宮崎県の東国原知事の『徴農(徴兵)発言』と現代の自由社会における道徳教育の原則論

宮崎県の東国原英夫知事が、若者の規律訓練を目的とする『徴兵制』の復活を肯定するような発言をして、その後、戦争と関連する徴兵制ではなく強制参加を前提とする『徴農制』の導入が必要ではないかという意見に変更して話題となっているようです。自由主義国家で徴兵制(徴農制)を議論することは法原則的にはナンセンスだと思いますが、政治思想や法哲学の原理原則はともかくとして、徴兵制(徴農制)のような行動の強制が、『最近の若者の根性を叩き直せ』というポピュリズムの後押しを受けて実現する可能性は皆無とは言えません。そこで徴兵制の持つ原理的な意味とその影響を考えながら、何故、現代の日本において徴兵制を復活させる実際的効果が殆どないのか、あるいはどうして徴兵制を復活させることが困難なのかを考えてみたいと思います。

軍隊は戦闘集団(暴力装置としての国防機構)であり、農家は農業を行う食糧生産の従事者であって、道徳(物事の善悪)を教える教育機関ではないので、そもそも『若者の道徳教育の場』として軍隊や農家を前提とすることが間違っていると思いますが、徴兵制と国民国家の歴史などを踏まえながら国家が強制できる範囲などを検討してみます。道徳教育を目的とする徴農制・徴兵制の提案に対する回答としては、『基本的な道徳規範・礼儀(マナー)・人格形成の教育は、学校教育と両親の指導によって行うしかない』という話に落ち着き、学校教育と家庭教育の枠組みの中で基本的な規範意識や常識的な他者への配慮を身に付けさせられるように制度改革をしていくべきでしょう。

また、産業構造の変化や価値観の多様化を踏まえた道徳教育が必要であることを考えると、東国原知事の想定している『農業・工業社会を前提とした規律訓練型の道徳教育』のみでは限界があるし、軍隊・農家の常識(規範)をスタンダードにすると『不条理な上下関係・権威(上位者)への絶対服従・四角四面の融通の効かない規範主義(慣例主義)・暴力による行動矯正・単純労働の反復・禁欲主義的な自己抑圧』などに偏った価値判断が形成される懸念もあります。現代の情報化社会への適応や金融投資立国、高度な知識労働、技術者養成など重要な若者教育の目標(経済的精神的な自立の目標)を達成するためには、『自発性(自律性)・主体性・思考力・学習意欲・弁論技術(プレゼン力)・営業力・コミュニケーションスキル』などの要素を伸張させなければならず、徴農制や徴兵制という教育手段ではそれらの要素が強化され難いという問題があります。また、特別な犯罪や問題を起こした青少年に道徳教育を重点的に行うというのであれば、徴農制にも論理的整合性がありますが、既に物事の基本的な善悪を了承して他人に迷惑を掛けていない若者たちを、十把一絡げにして強制的な長期合宿教育を行うことには『行動の自由』を奪うに足る正当性がありません。本人の適性や能力(体力)、将来の進路と強制的な長期道徳教育の効果が一致しない場合には、個人の不利益だけでなく国家の長期的なコストと経済成長上の損失も相当に大きなものになるでしょう。

東国原知事の発言そのものから少し離れて、国民を国家が強制的に徴発するという事態と徴兵制の問題を原則論的に考えてみます。まず、『徴兵制』であれば容認できないが『徴農制』であれば若者に強制しても良いのではないかという意見の人は結構多いのではないかと思います。しかし、学校教育の一環(授業時間の一部)としての枠組みや給与を得られる職業選択の枠組みを外れて、『義務教育の学校卒業後の若者(国民)』に長期間の農業を強制することは現行の憲法が保障する人権の範囲内では出来ないでしょう。徴兵制の問題点というと、『戦争(人殺し)につながる可能性があるから』というのが一番多いのではないかと思いますが、実際には徴兵というのは国家防衛の準備をする為に国民を集めて軍事的な集団訓練をすることであって、必ずしも戦争や人殺しに直結する訳ではありません。では、徴兵制の持つ一番大きな問題点は何かというと、国家が『国民の行動の自由』を恣意的に規制して、国民個々人の時間資源(有限の人生)を強制的に収奪することにあると言えるでしょう。社会契約説・立憲主義など啓蒙的な政治思想と密接に結びついた自由主義や基本的人権の生命線は、『国家が国民の自由(人生・職業キャリア)を不当に侵害しないこと』にあり、自由主義の思想的淵源は『国家権力から個々人が放っておかれる自由(自由権)』にあるわけです。自由権の歴史的な獲得や発展については、『国家権力の行使と目的を問う憲法改正論の本旨:“固有の意味の憲法”と“立憲的な意味の憲法”』の記事でも過去に説明しています。

現在の日本では国家権力(社会)から個々人が放っておかれる自由は、世界の先進諸国と比較しても最大限に保障されていますが、途上国の多くでは国民が『国家の所有物(労働資源・軍事資源)』として取り扱われるような専制的(封建的)な独裁政治の状況を脱け出られない状況にあります。ペナルティ付きの強制参加を義務付ける徴兵制と徴農制は、『国民の身体・行動の自由の拘束』という意味で発想が同じであり、徴兵制には『生命の自由の侵害リスク』があるという違いがあるだけです。基本的人権(自由・平等・博愛)の理念を世界各地に拡散したフランス革命によって、民主主義(国民主権)を標榜する近代国家が次々と成立しましたが、国民皆兵の常備軍によって軍事力を強化した近代国家(国民国家)にとって『徴兵制』は理念と現実のダブルスタンダード(鬼っ子)で有り続けました。

絶対王権に基づくアンシャンレジーム(旧体制)を崩壊させたフランス革命は、自由主義と民主主義を人類の普遍的理念として掲げましたが、自由主義国家(自由社会)を自称する国家の多くは、帝国主義(領土拡張)や国防を理由とした徴兵制を国民に強制する自己矛盾を呈していました。西郷隆盛率いる士族で構成された『薩軍』を農民が徴発された『官軍』が打ち破った『南北戦争(1877)』によって、明治以降の日本でも欧州の先進国(プロシア)を模倣した徴兵制(兵制)が山県有朋らによって整備されました。19世紀~20世紀半ばの国民国家では、戦闘の素人を駆り集める徴兵制によって国軍が組織されましたが、その最大の理由は当時の戦争が『国家総力戦(国家総動員体制)』であり、陸軍兵士を大量に動員して相手国の領土を実効支配することに意味があったからです。しかし、人類史上に類例を見ない膨大な被害を出した第二次世界大戦の反省に立って、先進国のほぼ全てが帝国主義的な総力戦の可能性を放棄する方向へと外交戦略をシフトしました。

米ソ冷戦下において核抑止力が強く働いたように、大国間の総力争の可能性はほぼ無くなり、現在では対テロ戦争や民族紛争(宗教戦争)、国家内部の反政府活動(軍事クーデター)などが主要な戦争の内容となっています。歩兵同士がドンパチ撃ち合う戦闘の必要性が減りミサイルやハイテク兵器を駆使して相手の主要拠点を陥落させることが戦略の中心になったことから、徴兵制で高コストな大部隊を集めることの戦術的な優位性というものは殆ど無くなりました。何より重要なのは、世界秩序を形成する主要な力が『軍事力』から『経済力』へと大幅にシフトしたことであり、『戦争で得られる利益』が『経済活動で得られる利益』と比較して圧倒的に小さくなってしまったのです。政治の影響力と経済の影響力のバランスも逆転しつつあり、規制緩和(自由経済・自由貿易)を促進する流れが、世界各国の経済的な相互依存性をより一層強くしています。戦争の費用対効果が十分に小さくなれば、双方が損失を出す戦争事態を選択する可能性もまた低くなり、『個人の生命の価値』が高くなる先進国では戦争に踏み切る決断を下すことは相当に難しくなります。

過去の戦争事態に対して徴兵制の果たした役割という方向に話がずれましたが、現代日本において『徴兵制』が実現困難な理由は、自由権を保障する立憲主義国家では、有罪判決を受けた犯罪者以外の国民の自由を侵害することが原則として出来ないからと考えます。過去の先進国においてそれが可能であった理由は、封建的な身分制社会の名残があったことや民族主義・帝国主義などの好戦的な空気(国防の危機感)が社会に漲っていたこと、国民の平均的な教育水準が高くなかったこと、立憲政治や自由主義、人権の正確な理解が社会に普及していなかったことを考えることが出来ますが、現代の先進国では『主権在民と国民支配のダブルスタンダードを成立させる条件』が既に失われつつあります。古代から連綿と続く伝統的な国家権力として『徴税権』『徴兵権(賦役・労役権)』がありますが、民主的な自由主義国家では個人を直接的に支配(使役)する徴兵権・賦役権を行使することは極めて困難であるか法原理的に不可能な状況にあります。

もちろん、自主的に国防の責務を果たしたいという思想を持って従軍(志願)する行為は誰にも止められるものではありませんし、古代ギリシアやローマの市民が国防を最高の栄誉と考えたようにノブレス・オブリジェとして国防の義務を解釈している保守的な人もいるとは思います。また、フランス革命の担い手である市民が武装市民であったように、国家主権の前提には自主独立を確保するための武装権や自衛権があったことも忘れてはならないと思いますし、究極的には国民の誰かが国防の実務に当たらなければならない現実もあります。故に、自衛隊(軍隊)に自主的に志願する国民は必要なわけですから、自国を自然に愛する精神性や自衛隊参加の経済的インセンティブなどにも一定以上の配慮をしなければならないでしょう。

社会契約を前提する国民国家の成立以前には、国(国王・領主・政府)が権力を発動して人民を戦争や強制労働に駆り出して使役することが可能でしたが、それは主権在民(民主主義)ではなく専制主義(絶対王政)や貴族政治(封建主義)によって政治が行われていたからです。古代の大和朝廷が統治していた日本にも、大宝律令を根拠法とする『公地公民制』や公地公民制が自然崩壊した『荘園制』が存在していましたが、この時代の日本では国土・人民は主権者である天皇(朝廷)や実力者である荘園領主・寺社勢力の所有物と見なされていました。当時の社会には誰にも人格的に従属しない自由な個人というのは法制的には天皇だけであり、実際的に自由な個人というのも貴族階級や地方領主階級など恵まれた支配階層の人たちに限定されていたのです。

つまり、国家(政府・国王)によって人民を直接的に支配して行動の自由を制限することが出来るためには、国(権力)と国民の側にある種の不可逆的な主従関係が存在していなければならず、それは国民が国家に権力を付託しているという国民主権の原則に違背することになるわけです。便宜的に、未成年は『独立した責任主体』ではなく両親や法に保護されている存在なので、一時的に公共の福祉を理由にして行動の自由を制限することが許されるという法解釈が成り立つ余地はあるかもしれませんが、その場合には『人民の徴発』を意識させる徴兵・徴農という表現を避けて、『特別強化合宿・道徳の課外授業』といった穏当なニュアンスに置き換えたほうが良いでしょう。

また、懲役・禁固といった刑罰は(死刑存置国では)死刑に次ぐ重い刑罰ですが、それら行動の自由を奪う刑罰を総称して『自由刑』と言います。つまり、『本人の行動の自由を一方的に制限する行為・本人がしたくないことを強制的かつ長期的にさせる行為(一定の生活行動空間に押し込める行為)』というのは、本人の同意がない限り教育行為ではなく刑罰同等の行為ということになりますから、刑罰以外の行動には参加・離脱の権利を認めなければならないと言えるでしょう。従業員を雇用している企業が辞めたいという従業員を強制的に慰留し続けることが違法行為であり、別れたいという配偶者・恋人を無理やり自宅に押し込めることが監禁罪の構成要件を満たすように、『集団行動や社会活動(対人関係)への参加・離脱の自由』というのは非常に重要な基本的人権の一つであると考えられます。

東国原知事は、『社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった』といった趣旨であると話していますが、社会全体のモラルハザードや犯罪発生率という意味では老若男女を問わず一定の割合でモラルハザードは起きているのであり、全ての国民に道徳教育が必要であるということになります。そもそも、道徳観形成を含む子どもの教育は学校教育と家庭教育の範疇であり、『学校教育が補えない事情・状況』があるのであれば教育制度の改革と子どもを育てる親への啓蒙教育を進めていくのが本筋ではないかと思います。また、『ある年代の一部に道徳観や常識のない人間がいるという理由』をもって強制的な拘束を伴う道徳教育が正当化されるというのは、『集団の最底辺(最も道徳観のない一部の層)』のみに焦点を当てて全員に連帯責任を取らせるような不合理さがあります。これは、市場経済における経済的な悪平等と同じで、公共空間における処遇の悪平等を意味することになりますが、自由主義社会における『他人に迷惑(危害)を加えない・法律に違反しない・基本的な礼儀作法を守る・自立的な生活を送れるように努力する』といった道徳観を何年間もかけないと学べないという認識は、平均的な若者の学習能力を不当に低く評価しているのではないかと思います。

若者の強制的な徴発による道徳教育の弊害について色々と書いてきましたが、最も原理的な問題は『個人の行動(職業選択・学問研究・経済活動)の自由の侵害』ですが、最底辺の非常識な若者に焦点を当てた道徳教育の実効性の観点からは『若者の能力・適性・目的の多様性の無視』も大きな問題であると言えるでしょう。人生の中で最も学習能力が高く専門的知識や技能を伸ばすのに適した10代後半~20代前半の時期を、本来であれば小学生くらいの段階で終えておかなければならない『何をして良くて何をしてはいけないのか・きちんと挨拶をして言葉遣いも丁寧にしましょう・他人に迷惑をかけてはいけません』といった問題に費やす時間的コストの大きさは計り知れません。少子化の速度を抑制する『子どもを産みたくなる社会』を作るという意味でも、子どもの徴発的な教育がある社会は余り好ましいとは言えませんが、青少年を徴農して精神を鍛えなおそうといった世論を強めないためにはより一層の親の教育努力が必要になってきます。

子どもの自由(時間資源)を奪って強制的な道徳教育をしようという背景には、『親も教師(学校)も基本的な善悪を教えることさえ出来なくなってしまったのではないか?そうであるならば、強制的に道徳規範を叩き込む制度的な仕組みが必要になるだろう』という子どもの人格形成(道徳観形成)のプロセスへの不信があるわけですから、こういった不信を抑制するためには『過去の自由主義と教育を巡る考察』で書いたように、個々人が自分の自由(私的領域)を守るために外部から干渉されないための自助努力を継続しなければならないのです。自由主義的な『自己責任』という言葉には弱者切捨てという暗い意味合いも確かにあるのですが、その本義には『自分のことは自分で出来るから放っておいて貰って大丈夫』という自己の自由権の確保があるということにも注意が必要でしょう。理不尽に他者(権力)から自由を奪われたくなければ、個々人が自分の言動に自覚を持たなければならないということを、自由に学んだり遊んだりしたいと思っている若者こそが心すべきなのです。

子ども達の道徳規範や礼儀作法を高めるための教育制度改革では、国家が価値観を強制するという反対が起きやすい『道徳の科目』ではなく、子ども達一人一人が『なぜ、これをしてはいけないんだろう?なぜ、こうするべきなのだろう?なぜ、こういったルールが生まれたのだろう?』といった行為規範の根拠や理由を自主的に考えてクラスメイトと討論し合うような『(哲学的な)倫理学の科目』を小中学校で義務付けるというのが良いのではないかと思います。代表的な倫理学者の学説やリアルタイムで起きている社会問題なども参照しながら『道徳規範の歴史や根拠、変化』について楽しく勉強していくほうが効果があると思いますし、『与えられた規則や命令に機械的に従う』のではなく『その規則や命令の根拠(必要性)を理解・納得して従う』というより望ましい道徳的人格の形成につながるでしょう。犯罪や迷惑行為の減少という観点からは、小中学生くらいの段階から正しくて品位のある行動をみんなが格好良いと思えるような価値観の確認をさまざまな人間関係や実体験の中で積み重ねていくことが必要ですし、逆に言えば、反規範的・反社会的な他人の迷惑になる振る舞いをカッコイイとする感性を育てない生活・教育環境を整備することが求められることになります。


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