なぜ、資本主義社会では労働者のスローライフが実現しないのか?2:持続的成長を義務付けられた経済機構

資本主義経済によって文明生活の利便性や快適性が拡大し始めた20世紀半ばには、国家経済が成長してテクノロジーが進歩すれば、国民の生活が楽になり労働の負担も減っていくというある種の理想郷(ユートピア)が思い描かれていました。資本主義を支える勤勉のエートスとは『未来の進歩や繁栄を実現するために、現在の苦労や不自由に耐える』というところにあり、例えば、公的年金制度などにしても気力・体力が充実している若いうちに一生懸命働いて、老後はのんびりと自分の好きなことをして生活するという人生設計が根底にあります。

公的年金制度の持続可能性などの問題はありますが、資本主義の労働道徳の大半は『特別な才能や技術を持っていない人でもある程度苦労して我慢すれば、それなりの豊かさや楽しみにありつける』という部分に依拠しています。仕事自体に余り魅力や面白さを感じていない人でも、長期間にわたって勤勉に働き続けられるモチベーションは、『生存欲求(自己保存欲求)・承認欲求(他人や社会から存在価値を認められたい)・親和欲求(家族や親しい相手と交流するコストを賄いたい)・消費欲求(物欲を中心とする差異化の欲求)』の主に4つの欲求によって支え続けられてきました。

現代社会では『代替可能な労働の時間評価額』が下がり続けていることで労働モチベーションの格差が広がりつつあり、普通にフルタイムで働いても平均的な豊かさや幸せにありつけないのではないかという不安が強まっています。みのもんたがタマホームのCMで『普通に働いている人が家を買える、それが当たり前じゃないですかね』みたいな台詞を言っていますが、『普通に働く』という共通定義が社会で成り立たなくなっている雇用形態(給与報酬)の多様化が現代の特徴でもあります。給与が時給換算で1000円前後の労働者でボーナスが無い人の場合、普通に働いても新築の家は変えないでしょうし、正規雇用でも中小企業などの場合には、住宅ローンを払い終わる30年後まで順調に今の給与水準を維持できるかも分かりません。

国際的なマネーの流れが活発化する金融資本が主導する現代の高度資本主義経済では、情報技術や金融市場のテクノロジーが進歩すればするほど『単純労働の量』が通用しなくなっている状況があり、将来的には『外国人労働者の受け容れ』という更なる雇用ダンピングのリスクがあるわけです。業務を外部企業や外国企業に委託するアウトソーシングやオフショアリングが活発に行われているアメリカでは、インドや中国など新興国の知識労働者層にホワイトカラーの仕事の一部が移転しつつあり、アメリカ人であるからといって必ずしも雇用上のベネフィットがあるわけではない状況が生まれつつあります。日本の場合、『日本語』という地域言語があり主要業界への参入規制の壁が外国人にとってはかなり高いので、国際標準語の英語を話し規制緩和が進んでいるアメリカよりも『自国民保護の労働市場』を守りやすい環境はありますが……。諸外国による『労働市場・貿易経済の規制緩和への圧力』『外国資本の流入による経営陣・大株主の国際化』の流れは今後も更に強くなってくるでしょうが、大局的な観点で長期的な市場経済を展望すると、『グローバリゼーションや情報化社会の進展による各産業分野への影響』を継続的に回避し続けられる可能性は低いでしょう。

以前に、日本のホワイトカラー全般から『過労死推進法・残業代ゼロ法案』と言われて大バッシングを浴びた『ホワイトカラー・エグゼンプション法案』も、『単純労働・知識労働の量』を給与として出来るだけ評価しないようにしようという経営的観点からの『行き過ぎた効率化・合理化』を意味しています。こういった米国経済的な経営重視のホワイトカラー・エグゼンプションなどの流れを見る限り、情報化社会やベンチャー・キャピタルが進展しても、『資本集約型経済(マネー中心経済)から知識集約型経済(人材中心経済)へのパラダイムシフト』はそう簡単には起きず、“個”としての労働者の権限や福祉が高まる可能性は低いように思えます。

舛添要一厚労相は、無償のサービス残業強化など悪いイメージがついてしまった『ホワイトカラー・エグゼンプション(WE)』という名称をやめて、家族みんなで楽しく生活するスローライフのイメージをもたせた『家庭だんらん法』などの名称に変更すべきではないかという提案をしたようですが、ホワイトカラーの労働者の多くからは『個人の裁量が通らない現場の実態を無視している』との強い批判が起きています。ホワイトカラー・エグゼンプションを本当に『一定条件を満たしたホワイトカラーの労働時間の削減』に役立て、『残業代(割増賃金)が出ないのであれば、私は今日は帰らしてもらいます』と言えるような法律にするつもりがあるのであれば、ホワイトカラー・エグゼンプションの適用対象を『現場での実質的な裁量権・指導力を持つ人材』だけに限定しなければならないでしょう。

以前、経団連が提示したWE法案では、年収400万円以上のホワイトカラーを対象にして労働時間規制の適用除外をするとされていましたが、単純な年収の多寡よりも『現場における発言権・裁量権』のほうがWEの適応条件としてより重要であるように感じます。多くのサラリーマンに懸念されているのは、法律的に残業をしないことが認められていても、現場的に残業をせざるを得ない同調圧力があれば、結果として『給料のでないサービス残業』をさせられてしまうということです。現在でもあるサービス残業が、更に法的に正当化されることは避けなければならず、『賃金を払わない場合には、労働時間とタスクの進捗に大幅な裁量性をもたせる』という画餅のような自由裁量労働が、本当に日本の職場で実現可能なのかということについて議論を深めなければならないと思います。つまるところ、『経営者のための残業代不払い法案』ではないという旗幟を鮮明にすれば、サラリーマンの側にもWE法案に妥協する余地が生まれてくるということでしょう。経団連の経営者層から積極的に提言されていること自体が、経営的観点からの利益が少なくないことを示しているようにも思えますが。

ホワイトカラー・エグゼンプションと労働時間規制の話になりましたが、『なぜ、経済・社会が持続的に成長しても、労働の量が少なくならないのか?どこまで経済成長すれば、ゆとりのある生活を享受できるのか?』という問いに対しては、『どんなにGDPが大きく成長して国・地方・企業が豊かになっても、飛躍的に労働時間が短くなることはない』という答えになるでしょう。なぜ、世界有数の経済大国になっても、労働の内容や分量が軽減されて楽にならないのかという問いへの本質的な答えは、『一定のゴールがない資本主義は、経済の成長と市場での競争を自己目的化する経済制度だから』ということになるでしょう。

小泉元首相の構造改革路線において『経済合理性による成長』がひたすら連呼されたのは、金融技術に支えられた高度資本主義は『経済成長の持続とそれへの期待(投資マインド)』によってのみ健全な需給バランスと投資へのリターンを維持できるからです。国際経済の中枢から遠い一般庶民的な感覚からすると、『ある程度、基本的な生活基盤が準備されていれば、そこまで成長、成長とがむしゃらにならなくてもいいのでは?』と思うかもしれませんが、この発想は基本的に資本主義と対置する社会主義(共産主義)の発想であり、資本主義のエンジンである金融資本を冷え込ませるために採用されることはありません。

『ある程度安心して豊かに暮らせるレベル』にいったん到達すればそれを安定的に維持していけば良いという防衛的な発想は『定常型社会のモデル』に依拠しており、ある意味では、前近代的な農業経済においてその定常型社会のモデルは実現していました。この経済社会モデルを簡単な言葉で言い換えれば、『贅沢な消費や新たな発明をしなくても、安心して生活できればそれでいい』ということになり、社会主義における計画経済のように『社会における総需要量』を前もって計算してその分だけを『国民に割り当てたノルマ労働』で生産すれば良いというような経済制度にも結びついています。

厳密には、イギリス産業革命以前の農業経済とソ連型の社会主義経済は、『大規模投資や計画経済の有無』の点で異なりますが、『経済成長を目指す競争原理』をあまり重視しないという点において共通する部分があります。単純に考えれば、『計算された生存に必要十分な需要』以上の生産・発明・投資をしない経済であれば、『一般労働者の労働時間量(労働負担)』は削減する方向に向かうでしょう。20世紀初頭と現在では労働生産性に格段の違いがあるので、選択肢の少ない『実用性優先の衣食住の総需要』を満たすことだけを目的とすれば労働時間は大幅に減るかもしれませんが、実際にそういった『成長を重視しない計画経済』を導入すれば『余暇時間の増大』の代わりに多くのものを私たちは失うことになります。まず、これは外国との貿易活動を無視した一国経済をモデルにしたものなので、食糧自給率の低い日本一国では『計算された必要十分な衣食住の総需要』を満たせる可能性が低いということがあります。

世界のどんな国でも、『天然資源・食糧生産力・科学技術(医療技術)・人的資源(労働力)・教育資本・社会インフラ・知的財産・金融資本』など豊かな文明生活を維持するためのリソースをすべて揃えている国はありませんから、一国だけの計画経済というのは例え実現できても非常に不安定なものとなります。外国との貿易活動で利益を上げたり必要な食料・資源を輸入したりするためには、外国の人たちが欲しいと思う商品や絶対に必要となる資源を輸出しなくてはなりませんが、日本は資源国ではないので自動車・電化製品・工業製品・先端技術・ファッション・知的財産など『付加価値の高い商品・技術・アイデア』を輸出するしか外貨を稼ぐ方法はありません。

しかし、競争原理を緩める定常型経済の弱点は、正に『付加価値(余剰価値)をなかなか生み出せないこと・イノベーション(技術革新)を起こすインセンティブに乏しいこと』にありますから、日本のように先端的な工業製品(自動車・機械製品)や知的財産(科学技術・著作物)の輸出で貿易黒字を生み出している国は、『成長しない定常型経済』では長期的に沈没していく可能性が高くなります。社会主義的なノルマ労働に支えられた経済活動というのは、『とにかく使える商品であればいい(付加価値に期待すべきではない)・昨日と同じ製品を今日も明日も作ればいい』という信念に支えられているわけですが、これは競争相手のいない規制経済(他の選択肢がないと閉鎖的な市場経済)でないと有効ではありません。つまり、『他者(外国)の需要と欲望』によって商品が売買される資本主義経済を採用する国が圧倒的多数である場合、『一定の生活水準の維持』を自己目的化する成長(進歩)のない定常型経済(ノルマ型経済)は必然的に貧窮化して破綻してしまいます。

無理のない余暇の多いノルマ労働で『衣食住を賄う生産力』という余り高度ではない国家目標を設定していても、資源のない日本のような国は、国際的な市場の需要に応えられない陳腐な製品しか生み出せなくなった時点で『貿易による富』を生み出せなくなります。いくらトヨタやホンダの自動車の性能が優れているからといって、昨日と同じ製品を今日も明日も作り続けていれば、フルモデルチェンジの周期である3~5年先くらいから急激に売上が落ち込んで赤字企業に転落してしまうでしょう。資本主義が経済の中心的なルールとして機能し続ける限り、どんなに優れた製品や技術でも、そのレベルで停滞すれば付加価値が限りなくゼロに近づき、その商品をお金を出して買おうとする消費者がいなくなってしまいます。確かに、消費者が贅沢な要求や更なる期待をせずに、去年と同じ製品を今年も来年も使い続けてくれれば、それほど苦労して働かなくてもいいわけですが、市場シェアを奪い合う競争相手(他の企業)がいる限りは、『ある一定の場所で休息する余裕』は永遠に生まれないということになります。

皮肉なことに、資本主義経済の労働者の労働時間が長時間化しやすく精神的なゆとりが持ちにくいのは、『より良いサービスや技術を生み出そうとする各企業の努力と資本の投下が続いているから』ということになるかもしれません。同じ長時間労働をしていても、『仕事が楽しくて仕方がないという人』と『仕事がきつくて嫌だという人』とが分かれる傾向がありますが、仕事の全体像が見えていて目的意識の強い人や自分の影響力(有能性)を確信できるポストに就いている人、自分の興味関心と合致した内容の仕事をしている人、社会的な貢献や他者への奉仕の意欲が強い人などの場合には、どんなに長時間労働になっても苦に思わないところがあるかと思います。

資本主義経済の本質は絶え間のない新陳代謝であり、『ここまで進歩すれば一休みしてもいいだろう』という折り返し地点のようなものはありませんから、好むと好まざるとに関わらず、より良いサービスや製品・技術を追求していかなければ『消費者に富(給与)を分配する企業』は淘汰されてしまうことになるでしょう。経済が成長しても労働のきつさが変わらない理由としては、成長最優先の新興国や安価な労働者など新しく市場競争に参加するプレイヤーが無数にいるからということもありますが、それでもなお、人々の大半が資本主義経済に賛同する理由にはやはり『自由主義との相性の良さ』もあると思います。

現代社会ではニート(NEET)という労働意欲の乏しい自発的な失業者の問題が取りざたされることもありますが、仮に社会主義的な完全雇用の定常型経済を導入すれば、ニートなど無業者の問題は強制的に解決することになるでしょう。つまり、定常型経済では学歴や専門などによって大まかな職業選択はあっても、現代の資本主義のような『職業選択・行動決定の自由』はなくなる可能性が高く、仕事は『選ぶもの(創りだすもの)』ではなく『与えられるもの(義務付けられるもの)』になってくるからです。一方、自由主義と資本主義の社会では、自分の生活を維持できるだけの資産や不労所得があれば働かないという選択肢が認められるという意味で、『(物理的な次元での)勤労の義務』というのは形式的なものに過ぎなくなっています。

しかし、社会主義的な定常型経済では『計算された国民の総需要を満たすための労働』は正に法的強制力を持つ国民の義務となりますから、『自分の適性や希望に合った職業選択の自由』が阻害される恐れが出てきます。つまり、戦時に徴兵制で兵士として動員されるような形で、『計画経済の生産義務に応じた労働力の徴集』といった反自由主義的な労働制度でないと、ノルマ達成の定常型経済はなかなか維持できないわけです。社会主義や共産主義が全体主義国家として非難されることが多かったのは、『生活の保護(完全雇用)』と引き換えに『個人の自由や発想』を奪う政策制度が多いからであり、需給調整の市場原理が上手く機能せず生産拠点が限られているために『物不足の危機・インフレの不安』に絶えず晒されることになるからだと考えられます。


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■書籍紹介
ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会 (ドラッカー名著集 8)

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