村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の書評

過去に村上春樹の小説では『海辺のカフカ』『ダンス・ダンス・ダンス』の書評を書いたが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、二つの物語がパラレル(同時並行)に進行する形式を採っており、読者は『ハードボイルド・ワンダーランド』『世界の終り』という二つの“異世界”で魅惑的に展開する物語を忙しく行き来する仕掛けになっている。

数値データを迅速に処理できる特殊技能を持つ計算士である“私”は、『ハードボイルド・ワンダーランド』で、現実世界における自己の存在証明(アイデンティティ)の不確実性に晒され、“平凡な事象の反復”で保証された日常から必然的に逸脱していく。『世界の終り』の物語は、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーのようなRPGの世界観を映し取った幻想的な舞台で静かに紡がれていく。そこで生活する“僕”は一切の苦悩から解き放たれた安寧の生活を得ることと引き換えに“自分の影”を捨ててしまったのだ。

『ハードボイルド・ワンダーランド』の主役である“私”と『世界の終り』に直面する“僕”は不可分な存在であり、失われた重要な記憶の本質を共有しているけれど、別世界の物語に生きる登場人物として創作された二人をつなぐのは“獣の頭蓋骨”だった。獣(けもの)といっても現生する脊椎動物ではなく、化石資料によって過去に実在が確認されている脊椎動物でもない。世界各地の神話や伝承、民話によって語り継がれている幻獣の一角獣(ユニコーン)の頭蓋骨に秘蔵された消えかかりつつある“記憶の断片”が、物理世界では接点のない“私”と“僕”をつないでいる。

毛足の長い金色の体毛に覆われ、額の真ん中に天空に向けて突き出す一本の長い角を持った幻獣が一角獣であり、この小説では獣と称されていて、二つの物語のどちらでも重要な役割と意義を与えられている。『世界の終り』の話では、実在する獣(一角獣)がいて、獣は朝になると“西の門”から街に入ってきて、夕方になるとその門から街の外へと出ていく。この街の外部と行き来できるのは“獣”だけであり、この街の住人である“人間”はただ一つの外界との通路である“西の門”から外に出ることは決して出来ないのだ。

街と外部をつなぐ重厚な“西の門”には筋骨隆々とした精強な門番がいて、外部に出ようとする人間を通さないように見張っているが、この街の住民は決して自発的に街の外に逃げ出そうとは思わない。何故なら、この完全な街では手に入らないものがないし、この街の数少ない規則に従うことに不都合を感じる住民は一人もいないからだ。

『ハードボイルド・ワンダーランド』では、不思議な魅力を持つ太った若い女の受付嬢とその女の祖父で生物学(脳科学・音響学・言語学)の天才科学者である老人が登場する。老人は川の流れる地下通路の奥にある滝の裏側に研究所を構えているが、光の届かない地下通路には“やみくろ”と呼ばれる人間を食べる危険な生物が棲息しているという。組織(システム)に属する計算士の“私”は、その生物学者の老人からトリプル・スケール(標準料金の3倍)の高額な報酬を得られる仕事を依頼される。

老人は、“洗いだし(ブレイン・ウォッシュイング)”と“シャフリング”という作業を“私”に依頼してきたが、特殊な脳内の情報処理過程を使うシャフリングは“組織(システム)”によって使用が禁止されている機密事項だった。老人はシャフリング済みのデータの納期を3日後の正午と指示し、その納期に遅れると『ある意味で、世界が崩壊する』という含みのある答えをした。

このワンダーランドには、計算士を抱える“組織(システム)”と記号士を抱える“工場(ファクトリー)”という二つの大きな企業があり、組織(システム)は社会の利益の為に情報(データ)を活用する半官営の組織とされ、“工場(ファクトリー)”は暴力的な手段も厭わず機密情報(データ)を不当に盗み出して利益を上げる非合法的な組織とされている。

『ノルウェイの森』をはじめとする村上春樹の小説では、異性と何気なく交わる“性愛”が自閉的な独我論の監獄を突き破る唯一の経路として描かれていることが多いが、『ハードボイルド・ワンダーランド』では、性的魅力を感じた太った若い女(老科学者)と計算士の私は寝ないし、親切な図書館の受付の彼女とはセックスをしようとするが上手く勃起しなかった。計算士の“私”は老人の科学者から一角獣に似た頭蓋骨をプレゼントとして貰い、一角獣に関する資料集めを図書館員の女性に手伝って貰い、胃拡張で過食気味のその女性と性的関係を持とうとしてその女性の持つ“特殊性”ゆえにインポテンツに陥った。そして、自我意識が消える直前に3度の性交をして別れを告げることになる。

『世界の終り』では、“夢読み”の仕事を手伝ってくれる図書館の受付の彼女に好意を抱くが、“心(自我)のない彼女”との性愛の可能性に対して“夢読みの僕”は完全な世界に取り込まれてしまうような不安を覚える。この“街”の図書館で夢読みを手伝う彼女と関係を持つということは、完全な静謐と安楽に満ち永遠の生命が保証された“街”の一部として取り込まれてしまうことのアレゴリー(寓喩)であるように感じられたのだ。満ち足りた幸福と不足のない充足は、人間をその場に留める強い魔力を持つものであり、一般的な人間は“保証された安楽な生活”に取り込まれてしまうとそこから脱け出すことはまず出来ないものだから。

『世界の終り』において、僕は門番から心(自我)の象徴である“影”を鋭利なナイフで剥ぎ取られ、一角獣の頭骨から古い夢(断片的な記憶)を読み取る“夢読み”の仕事を与えられた。何一つ不自由のない平和で静かな“街”に入る為には、人間の不完全さの原因となっている“影”を切り取って“心”を捨て去らなければならないのだ。

本体である人間から切り離された“影”は生命力が弱く、そのままにしておけば厳しい冬を乗り越えられずに死んでしまうことが多い。街の外の世界で生きる普通の人間は全て影を引きずって生きているが、この街では影は争いや嫉妬、憎悪、破壊、怨恨、自己嫌悪の原因となる『危険で不要なもの』として遠ざけられている。僕は疲労困憊して意識がぼんやりした時に、精神の焦点をギリギリまで特定の対象に向けながら、自我へのこだわりと自我からの脱却に伴う心地よさを感じることがある。

極度の疲労やストレスは身体と精神を激しく打ちのめすけれど、喜怒哀楽を生み出す精神の中核を保持していれば、現実世界への適応を守って他者と共に生きる明日への鋭気を養うことが出来る。今日、体力の限界に達すれば、一休みして明日に備えればいいけれど、今日、精神の機能を損傷してアイデンティティを喪失すれば、一休みしただけでは日常の世界に戻れなくなってしまう。



「疲れを心の中に入れちゃだめよ」と彼女は言った。「いつもお母さんが言っていたわ。疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね」
「そのとおりだ」と僕は言った。
「でも本当のことを言うと、私には心がどういうものなのかがよくわからないの。それが正確に何を意味し、どんな風に使えばいいかということがね。ただことばとして覚えているだけよ」
「心は使うものじゃないよ」と僕は言った。「心というものはただそこにあるものなんだ。風と同じさ。君はその動きを感じるだけでいいんだよ」



人間の不完全性や有限性を表象する“影”は、ユング心理学の元型で自分と正反対の性格特性(行動傾向)を持つ受け容れがたいイメージである“影(シャドウ)”と重複する部分もあるが、この小説で語られている“影”は、喜怒哀楽に苦悩する広義の“心”であり固有の自我意識を維持して他者と特別な関係を取り結ぼうとする“主体性”のようなものではないかと思う。

“街”で生きるということは、主体的な判断や感情的な思考を停止して、日常の決まりきった生活に疑問を抱かずに生きるということであり、世界の不文律に従って規則的に生きるということである。そう考えると、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出現する“街”は、利己的欲求を合理的に追求するホモ・エコノミクス(経済人)が構成する“現実社会(経済文明社会)”のメタファーとも解釈することができる。外界と街の間を閉鎖する門番が『仕事をきちんきちんとやるのがいちばんだ。仕事をきちんとできない人間がつまらんことを考えるんだ』と語るが、門番規律訓練型社会の産業システムを支える“物理的な権力”のメタファーと読むこともできる。

冬の寒さによって次第に生命力を奪われる“影”は、僕の感情を持つ“心”であり主体性を持つ“自我”であるが、“影”は“街”から脱け出して生命の活力を回復するために“僕”に街の全体を鳥瞰できる地図を作成するように頼む。しかし、誰もが“現実社会(経済活動)”への適応から逃れられないように、完全な壁に四囲を囲まれた“街”からは決して逃げられないのだ。

門番は、世界が今あるように存在し続ける理由を「規則(ルール)」と呼んだが、現実社会も政府(政治権力)が制定する法律だけではなく、自己の身体性と有限性に条件付けられ、他者との関係性や社会的な役割という「規則(ルール)」にある程度拘束されている。規則(ルール)から完全に自由である個人などはこの現実世界に存在しないし、どんなに強大な権力を持っている個人でもどんなに莫大な資産を持っている個人でも、生命の有限性という自然の摂理(ルール)から脱け出ることは出来ないのだ。

何不自由のない名誉(尊敬・権力)と生活(豊かさ・健康)と愛情(親愛・安心)を手に入れる人生が、不自由と不幸と孤独に覆われた人生よりも絶対的に優位に立てるわけではない、少なくとも、現段階の生命科学が到達したレベルでは、終局に至る自然のルールは万人に公平に敷かれている。終局に至るまでの過程(プロセス)を最大限に楽しむために個々人で選択(活動と休養)を繰り返すのが「人生の本質」であり、「意識の固有性」を考えるとその楽しみや喜び、幸福の相対的な差異を他者と比較することは端的に無意味である。



「誰にも壁を傷つけることはできないんだ。上ることもできない。何故ならこの壁は完全だからだ。よく覚えておきな。ここから出ることは誰にもできない。だからつまらんことは考えんことだ」

それから門番は僕の背中にその大きな手を置いた。

「俺にもあんたの辛いのはそりゃわかるさ。でもな、これはみんなが通りすぎていくことなんだ。だからあんたも耐えなくちゃならん。しかしそのあとには救いがくる。そうなればあんたはもう何を思い悩み、苦しむこともなくなるんだ。みんな消えてしまう。束の間の気持ちなんてものには何の値打ちもないんだ。悪いことはいわんから影のことは忘れちまいな。ここは世界の終りなんだ。ここで世界は終り、もうどこへもいかん。だからあんたももうどこにもいけんのだよ」
門番はそう言って、僕の背中をもう一度叩いた。



困窮・自滅・処罰の結末に陥らない程度に規則(ルール)に従いつつ、規則(ルール)を越える自由な感情や精神を持つことができるのかというのが、高度に発展した現代産業社会が私達の人生やアイデンティティに突きつけてくる非常に厳しい問いかけだ。私達はこの現実世界へ特別な理由なく無意味に投げ出され、人生のスタートはある意味で理不尽に始まる実存的な構造を持っている。決してその向こう側に脱け出すことのできない“街の壁”とは、脳を持つ身体性に閉ざされた“私(自我)”であり、誰もがその内部で生きることを余儀なくされる“現実”である。

私達は永遠に留まるほかはない“私という自己意識”“現実という客観世界”という規則(ルール)に囚われていて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではそれを“正真正銘の世界の終り”というメタファーで幻想的に創作している。現実世界で僕らは無数の「善きもの」を得続けることができるが、同時に人生の過程で数え切れないほどの「善きもの」を摩滅させて失い続けていく。



「彼女が君の気持ちに報いることができないからだよ。しかしそれは誰のせいでもない。君のせいでもないし、彼女のせいでもない。あえていうならば、それは世界のなりたちかたのせいだ。世界のなりたちかたを変えることはできんのだよ。川の流れを逆にすることができんようにね」
「あなたが言っているのはたぶん心のことですね」
老人は肯いた。

「僕に心があり彼女に心がないから、それで僕がどれだけ彼女を愛しても何も得るところがないということですか?」

「そうだ」と老人は言った。「君は失い続けるだけだ。彼女には君が言うように心というものがない。私にもない。誰にもない」

「しかしあなたは僕にとても優しくしてくれるじゃありませんか?僕のことをきづかってくれるし、眠らずに看病もしてくれる。それは心のひとつの表現ではないのですか?」

「いや違うね。親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのは、もっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」

(中略)

「しかし君には彼女を手に入れることはできる」

「手に入れる?」と僕は訊いた。

「そうだ。君は彼女と寝ることもできるし、一緒に暮らすこともできる。この街では君は君の望むものを手に入れることができる」

「しかしそこには心というものが存在しないのですね?」

「心はない」と老人は言った。「しかしやがて君の心も消えてしまう。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。行き場所のない愛もなくなる。生活だけが残る。静かでひそやかな生活だけが残る。君は彼女のことを好むだろうし、彼女も君のことを好むだろう。君がそれを望むのなら、それは君のものだ。誰にもそれを奪いとることはできない」



幾つもの苦難や不幸によって精神的な傷つきが深くなり、愛すべき対象の喪失を繰り返すほど、自分で自分の心の感受性や敏感度を落として“心”を痛みや不快から防衛するようになってくる。現実社会に上手く適応して多くの他者と良好な関係を維持するということは、言い換えれば、かつて自分が持っていた繊細な感受性や他者への共感性をある程度“鈍感”にして、真剣に深入りして関わり合う対象を減らすということだからだ。大人になればなるほど、私達は自分の抱える複雑な幾つもの問題に精一杯になってきて、なかなか他者の為に全力で骨を折ることが難しくなってくる。

自分のやるべき事柄だけに集中し、世界(社会)におけるポジションと自分の能力の限界をわきまえるという“社会的な賢さ”を身に付けた時、喜怒哀楽につながる情報を合理的に制御する心のフィルタリングが出来ていたりもする。主観的な感情を持って大切な一人の異性を愛するということは、相手を幸福にすることもあれば手ひどく傷つけることもあるが、恋愛や結婚の持つ原理的な不完全性がそれに稀有な価値を与えているのもまた事実であろう。

長年一緒にいる相手との間には周期的に倦怠期が起こり、相手に対する“飽きの感情”を誘うが、人間は変化のない“平穏な日常の反復”に対して何らかの変化を起こそうとする傾向を持っているようだ。積極的な行動や他者への働きかけを何もしなければ平穏無事な生活が約束されていたとしても、敢えてリスクテイキングな行動を取ってしまうのが人間である。

完全無欠な綻びのない静謐な世界との相性の悪さを人間が抱えているからこそ、人は他者との対立や精神的な絶望と無縁でいることが出来ない。しかし、その反動として生まれる『生の歓喜』や『他者との情愛』は、自己と他者の不完全性、世界の不条理なあり方に由来しているのではないかと感じることもある。究極的には、人は誰にも劣らないほどに強く愛した最愛の彼女であっても、生涯連れ添うことを約束した夫婦であっても、「他者を手に入れる」という世界の規則(ルール)を越えた所有を許されていないのかもしれない。しかし、そこには他者の反論を寄せ付けぬ主観的な満足感と幻想の共有によるある種の酩酊に似た至福があるのである。だから、人は、自分にとって特別な位置づけを持つ他者を求めることを決してやめないのである。



「よくわかるよ。僕もときどきそう感じることがある。街に比べると、僕が弱い矛盾した微小な存在じゃないかってね」

「でもそれは間違ってるんだ」と影は円のとなりに意味のない図形を描きながら言った。「正しいのは俺たちで、間違っているのは彼らなんだ。俺たちが自然で、奴らが不自然なんだ。そう信じるんだね。あらん限りの力で信じるんだ。そうしないと君は自分でも気がつかないうちにこの街に呑み込まれてしまうし、呑み込まれてからじゃもう手遅れってことになる」

(中略)

影は肯いた。「君が混乱していることはよくわかるよ。しかし、こう考えてみてくれ。君は永久運動というものの存在を信じるかい?」

「いや、永久運動は原理的に存在しない」

「それと同じさ。この街の安全さ・完結性はその永久運動と同じなんだよ。原理的には完全な世界なんてどこにも存在しない。しかしここは完全だ。とすれば必ずどこかにからくりがあるはずなんだ。見た目に永久運動と映る機械が何らかの目には見えない外的な力を裏側で利用しているようにね」



幻想的な幸福と完全なる安寧に満ちた“街(世界)”で、自分の生きる意味を生み出すアイデンティティを構築する為には、“壁(規則)”を越える何かを自分の内面に見つけ出し、それを他者に投影して反応を生み出していかなければならない。それは、今この現実世界に生きている全ての人々に、瞬間瞬間に突きつけられている課題であり、人生の最期の時まで切り捨てることのできない“私の意識”の存在形式の謎なのである。何処にも逃げ場(外部)のない世界システムの一部として働く規則に従ってもなお、あらん限りの力で、自分の思考と生の意味を信じ抜くことが出来るだろうか。


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■書籍紹介
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

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