横井小楠の破約攘夷論と吉田松陰の国家(国体)の認識:幕末を通底した儒学の道理

佐久間象山は、『日本民族固有の精神を持って、外国の先進的な科学技術や学問知識を積極的に取り入れるべし』とする『和魂洋才』の有利を唱導し、和魂洋才の影響を強く受けた吉田松陰は、佐久間象山の勧めを受けてペリーが乗ってきた黒船(軍艦)への密航を企てます。吉田松陰は安政の大獄でこの世を去るまで攘夷主義者の立場を崩しませんでしたが、先祖代々の兵学者であった松陰は『敵を知り己を知れば、百戦危うからず』の精神でアメリカ渡航を企てたといいます。

倒幕による明治維新を断行する人材に比類なき感化を与えた吉田松陰は、当時においては日本全体をマクロに俯瞰できる数少ない先進的思想家でしたが、開国論者に完全に同調するほど開明的な思想を持っていたとは言えない部分があります。開国・通商・公武合体を推進する開明的な知識人としては、自分をフランスのボナパルト・ナポレオンになぞらえていた傲岸不遜な佐久間象山のほうがより進歩的でしたが、後の明治維新に与えた影響でいえば、象山の弟子である吉田松陰のほうが大きかったと言えます。

佐久間象山の門下には、松陰以外にも勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内といった錚々たる面々が揃っていました。佐久間象山は、特に吉田松陰(吉田寅次郎)と小林虎三郎の才覚と度量を高く評価しており、『天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである』という言葉を残しています。その為、吉田松陰と小林虎三郎は『象門の二虎』と呼ばれることもあります。

幕末期の武士や知識人で、孔孟の儒学の道徳的影響を受けていない人物はまずいないといっていいですが、長州藩の吉田松陰(1830-1859)や熊本藩の横井小楠(1809-1869)の思想と生涯には、特に儒教的な世界観と道徳観が色濃く反映されています。

肥後熊本藩出身の儒学者・教育者である横井小楠は『破約攘夷論』を主張しましたが、不平等条約を破棄しようとする破約攘夷論では、世界には仁を持って徳治を行う「有道の国」と武力と策略を持って強引な支配を行う「無道の国」があることを前提に持論を展開します。つまり、大義名分がなく武力と詐術によって不平等条約を押し付けてくる無道の国であるイギリスやアメリカ、フランスとの条約を、有道の国である日本や中国(清)が一方的に破ったとしても問題はないとするのが破約攘夷論です。

横井小楠は、不平等条約の破約のために日本が道理的・人道的に正しい振る舞いをする「有道の国」であることを示し、西欧列強の報復や侵略を跳ね返すために殖産興業に励んで経済力と軍事力を迅速に増強しなければならないと説きました。しかし、後の将軍となる一橋慶喜に「一度国際社会に対して、締結を公約した条約を一方的に破棄することは信義(有道)に悖る」という論理的な反対をされて、自説の不十分さを認め取り下げたといいます。

横井小楠は松平春嶽に招かれて、越前藩で藩政改革に着手し殖産興業による財政の再建に成功しますが、身分制度が固定された幕藩体制を否定して、新たな統一的な国家共同体を模索していたという意味で吉田松陰との共通性があります。

しかし、横井小楠の求めた中央集権的な国家像は、吉田松陰が会沢正志斎や豊田天功、『漢書 成帝紀』の思想から得た国体像よりも機能的で実利的なものであったと考えられているようです。吉田松陰は国家観(国体観)について、『講孟剳記』の中で以下のように述べており、民族・国土に固有の文化や歴史から自律的に立ち上がる善き側面の国風(国柄・個性・道)が国体であると定義しています。

第二次世界大戦下の全体主義体制の日本で「国体」という語句が頻繁に使われた為、個人の生命に優越するものといった認識が国体にまとわりついていますが、本来の意味では、国民個々人の日常の生活様式や国の歴史過程の中から自然発生的に生まれ出てきた善き部分の統合体といったものだといえます。故に、国民個々人の生命や権利を抑圧・侵害するような法令や政治は、「善性」がないので国体に含めることが出来ないと解釈することも可能でしょう。



国俗と国体とはおのづから別なり。大抵、国自然の俗あり、聖人起こりて其の善を採り、其の悪を濯ひ(あらい)、一箇の体格を成す時は、是を国体といふ



吉田松陰の説いた『天下は、幕府の天下ではなく、ただ一人(天朝)の天下である』という一君万民論は、封建主義的な士農工商の身分制度を否定する思想(一神教的な四民平等主義)であり、後に、松下村塾で松陰の高弟であった吉田稔麿(よしだ・としまろ)赤根武人の被差別民解放運動に大きな示唆を与えたといいます。

儒学の研鑽により正義や道理を学んだ吉田松陰は、身分制度に基づく封建社会を否定して全ての人間を平等に取り扱うという松下村塾の学風を打ち立てようとしました。天皇の下に万民は等しく生きる権利を持つと考えた松陰は、儒教の道徳観に立脚しながらも儒教の超克を図ろうとした思想家ですが、その道半ばにして安政の大獄(1859)によりその生涯を終えました。

吉田松陰は言論による交渉ではなく幕府の重臣を暗殺する強攻策によって、政治の大勢を覆そうとした意味で「国粋主義の過激派」としての側面を持っていました。老中の間部詮勝(まなべ・あきかつ)暗殺を計画した晩年の吉田松陰は、長州藩の存続を危うくするラディカルな危険思想の持ち主と見なされ野山獄に幽閉されますが、牢獄の中にあっても、江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)にひたすら倒幕活動や重臣暗殺に向けた決起を促し続けました。

暗殺や倒幕へと気の逸る(はやる)晩年の松陰は、周囲の弟子たちが自分の言葉に従わないことに激昂して深い孤独感と失望感を味わわせられますが、当時の歴史的な政治情勢を考えると、幕末に生きた知識人の限界を示唆しているものとも言えるでしょう。

江戸・伝馬町の牢で従容として死罪を受け容れた吉田松陰が、最も重んじた儒学的な徳は、君主(国家)を尊ぶことで民衆の生活を守るという『忠義』でしたが、仁の実践として全ての人間を等しく思いやる『忠恕(ちゅうじょ)』、そして、他人と自分を欺かず誠実であり続けるという『信義(誠)』も生きる指針として実直に守っていました。

幕末に明治維新を実現した志士の持っていた武士道精神とは何であるかを考えると、儒学的な政治思想や生活規範を遵守することと密接に結びついた忠烈な諫死を恐れぬ精神といえるでしょう。武士道精神の淵源となった儒学の道徳規範は、明治時代以降は、国家(君主)に生命を捧げて滅私奉公するという先鋭化した国家主義・国粋主義へと変化を遂げていくことになるので「個を無視する思想」としての危うさも内包しています。

儒学も朱子学と陽明学では、その理想とする政治のあり方や君子としての振る舞い方に違いがあるのですが、そういった儒学の進展分化も考えながら、松下村塾の歴史や吉田松陰の思想と合わせてまた書いてみたいと思います。


■関連URL
幕末の攘夷主義の精神と儒教(儒学)の伝統的な世界観

孔子を始祖とする儒教の歴史と思想の考察

プラトンの『国家』と儒教の『論語』に見る徳治主義の原型とギリシア精神の結実としての『哲学』

戦乱と混迷の春秋戦国時代に徳治主義と修己治人の理想を掲げた孔子の漂白遊説の生涯

■書籍紹介
日本の200年〈下〉―徳川時代から現代まで

エピソードでつづる吉田松陰 (単行本)

真説「陽明学」入門―黄金の国の人間学 (単行本)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのトラックバック