まっており、日本でも児童ポルノ規制の観点から『単純所持の禁止・処罰』『空想上・創作上の児童の性表現の規制』が議論されるようになっています。具体的には、18歳未満の児童を性的な対象とする漫画・アニメ・ゲームを規制すべきかどうかという問題になりますが、『実在する児童』『想像上・創作上の児童』との区別を法的にどう整理するのかが問われています。

この規制議論に関する幾つかのニュースやブログ記事などを読みましたが、規制対象として議論されているのは『視覚刺激を与える写実的に描写した創作物(絵・映像)』のみであって、『テキスト(文字)による創作物』は対象外とされています。『表現の自由・精神の自由』『児童の福祉・性被害の抑止』が対立している問題ですが、心理学的観点からすると『現実の反社会的行動』を形成するような『情報メディア(漫画・アニメ・ゲーム)による社会的学習(模倣・強化)の効果』がどれくらいあるのかという問題でもあります。

もう一つは、性的な表現や作品に対して不快感・嫌悪感を感じる人たちや性行為の意味を十分に理解できない子どもたちに、それらの商品が通常の書店やコンビニなどで目につかないようにする『ゾーニング(商品の展示・販売場所の厳格な区分け)』の問題があります。ゾーニングは、児童(子ども)を写実的に描写した性的な創作物だけではなくて、一般的なアダルト作品に対しても今後は規制の程度が強くなるのではないかと思いますが、一昔前と比較すると大型書店やコンビニの自主規制によって過激な表紙のアダルト雑誌を見かける機会は減りました。大型書店では初めから俗に言う成人向けのエロ本自体を取り扱っていないところも増えていて、そういった作品を敢えて置かないことが書店のステータス(ブランディング)になっている一面もあります。そもそも売上の観点から言っても、一般書籍を中心に売っている書店で表紙が過激なアダルト雑誌を買う心理的障壁は高いと予測されるので、『商品の棲み分け』というのは経済合理性に適っている側面があるでしょう。

子どもに対する性的欲求を個人的(内面的)に感じること自体は処罰されないという『精神(内面)の自由』は不可侵な自由権だと思いますが、子どもを性的対象とする創作物の場合には『児童福祉に反する性的嗜好を形成する心理的影響』があるという蓋然性を否定できないので規制の圧力というのは今後も強まるでしょう。また、『内心(内面)の自由』はその欲求が自分個人の内部に留まるという特徴がありますが、何らかの創作物を制作・頒布する『表現の自由』の場合にはその欲求が自分以外の他者に伝達されて何らかの心的影響を及ぼすという質的な違いがあるので、内心の自由よりも表現の自由のほうが社会的な規制圧力がかかりやすいと言えます(頒布・販売せずに個人鑑賞のために子どもをモチーフにした性的な絵・漫画を制作するというだけであれば、個人の趣味の範囲内として容認されて当然だとは考えますが)。

法律の原則論で考えると、『実在の人物の権利侵害』『空想上の人物の権利侵害』を混同して一律的に規制(処罰)することは極めて危険なことですが、児童を性的欲求の対象とした創作物の場合には『性表現の倫理規範+児童保護の倫理規範』という二重の社会的タブーを犯しているために、それらの創作物を『表現の自由の例外』として規制せよという世論の声を法理の原則論で抑えるのは難しいのではないかと考えます。

『他者の権利・人格』を直接的に侵害しない表現行為であれば無際限に認められるのかと言えば、児童福祉と関係のない『成人同士の性行為の映像表現』にも一定の制約(モザイク)があるように、公序良俗(性道徳)や社会秩序から著しく逸脱すると政治的(社会通念的)に認定される表現行為には現在でも一定の規制が加えられています。この規制が間違っているから規制緩和すべきという議論も当然有り得るわけですが、児童を性的な対象とした創作物(漫画・アニメ・ゲーム)の場合には、『現実的な悪影響が無いことの立証』だけではなくて『性道徳的な否定感情の緩和』が無ければ規制論のほうに説得力を感じる人のほうが多いでしょう。本来は、『表現・思想の自由の範囲』は、規制に賛同する人の数の多さによって決めるべき問題ではないと思いますが、『現実の児童の性被害を増大させるのではないかという不安・懸念』が『(性表現に関連する)表現の自由の一定の制限』という特殊的(例外的)な自由権の規制を要請することになりました。

『現実の犯罪』『空想上・創作上の犯罪』は一般的には完全に区別されていて、映画・テレビドラマ・小説・漫画(アニメ)の中でも人を殺してはいけないという法律を作れば、大部分の表現活動・創作活動は不可能になりますが、『子ども・性にまつわる空想上の犯罪』というのはやはり、他の犯罪よりも『社会的学習効果(観察学習による模倣行動や特異な欲求の喚起)』や『人格形成・性的嗜好への悪影響』が高いという先入観を持たれやすい傾向があるのではないかと思います。つまり、他の多少過激な表現は創作・演出と割り切ることが出来ても、子どもに対する性的表現はつくりものの創作と雖も現実社会への悪影響を看過することが出来ないという認識(特別視)が相当に強いわけです。

こういった特別視を考えると、この分野で『空想上・創作上の人物に対する表現規制』が盛り込まれても、それ以外の分野にまで一般的な表現の自由の規制がもたらされる可能性は低いと思うのですが、もし実在の人物ではない創作上の人物の描写に規制が加われば、表現の自由のパラダイム(法的枠組み)は大きく転換することになるとは言えるでしょう。この問題には、『表現の自由・内面(欲求)の自由・社会的学習効果(メディア学習効果)・児童福祉・社会的な偏見』などが複雑に関与していますが、現状は少し『標準的な性規範から逸脱した性的嗜好(性的指向)のあり方』そのものを罪悪視する道徳主義的な判断に傾いている観があります。

社会全体の功利主義的な判断も考慮に入れるならば、こういった創作物による『社会的学習効果(犯罪促進効果・性行動の外発的動機づけ)』『カタルシス効果(犯罪抑制効果)』のどちらが大きいのかを量的に比較する研究も必要になると思いますが、社会通念的あるいは世論的に法律と倫理(生理的好悪)をどこまで区別できるかという問題ともつながっています。最終的な規制の是非を決定するまでに、欲望(心理)と行動、情報の内容と情報の影響、社会に与える現実的な変化を切り分けた議論を慎重に深めていく必要があるでしょう。この問題の規制とは別に、『創作物による子どもの性表現規制の特殊性』が『それ以外の表現の自由一般』とどのように関係していくのか、質的に無関係な表現分野に規制の拡大が見られないかには注意が必要ではないかと思います。


■関連URI
モデリング理論による新たな適応的行動の学習1

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フラストレーション攻撃仮説・モデリング・社会的動機と自己呈示行動

■書籍紹介
表現の“リミット” (叢書 倫理学のフロンティア)

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