自殺を“個人の問題”に還元しない自殺対策と自由主義社会におけるアトミズム(個人化)の問題:1

現代日本のメンタルヘルス(精神保健福祉)の喫緊の課題として年間約3万人にものぼる『自殺対策』の問題がありますが、最悪の結果である自殺を予防し抑止する為には『公的な支援・専門的な支援・個人的な支援』の三者をバランスよく統合して自殺志願者の生への意欲を強化していく必要性があります。意識的・病理的な自殺という行動は、高度な自己概念と自尊心、複雑な経済社会(生活環境)を持った人間特有の行動であり、『自殺の予防対策』では直接的・間接的な支援(援助)を通して、健全な自尊心と生存欲求を強化していくことが目標となります。

先進国の自殺者数は一般に途上国の自殺者数よりも多くなりますが、日本の自殺者数及び自殺率は欧米先進諸国と比較してもかなり高い数値になっています。しかし、日本が世界最大の自殺率を記録しているわけではなく、ロシアと東欧を含むユーラシア大陸北部の寒冷地域・政情不安定地域では日本よりも高い自殺率が見られます。自殺行動と温暖・寒冷な気候帯との間に因果関係があるのかは検証されていませんが、うつ病(気分障害)に冬季うつ病と通称される季節性感情障害(SAD)があるように、日照時間が短い寒冷な気候帯では脳内のセロトニン系の情報伝達が障害されやすい傾向があります。地表面が氷雪に覆われるような寒冷な気候では、日照時間が短くて日光を浴びれないだけでなく、外出機会が制限され精神の内向性が強まることも抑うつ感や気分の落ち込みと関係しているのかもしれません。

国際的な自殺率の統計資料を見る限りでは、ユーラシア大陸の北部と日本で自殺率が高く、北米大陸のアメリカやカナダ、ヨーロッパのイギリスやスペイン、ポルトガルではやや低くなっています。南米大陸では更に自殺率が低くなっており、詳細な統計データがありませんが、中東やアフリカ、オセアニアの南国などでは自殺率はかなり低く意識的な自殺は殆ど見られないようです。上記のような気候とも自殺は関連していそうですが、それ以上に、伝統的な共同体(家族)や価値観、社会全体の活力が衰退した国や自意識の高い孤立した国民の多い国で自殺率は高くなる傾向があるように思います。元々貧しい国の中での『平等な貧困』と豊かな国の中での『格差としての貧困』では、当事者の状況の受け止め方や自己認識が大きく変わってきます。経済的問題による精神的な打撃と未来への絶望感は、居住国の経済活動の発展度合いによって異なってきますから、先進経済国における『失業・破産・負債(借金)による経済的貧困』の影響はそれ以外の地域における貧困よりもハイリスクになります。

バブル経済以降の日本では格差社会や勝ち組・負け組がキーワードになったり、自由主義とセットになった自己責任が強調されることで『金銭・生産性(労働者としての能力)・成長性(今よりも良い生活)』を重視する価値観が広がりました。自殺行動を選択する根本原因は『将来の状況が今よりもますます悪くなるという絶望感』『自分以外の頼れる者は誰もいないという孤立感』であり、誰とも関係しない徹底的な孤立状況では『誰かを悲しませないために生きるという欲求』も根こそぎ奪われることになります。希死念慮が高まった時に自殺行動を回避する要因になるものとして『対象関係の希求性』は重要であり、『自分以外の誰かのために生きなければならない』という状況認知が自殺の抑止になることは少なくないようです。反対に、誰とも心理的につながっていない完全な社会的孤立は、自殺のリスクファクターになりますから、身寄りのない高齢者や病者、家族・知人のいない困窮者などには集中的な社会資源の投下による心理的・経済的支援が必要になるとも言えます。

自殺の経済生活的原因に焦点を当てると、職業生活への自己責任と競争原理の浸透や相互扶助を実現する地縁・血縁コミュニティの崩壊といったものが大きく影響している可能性もあります。『お金であらゆる満足感が買える』という価値観は『お金が無くなれば生きる希望を失う(何もできない)』という価値観と表裏一体ですが、地域社会や人間関係が緩やかに崩壊しつつある現代日本では、『お金以上に大切なものは数多くある』という信念を持っていても『お金が無ければ何もできない』という現実に打ち負かされる状況は少なくないでしょう。最低でも自分の日常生活に必要な経費は自分で稼ぎ出す必要があるわけですが、特に、経済支援をしてくれる家族・配偶者がいない人にとっては『お金の切れ目(多重債務・失業状態)』というのは生活上の行き詰まりに直結する恐れがあります。

都心部では地域社会の相互扶助を期待できるような人間関係の素地が失われて久しいですし、資本主義経済が発達してある程度の経済的余裕が生まれてくると、大多数の人は『直接的な利害関係のない他人』と親密な人間関係を築くことに消極的になります。趣味や話題の共有性、価値観の近似性、性的な関心などがない全くの他人と『近所づきあい』をすることは人間の本能的欲求ではありませんし、先進国に住む人々の大部分は恐らく『生活上の必要性(天災・戦争・恐慌など)』を感じなければ他人と親密な近所づきあい(直接的な行動による相互扶助)をすることはないでしょう。

確かに、インターネット上のmixi(SNS)やブログ、掲示板で『バーチャルな人間関係』を作り上げている個人は増えていて、『人とのつながり』を強く求めている人たちも多くいますが、その人たちが地域社会の人間関係や集団行動に熱心になることはあまり考えられません。現代人の多くが求めている『人とのつながり』というのは、『自分の好きな属性を持つ他者(一緒に過ごして楽しい他者・話の合う他者)』との自由なつながりであり『同じ地域に住んでいる他者』との義務的なつながりではないからです。現代の情報化社会では『人とのつながりの可能性』は増えていますが、『共同体的な人とのつながり(相互に義務や責任を負うような関係)』は減っており、相手に対して何らかの義務(責任)を負う状況の多くに金銭(経済取引)が介在するようになっています。インターネット上でも、普段話せない内面を語り合う友人は多く作れると思いますが、社会生活の具体的な悩みに対処してくれるような友人は恐らく作れないでしょう。

インターネット上に限らず、実際の友人や親族でも『自分の好きな属性を持つ他者(一緒に過ごして楽しい他者)』としか関係を維持しないというケースは増えているかもしれません。意識的ではなくても『自分にとって不利益になる他者』から遠ざかるというのは社会行動上の防衛本能の現れですし、中には周囲の人たちに迷惑や被害を与えすぎて遂に愛想を付かされたという困った人もいるでしょう。現代社会では『相手に不利益や心理的負担を与える悩み』を相談できるような関係は家族か親友くらいしか残っておらず、そういった悩みや苦境を打ち明けることには『相手から疎遠にされるリスク・自分が社会生活の中で築いてきたイメージが失墜するリスク』が絶えずあります。

自分や家族が生きていくだけでいっぱいいっぱいという状況であれば、親しい知人であっても『自分が今、苦しい状態にある』という経済的問題や精神的苦悩を打ち明けるのは非常に難しいと思います。自殺者と近しい関係にあった知人が『どうして相談してくれなかったんだ』という後悔の念を述べることはありますが、相手に対する配慮や思いやりの強い人ほど『相手に心配や負担をかけるような内容の話』はできないというジレンマに追い込まれます。普段の生活では、『他人に頼らない(甘えない)自立精神』は社会適応に大いに役立ちますが、希死念慮が高まった精神状態では責任感と自立精神の強い人ほど周囲の人たちに自分の悩みを話せなくなり、自分の力ではどうしても現状を打開できないと判断した時点で自殺企図に走ります。

自分の弱みや苦境を他人に晒すというのは、自尊心が傷つく行為でもありますから、自分の理想的(幸福・優位・裕福)な側面しか周囲に見せてこなかった人ほど『弱者としての自己認知』を拒絶する心理によって自己破壊願望が高まるという危険があります。自殺リスクという点では、『強者としての自己認知』から『弱者としての自己認知』が急激に転換するほどリスクが高くなり、自分の人生に対する完全主義・潔癖主義が強い人ほど失敗や挫折を悲観的に認知して再起を図ることが難しくなります。特に、自分の幸福や存在価値を他者の生活状況や社会的ステイタスとの相対比較によって推し量るようなタイプの人の場合には、リストラ・失業・降格・不合格・前科を負う犯罪などに対するストレス耐性が低くなってきます。『一度、失敗して落ちぶれてしまったらもう何をしてもダメだ』というネガティブな自己否定的認知で自分を追い込んでしまうと、『今・ここから何をすれば良いのか』という未来に向けた合理的で現実的な判断を下すことが出来なくなるわけです。

地域コミュニティの衰退の話に戻りますが、伝統的な地域社会(小規模な共同体)というのは『同じ地域に住んでいるという理由』だけで地域住民との共感的な相互扶助が実現できていた社会のことです。しかし、『出身地・職業・所得・年齢・価値観・教養・興味関心などの属性』がバラバラな他人が集まる都会(都心)ではこういった地域社会を構築することは非常に困難です。何故なら、『他人に助けて貰う必要を感じない人(経済的に自立している人)』はそういった地域社会には参加したがらないし、職場での仕事以外に『相互扶助の義務や人付き合いの精神的ストレス』をできるだけ負いたくないからです。近隣とのしがらみが強い『伝統的な共同体』を復活させたいという欲求が現代人の過半にはそもそもありませんし、都会に住む平均的なサラリーマンの多くも、義務的な相互扶助がある地方部の農村社会に移住したいとは思っていないでしょう。直接的な行動や毎日の近所づきあいによる相互扶助というのは、非常に精神的・時間的コストが大きなものなので、経済が発達すると国・自治体が実施する社会保障制度のような間接的相互扶助(お金を支払うことによる相互扶助)へと移行していきます。

資本主義経済に基づく近代社会とは良くも悪くも、昔ながらの近所づきあいに代表される『他人との義務的な付き合い(しがらみ)』を減らしていく社会であり、他人と個人的に付き合わなくても生活できるような『何でも購入できる商品経済』を作り上げていく社会ですが、人間の大部分が『必要以上の義務的な人間関係を望まない欲求』を持っていることが近代的な資本主義経済の推進力になっている一面があります。若い人ほど美容院で美容師がプライベートな事柄について細々とした質問をしてくることを嫌う傾向があるといいますが、大多数の現代人は、サービスや商品を購入する場合にできるだけコミュニケーションコストを払いたくないと思っているようです。

ファミレスやコンビニ、スーパーなどの良いところは、店員が自分を『固有名』として認識せずに『匿名者』として儀礼的な無関心を通してくれるところですが、美容院やエステなどのサービス業では『固有名』で丁寧に応対したり、顧客の私生活(仕事・家族・趣味など)に若干の関心を示すことが付加価値になると考える傾向があります。しかし、最近の美容院では、テレビやDVD、ゲームなどを設置して、できるだけ顧客にコミュニケーション・ストレスをかけないようにしようという美容院も現れ始め、ますます『他人とはできるだけコミュニケーションしない』という流れが進んでいきそうな感じもします。すべての人に同じように接するマニュアル的な対応や一言も話さずに商品を買えるシステムが『非人間的で冷たい』と言われることもありますが、それと同時に『個人として認識されないので気楽に買い物ができる』という側面もあります。個人対個人が向き合う美容院やエステのような対人接客業では、プライベートな話題を楽しめる人とそうでない人との違いがあるので、顧客の態度や反応を見ながらどのような接客(話しかけ・沈黙)をすべきか臨機応変に判断しなくてはならなくなっています。

mixiやブログ、メッセンジャーなどでは、見知らぬ他人とコミュニケーションしたい欲求が強い人でも、近隣住民や店員(サービス業者)とは積極的にコミュニケーションしたいわけではないという現実は、『固有名として認識されて親密な関係をつくりたくないという欲求・親しくない他人と話すのがストレスになるという認識』を反映していますが、それは現実社会ではウェブと違って『コミュニケーション・コストの自分本位な調整(話したい時に話し、話したいと思える相手とだけ話すという調整)』が困難だからです。

人間関係の築き方の変化という点では、前近代社会は地縁・血縁に代表される『義務的・非選択的な人間関係』が起点となっているのに対して、近代社会は親子の血縁関係は残っているものの自分で自分に必要な相手(好きな相手)を選ぶという『権利的・選択的な人間関係』が中心的になってきています。もちろん、近代以降の社会でも職場や学校などで『自分にとって重要ではない相手(嫌いな相手)』と付き合う場面は多くありますが、その多くはビジネスやキャリアと関係していて、伝統的共同体の人づきあいのように変更不可能なものではありません。そして、嫌々ながらその相手と付き合っているといっても、学校でのいじめなど特殊なケースを除いて、『何らかの利益(給与・地位・名誉・教育)』とバーター(交換)になっていることが多いと思われます。

現代の日本では、人間関係が希薄になっていて地域のつながりも弱まっていると批判的な論調で言われますが、関係性の変化の理由としては『お互いに出来るだけプライバシーに干渉せずにいられるように、それぞれが自立して生きる』という自己責任感と他者への無関心があるでしょう。他人に何か手助けして貰ったら、当然、自分も他人が困った時に親切にして上げなければならないという『好意の返報性』に根ざした義務感が生まれます。現代では『ご恩と奉公』的な関係は余り好まれませんし、一昔前と比べても『他人の世話になること(他人との貸し借り)』を回避する人が増えたような印象があります。

日本の倫理規範の中核には、『他人に迷惑を掛けてはいけない(自分がされたくないことは他人にもしてはいけない)』という規範がありますが、現代では良くも悪くも他人に『何かをお願いする』という意味での迷惑を掛ける人は減ったのではないかと思います。昔は他人に迷惑を掛けずにはいられないことを前提として『他人に迷惑を掛けるな』と言っていたわけですが、今は他人との貸し借りを事前に一切しないことで『お互いに迷惑を掛けない』といった状況になっているようにも感じます。また、自立した個人同士であれば、この相互不干渉の個人主義的な関係は一番心地よいものですが、社会全体で見ると『地域社会の衰退・他者への無関心』によって社会的弱者や独居老人などへの淘汰圧が強くなるという弊害が生まれてきます。

自分の仕事や生活に追われている忙しくて余裕のない現代人の大半は、他人に良くして貰ってもそれを十分にお返しして上げるだけの余裕が自分にはないと感じているので、他人に「借り」を作る場面は極力避けようとするでしょう。そういった中で、お互いに出来るだけ個人的な問題には干渉しないようにしようという暗黙の了解が生まれ、都会の街並みでは無数の人間が集まっているにも関わらず、そこに誰も存在しないかのような儀礼的無関心が徹底されます。自分が特別に困ったことがない状況においては、誰も自分に面倒な干渉をしてこない儀礼的無関心はもっとも精神的ストレスの低い最適化された状況だと言えます。

その為、『健康で一定の経済力がある個人(差し迫った他人の援助を必要としない個人)』は、お互いに出来るだけプライベート領域には干渉しないようにしようという自由主義社会に必然的に賛同することになりますが、個人主義と自由主義が過度に進展すると、『人的なセーフティネット(地域社会の連帯)』が欠落して心身障害者や高齢者、自殺志望者、社会的孤立者にとっては厳しい社会になっていきます。社会保障制度の充実や都市環境(住環境)のバリアフリーと合わせたノーマライゼーションによって、心身障害者・高齢者・社会的弱者などが住みやすい環境整備はある程度できますが、やはり最終的には、人間の手(行動)を通した直接的な支援・対話が必要になってくるでしょう。特に、対象者の年齢が高くなるほど、精神的な孤立感や抑うつ感を回避するために、コミュニティへの帰属や対人的なコミュニケーションが重要度を増してきます。

現代の日本では、経済的な困窮者や個人的に親密な人間関係を作り上げられない人、精神的・身体的な健康を失った人が再起するための社会資源が乏しいという問題があり、頻発する孤立状況が自殺者数の多さとも関係しているのではないかと思います。『他人・公共に迷惑を掛けてはいけない』という自己責任の規範が強調されることで、自分で自分の人生や人間関係を立て直せない人は精神的・経済的に追い詰められやすくなります。その時に、周囲に自分を支援してくれる配偶者(恋人)や友人もいない天涯孤独の身であれば、希死念慮に対する耐性や生への執着が落ちやすくなりますし、何を生き甲斐にして生きていけば良いのかという方向感覚を喪失してしまうでしょう。次の記事では、共同体的な連帯と個人主義のアトミズムの対照についてもう少し考えてみたいと思います。


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