親鸞の浄土真宗と悪人正機の思想1:自力本願の功徳から他力本願の救済への転換

浄土真宗の祖である親鸞(1173-1263)は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の作成(1243)によって真宗を立教開宗したとされますが、親鸞の時代には独立した宗教教団としての体制を十分に整えておらず、親鸞自身には旧仏教を否定する新宗派を開設する意志はなかったともいいます。しかし、数十万人以上の規模に信徒数を増やした浄土真宗は、親鸞の死後に親鸞の子孫(覚如)と高弟との間で利害対立が起きて、蓮如登場以前の真宗は分裂状態(仏光寺派・三門徒派・専修寺派など)にありました。

法然や親鸞、一遍、日蓮ら鎌倉仏教の開祖たちは日本の大乗仏教の特異的発展に大きな働きをしましたが、『仏教の一般大衆化』へもっとも大きな貢献をしたのは親鸞の悪人正機の教えでしょう。親鸞は、『学問・苦行・戒律・伽藍(建築)としての仏教』を批判的に乗り越えていく中で、古代仏教の悟り(解脱)のエッセンスであった『自力救済(自力本願)につながる善行の功徳』を否定しました。『仏教の善行』となる学問や修行、禁欲を自力で積み重ねた者のみが一切の苦悩を克服した『悟り』に至るというのは、伝統仏教が重視した『聖道門(しょうどうもん)の道』です。

しかし、法然や親鸞の浄土信仰が重視したのは、阿弥陀仏(阿弥陀如来)の無限の本願(慈悲)をただひたすら信じて称名念仏することで救われるという『浄土門の道』でした。浄土門の道で悟りを開く為には、『自力本願の修行』をするのではなく『他力本願の信仰』にただひたすら専心しなくてはならないと説きました。なぜなら、極楽往生への救いを実現する阿弥陀仏は、その人が賢明であるか愚鈍であるかなどは全く意に介さず、その人が修行や学問をし続けていようといまいと、阿弥陀仏の本願の慈悲を信じて念仏を唱えていさえすればすべての人を救済してくれると前提されていたからです。

親鸞は、阿弥陀仏の広大無辺な衆生救済の本願(慈悲)を本心から信じて『南無阿弥陀仏』という念仏を唱えることを『信心決定(しんじんけつじょう)』と呼び、信心決定した念仏者はそのまま弥勒菩薩など諸仏と同じ地位に立つと述べました。阿弥陀仏は末法の世における唯一の救済者ということで、全知全能の一神教の神になぞらえられることがありますが、浄土真宗の加入儀礼である『信心決定』も、キリスト教の洗礼やイスラム教の信仰告白(シャハーダ)に少し類似した部分が感じられて興味深いものがあります。

また、念仏信仰というと、いつも折りに触れて『南無阿弥陀仏』と称名しなければならないイメージがありますが、親鸞はいったん信心決定して念仏を一回唱えれば、その後に繰り返し阿弥陀仏の救いを願う念仏を唱える必要はないとしています。繰り返し何度も唱える念仏は『余った念仏』に過ぎず、念仏を多く唱えたからといって利益もなければ害悪もないのですが、親鸞は余った念仏は、『衆生への念仏布教(布教が阿弥陀仏への報恩になる)』に振り向けるように説いています。念仏布教が阿弥陀仏の慈悲に対する現実的な謝恩の形となり、浄土真宗は戦国時代末期に至るまで各宗派を凌ぐ圧倒的な大勢力を形成していくことになります。

親鸞は、『自力本願の善行の功徳』から『他力本願の阿弥陀仏の救済』へと仏教をパラダイムシフトして、唯円の『歎異抄』に記された「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説によって、阿弥陀仏の本願による救済対象が「善人・賢者」ではなく「悪人・愚者」であることを示しました。浄土真宗の他力本願や悪人正機は、『何も努力しない依存的な人や、進んで悪事を働く悪い人が優先して救済される』というような誤解をされることもありますが、他力本願とは厳しい学問や修行によって自力救済が不可能な一般人の解脱(悟り)の道筋を示したものであり、悪人正機は、煩悩(欲望)を消し去れない「人間の原罪的な部分」に自覚的な人を指して「悪人」と呼んでいるに過ぎません。

阿弥陀仏の寛容な本願が、善悪の区別なく衆生を悟りに導き、極楽往生を約束するというのは確かですが、親鸞は称名念仏には「自己の救済」だけでなく「阿弥陀仏への報恩(感謝)の心」も入っていると説きますから、信心決定した念仏者が、自分から進んで悪事を働いたり他人から奪い取るということは考えられないのです。無論、実際には、悪事や乱暴を働く真宗の信者も多かったですし、信仰擁護のための一向一揆や宗教戦争も多くありましたが、理論的な建前としては、浄土真宗の教義が『敢えて悪人になること(悪事を働いても、どうせ極楽往生できると開き直ること)』を勧めているわけではありません。

次の記事で、親鸞の他力本願(仏性論)の信仰のあり方に内在する平等思想についてもう少し補足しようと思いますが、浄土三部教を根本に置く仏教思想は『阿弥陀仏の下の万民平等』を説くという意味で、一神教的な世俗階層(身分制度)を無効化する魅力を持っていました。つまり、阿弥陀信仰やキリスト信仰に通底する精神作用として、世俗の身分秩序による劣等コンプレックスの破壊があり、自尊心を高める『宗教的な自己規定(究極的に神仏が背後に居て自分個人を見守ってくれるという意識)』を下層階級に伝播するという力がありました。


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