インターネットが可能にした不特定多数の表現活動とネットイナゴ問題:心理的コストの技術的・意識的な調整

インターネットというメディアとテレビ・新聞・ラジオ等の従来のマスメディアとの最大の違いは『インタラクティブ性(双方向性)』『検閲・編集の有無』であり、マスメディアのような参加障壁のないインターネットでは、誰でも自由に自分の意見や考えを社会(他者)に向けて公開することが出来る。インターネットの発明・普及による情報革命は、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷の実用化による出版革命と比肩して語られることが多いが、活版印刷(書籍・新聞)によって自分の意見や考えを広められたのは社会的な地位や資格のある極一部の人だけであり、活版印刷の弱点として政治的な規制や権力による言論弾圧(禁書処分)などに弱いということがある。

インターネットが人々にもたらした恩恵として、『PCや携帯など情報端末を持つ万人に、社会への発信能力(情報へのアクセス権)を与えたこと』があり、『規制・弾圧が通用しにくい言論の自由を世界的に拡大したこと』があるが、その恩恵にはもちろん副作用として種々の弊害もあった。インターネットの弊害としては、個人情報流出のリスク拡大(警察・官庁・学校で使うPCへのP2Pソフトの導入)や犯罪組織(テロリスト)のネット利用、音楽や映像など著作権侵害の増加、子供に対する有害・危険情報の氾濫、インターネットの依存性の問題などを指摘することが出来るが、基本的にインターネットは、情報の隔離や隠蔽、独占を不可能にしていく『透明化・明示化・公開化の作用』を持っている。

その為、著作権関連の問題でいえば、音楽レーベルやDVD制作会社が『コピー可能な商品』を作成している限り、その独占的な利用権を囲い込むことは非常に困難である。仮に、著作権を確実に保護しようと思うのであれば、PCでの複製を不可能にする特殊な規格媒体を作成して、その規格に対応した専用の機器以外では視聴できないようなシステムを作るしかないが、それは録画(録音)できないテレビ番組(CD)を作るようなものであり、任意にダウンロードできない情報端末を作るようなものである。それでは幾ら著作権に関して万全なセキュリティを敷けたとしても、結果として売りたい商品(コンテンツ)の市場規模を縮小する効果しかもたらさないだろう。インターネットが招来した情報やコンテンツの共有の流れは相当に強力であり、多くの商品(情報)がその市場価値を低減させることになったが、ユーザ(消費者)の視点から見ると、(違法コンテンツを排除したとしても)ネットに公開された無料コンテンツから受けた恩恵というのは過去の時代にはなかったほどに大きかったと言えるだろう。

そういった大規模なビジネスや企業の業界に対するネットの影響はともかくとして、一般の人々の中にもインターネットに対して良い印象を持っている人と悪い印象を持っている人が当然いる。悪い印象を持たれる理由として多く上げられるのが、『匿名性に基づく名誉毀損や侮辱・脅迫・個人情報の暴露』など言論の自由の行き過ぎに対する懸念である。特に、不特定多数の匿名者が特定可能な実名の個人を執拗に攻撃している場合や記事(コンテンツ)の内容と無関係な誹謗中傷に陥った場合に問題の被害は大きくなりやすい。以前は、コメントスクラムと呼ばれることの多かったこの種の炎上関連の問題は、『ネットイナゴ』というキーワードを元に論じられているようである。ネットイナゴ問題というのは、一人の発言者に膨大な数の匿名者(イナゴ)の否定的コメントが殺到するような事態を指している。

ネットイナゴ問題の本質は、記事(コンテンツ)に対する否定的コメントそのものというよりも、否定的コメントが記事と無関係な個人攻撃(人格攻撃)や誹謗中傷(名誉毀損)に変質して、通常のコミュニケーションが成立不能になることにあるのではないかと思う。発言者の数が余りに多くなりすぎたり、一言の短い罵倒やAA(アスキーアート)が並び続けたりすると、議論内容が曖昧化するだけでなくある種の印象評価が形成されてしまう。そうなると、無数のコメントの中にどんなに有意義な反論や批判があってもそれを読み取ることが不可能になってしまう。後から来た閲覧者のブログ記事に対するリテラシー(読み書き・読解)が低ければ、攻撃的・否定的なコメントが殺到している全体の雰囲気だけから記事内容の価値が判断されてしまったり、便乗して攻撃的コメントを書き込む恐れというのもあるかもしれない。

元記事の内容に対する建設的な議論や有効な反論であるならば、否定的な意味合いのコメントが多少ついても問題はないし、元記事そのものの価値もそれほど落とさないと思うが、同じような内容の暴言や罵倒が延々と並ぶのは「記事の作成者」にとっても「記事への反論者」にとっても得る者が少なく残念なことである。はてなブックマークのようなSBM(ソーシャル・ブックマーク)においてもネットイナゴの問題が議論されているようだが、SBMの場合は他者が自分のブログやサイトに対して寄せるコメントを技術的に制御できないことが不満や苦情の原因になっているようだ。

しかし、SBMのコメントとブログのコメント欄とを同一視できるかと言えば、『コメントへの返答可能性・コメントの場への帰属性』において大きな違いがあり、同じ暴言や中傷でもブログのコメント欄よりSBMのコメントのほうが、それによって受ける心理的ダメージは相対的に小さいように感じる。心理的ダメージや不快感の大小について一概には言えないが、熱心なブロガーやウェブのヘビーユーザでなければSBMを細かくチェックしている人は余りいないし、ブログのコメント欄と比較すると直接自分に向けられたメッセージというようには受け取らない書き手も多いのではないかと思う。

ネットイナゴ問題が深刻化するブログの記事には、大衆的な不満や怒りを誘発する何らかのトリガーがあるのだろうが、一定の知名度がある言論人(専門家・評論家・作家)の場合には『情報知識の誤り・政治的な意見の偏り・柔軟性のない対応や態度・差別的な発言』みたいなものが原因で炎上することが多い印象がある。無名の一般人の場合には『社会常識の欠如・犯罪の告知・差別的な発言・自己ルールや価値観の押し付け』など特別に発言内容の偏りが目立つケース以外はネットイナゴ問題に悩まされる危険はそれほどないだろう。

自分にとって無意味(有害)と思える他者の言葉や態度を気に掛けずスルーするという意味で、『鈍感力』『スルー力』という言葉が使われることもあるが、(脅迫や名誉毀損といった法的に問題のある発言は別として)通常の批判や反論に対してはその内容の価値によって取捨選択するリテラシーを磨くことが重要だと思う。SBMやブログにコメントをする立場から言えば、そのコメントを書き込むことの作用や効果を想像して書き込む気遣いというものがあったほうが良いし、それは相手への思いやりだけでなく結果としてウェブの言論の自由を継続的に守ることにつながるのではないだろうか(そんな自由はあってもなくても良いという意見も有り得るだろうが、ウェブの面白さの大部分が自制的な節度の効いた言論の自由にあることもまた確かだと思う)。

同じ内容の批判や反論をするにしても、「常体の文章」を「敬体の文章」に変えたり、語尾を疑問文の質問形式にして単純な罵倒語を排除するだけで、随分と相手が受け取る印象が変わってくるだろう。最終的に好き嫌いの問題や価値観の対立に行き着くテーマ(単一の答えのないどちらの立場でも考えられるテーマ)も多いことを考えると、書き込む側の『鈍感力(寛容性)』『スルー力』にも期待したい気持ちがある。ウェブで表現活動をする限りは、批判や反論を一切聞きたくないという要求は実現しにくいと思うが、SBMに書かれた否定的なコメントに敏感に傷ついてしまう人(不快感に耐えられない人)への防衛策としては、法的・倫理的な対応よりも、倫理的な勧奨(基本ルール設定)技術的な対応の組み合わせが望ましいのではないだろうか。

余りに厳格な倫理(行為規範)の強制と削除基準の設定は『言論の自由』を萎縮させてしまうので好ましくないし、ブログを書いている人の中には、批判的な内容を含めてより多くの人の意見や感想を聞いてみたいという人もいるだろう。ネットイナゴ問題の弊害としては、不特定多数とのコミュニケーションコストを真正面から受け止めて真剣に悩んでしまうことで、言論活動が萎縮してブログの更新意欲を喪失してしまうことがある。大多数のブロガーは、経済的報酬を貰っているわけではないし職業的な義務として書いているわけでもないので、自分の記事(発言)が多くの他者を不快にさせていると思い込んでしまえばブログを辞めてしまう可能性も高いだろう。不快や不満以上の問題として、現実的な利害関係や法的なリスク・経済的な損失が絡む妨害工作のようなものもあるかもしれないが、そういったリアル社会との直接的な接続は今回はとりあえず除外しておきたい。

とはいえ、大多数のブログ運営者にとって、SBM(ソーシャル・ブックマーク)やコメント欄で『不特定多数の意見や感想を次々に聞く』というのは非常にハードルが高い行為であって、実質的にネットイナゴによって匿名の個人ユーザの言論活動が圧迫されている状況が深刻化しているわけではない。現時点では、ある程度の知名度(権威性)がある著名人や言論人(知識人)のほうが、そういったネットイナゴの潜在的な圧力を受けながら記事を書いているだろうし、不特定多数の匿名者から集中的に批判されるリスクを回避してネットでは言論活動をしないという識者もいるだろう。

「My Life Between Silicon Valley and Japan」を書いている梅田望夫さんのように批判や反論も含めて『(ネットの言論空間が存在する)現代に生きる幸福』を痛感できる作家や言論人というのは極めて稀だろうし、『国民の声を聞きたい』と真顔で語っている政治家の大半も実際にネットでブログを立ち上げて、コメント欄を開放することは最大限回避したいと思っているだろう。様々な立場や価値観を持つ匿名の国民(大衆)の生々しい声というものを、実名(顕名)で真正面から受けて耐えられる人というのはそう多くないし、直接的な利害関係が関与する政治や行政・ビジネス分野の有力者が実名でネットに登場してコメントを受け付けることには相当なリスクがある。

現実社会における権威や地位がある人ほど、通常は自分の専門分野における無知(誤謬)や道徳的(法律的)な正当性に対して慎重な態度を取るので、現実社会における優位性が通用せず他人が間に割って入れないネットにおける『剥き出しでフラットなコミュニケーション』には抵抗と不安が強くなるだろう。ネット世界における特殊性とは、『入力された文字(発言)だけがほとんど全て』という極端なフラット性であり、現実社会のようにそれまで積み上げたキャリア(地位)や名誉、影響力によって『言論のゲタ(あの人が言うのだから間違いないだろう)』を履けないところに難しさがある。

無論、ネット世界における活動期間が長く一定の知名度や評価を得ているような人は、自分を知っている人が構成するコミュニティ内部で『言論のゲタ』を履くことが出来るが、不特定多数の人間が参加するインターネットでは『人物の属性(誰が書いたか?)』よりも『書かれたテキスト(何を書いたか?)』に重点が置かれることが多い。表情や動作、声色といった非言語的コミュニケーションも皆無なので、言葉数が少なく表現力が豊かでない人や感情的なコメントを書く人は、本人の意図とは違う方向へと誤解されてしまう恐れも高くなるのである。

コメントを寄せた相手の反応を見てコメントを書く側が自己規制し、コメントを書かれた側も余ほどの侮辱・罵倒でない限りスルーすることが最も望ましいが……現実的な技術的対処としては、『コメントの評価機能』で特別に罵倒・侮辱が行き過ぎているユーザの書き込みを規制したり、通常の批判や意見で使う必然性の乏しい人格攻撃のみを目的とした表現を削除基準に含めたりすることが考えられる。SBMのようなサービスに感じるコミュニケーションコストには個人差が大きいが、インターネットが可能にした不特定多数とのコミュニケーションには『情報価値の取捨選択における難しさ』だけでなく『心理的コストの適応的調整の難しさ』があることをネットイナゴ問題から感じさせられた。


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