幕末の攘夷主義の精神と儒教(儒学)の伝統的な世界観

安倍政権の唱導する『美しい国・日本』や昨年ベストセラーとなった藤原正彦の『国家の品格』で奨励された武士道精神は、過去の日本にあった伝統的な精神性を復古しようとする主張です。

日本国憲法に基づく戦後民主主義体制を否定する『美しい国』とは何であるのかという具体的な定義は分かりにくいのですが、現状では、自主憲法の制定と道徳規範の強化を目的とする保守主義のスローガンとして認識されているようです。

日本の伝統的な道徳規範とも関連する『武士道精神』とは何であるのかを考えるとき、日本の道徳的気風を醸成してきた儒教(confucianism)の理解を欠かすことが出来ないと思います。現代の日本において『国家の品格』に書かれているような反啓蒙主義(反合理主義)の価値観にシンパシーを感じる人は、経済的利得を貪欲に追求して地域固有の文化を画一化するグローバリゼーションにも抵抗を感じることが多いのではないかと思います。

中国で孔子によって始められた儒教の原点には、自国こそが世界で最も優れた文明国家であるという中華思想がありますが、江戸末期の日本も中華思想と無縁ではありませんでした。日本民族は、古代より朝廷の置かれた本州の近畿地方(河内・大和地方)を政治権力(文明世界)の中枢として、本州から遠く離れた北海道や九州南部を蝦夷(えみし)や熊襲(くまそ)と呼び蛮夷の住む地域と認識する傾向がありました。

以下、美しい国の問題や国家の品格の理念と無関係な部分が多くなりますが、儒教道徳と日本の幕末史を概観しておきたいと思います。幕末で純粋な儒教精神を発露してこの世を去った吉田松陰と松下村塾についても言及していきます。

少なくとも、明治政府が樹立して中央集権国家の制度が整備されるまでは、『日本国』という統一国家に帰属しているという認識を持っている人民は殆どおらず、地方分権的な藩(はん)を国家に見立てて、国益(公益)を図るというのが武士の一般的な政治観でした。徳川幕府と地方の藩の関係は、鎌倉幕府の将軍と御家人を結んだ封建制度を引き継ぐものであり、中世ヨーロッパの国王と諸侯の関係にも似たものでした。

現代の日本の地方政治は、中央政府から地方交付税や補助金を得ることで成り立っていますが明治時代以前には、日本の最高権力者であった徳川家は、地方の藩の内政に必要以上の口出しをしない代わりに、財政難に陥っても交付税や補助金を与えるようなことはしませんでした。その為、地方政府である藩は中央政府である幕府に、財政的にも精神的にも全面的に依存することがなかったのです。

特に、王政復古を大義名分とする討幕運動の矢面に立った毛利氏の長州藩や島津氏の薩摩藩は、関が原の戦い(1600)の遺恨もあって、初めから江戸幕府に対する反抗心を強く持っていました。殖産興業の藩政改革に励んだ長州藩と琉球貿易で大きな富を蓄えた薩摩藩は、自主独立の気風が盛んであるという意味でも、経済的に厳しい状況に置かれ続けた東北諸藩などよりも江戸幕府との結びつきを断ちやすい立場にあったと言えます。

関が原の戦いが終わった後の論功行賞で、徳川家康(1542-1616)に苦渋を飲まされたのが毛利元就の孫・毛利輝元(1553-1625)です。関が原で石田三成率いる西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元は、徳川家康との密約を守って自ら出陣せずに待機し続けました。しかし、戦後に輝元の軍令書(出陣の命令書)が戦場から発見されたことで、激昂した徳川家康が『所領安堵』の密約を反故にして極めて厳しい制裁を与えました。

毛利氏は拠点の広島城を追われ120万石あったと言われる所領の4分の3を削り取られました。かつて中国地方の覇者であった毛利氏は一地方領主へと転落したのです。それ以降、長州藩では、元旦祝賀の儀礼の場で、家臣が「今年は徳川を討ちますか?」と問い君主が「いや、今年は見合わせておこう」と答える『獅子の廊下の儀』が慣習的に行われるようになったといいます。

長州藩や薩摩藩を筆頭とする雄藩の幾つかは『隙あらば徳川を討とう』という気構えを持っていたので、幕末の尊皇攘夷運動と結びついた倒幕の可能性は、面従腹背で従っているフリをしていた藩の内部に胚胎していたと言えます。しかし、心理的に徳川幕府に対する敵対心を持っていた藩の利害関係は個々バラバラでした。そのため、それらの藩を結びつける大義名分(革新的な思想)が生まれるまでは徳川幕府は安泰を保ち続けたのです。

1853年のマシュー・ペリー提督の黒船来航以降、日本は西欧列強の本格的な外圧にさらされるようになりますが、このアメリカやイギリスを始めとする日本の植民地化の危機が、日本の若い理想主義的な下級武士の団結と決起を促進することになりました。西郷隆盛や大久保利通、坂本竜馬、久坂玄瑞など幕藩体制を崩壊させて明治維新を実現する幕末の志士の多くは下級武士でしたが、尊皇攘夷運動の思想的・学問的な発火点となったのが吉田松陰が開いた長州藩の松下村塾でした。

強行外交を指示する共和党フィルモア大統領の命を受けたペリーの黒船来航によって『泰平の眠りをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠られず』と狂歌が詠まれましたが、実際にはペリーが来航する前から西欧諸国の黒船(大型汽船)は日本に来航していました。1808年に、オランダ船に偽装したイギリス船フェートン号が長崎港に不法入港するというフェートン号事件が起こり、外国船入港の検査と取り締まりが厳しくなっていく中で、1825年には日本沿岸に接近する外国船を無条件で打ち払ってよいという『異国船打払令』が出されました。

しかし、中華文明圏において軍事的な最強国(眠れる獅子)と見なされていた清王朝(1644-1912)が、あっけなくアヘン戦争(1840-1842)でイギリスに敗れると、日本国内の外国に対する危機感は否応なしに高まりました。イギリスは、清と不平等条約である南京条約を結んで、香港を割譲させ上海など5港を開港させました。更に、外国人を国内の法律で裁けない治外法権(領事裁判権)を認めさせ、関税自主権を放棄させました。アジアの盟主と目されていた清が大義を欠いた無法な要求を突きつけるイギリスやフランスに屈服していく中で、江戸幕府は欧米諸国の強大な軍事力と怜悧な外交戦略に対して弱腰になっていきます。

林輝を代表とする江戸幕府は、1854年にペリーとの間に日米和親条約を結んで、下田と函館を開港し、鎖国体制は事実上の瓦解に向かいます。日米和親条約の段階では、下田・函館の開港とアメリカの捕鯨船への水・食糧・薪の補給、片務的最恵国待遇を認めましたが、条約の不平等性は明確になっていませんでした。1858年に江戸幕府の大老・井伊直弼が、タウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結して、神奈川・長崎・函館(箱館)・兵庫・新潟の5港を開港して自由貿易をすることに同意します。この条約は治外法権(領事裁判権)と関税自主権の喪失を認める不平等条約だったので、日本の国益と独立を主張する日本各地の武士や学者の反感を買いました。

古典派のアダム・スミスを継承するデビッド・リカード(David Ricard, 1772-1823)比較優位説(比較生産費説)を知っていれば、自由貿易主義を実現することが最終的に日本と外国双方の利益になることを理解できます。デビッド・リカードは、二国・二財・一生産要素という単純な経済モデルで、二国間の自由貿易(不平等条約などのない自由市場に任せた貿易)が双方の利益を実現することを証明した経済学者です。

デビッド・リカードの比較優位説に基づけば、自国だけで何から何まで生産しようとする自給自足経済や外国の商品を締め出そうとする保護主義経済(ブロック経済)よりも、自国が得意な生産分野に集中して商品を生産し、諸外国と取引をする自由貿易経済のほうが効率的であり、それは現代社会に生きる私達自身が深く実感していることでもあります。

しかし、機械工業が発達していない幕末の日本には、自由貿易を円滑に継続するだけの生産力が国内になく、外国の需要を満たせば物不足に陥って国内の需要を満たせなくなり、物価が高騰するという問題を抱えていました。大老・井伊直弼が日米修好通商条約を締結して以降、江戸幕府は『開国・通商』路線へとなし崩し的に走っていきます。自由貿易で欧米諸国が欲しがる茶と生糸を大量に輸出した結果、自由貿易を支える生産力のなかった日本国内では、茶・生糸・米・生活必需品すべての物価が高騰して庶民の生活を圧迫しました。日本は、アメリカやイギリス、フランス、ロシアの外貨を獲得できても、日本国内の庶民を食べさせるだけの物資に不足をきたしてきたわけです。

勝海舟(1823-1899)や勝海舟の妹と結婚した佐久間象山(1811-1864)などの進歩的な開国論者が、尊皇攘夷派から危険思想を持つ異端者として嫌悪されたのは、『開国しての通商が日本の庶民を苦しめると思われていた』こともありますが、伝統的な儒教の世界観である『中華思想』が日本に根付いていたことも影響しているでしょう。徳川将軍家とは、朝廷から征夷大将軍に任命された家格であり、征夷とは『文明程度の低い夷(えびす)を征討する』という意味で、征夷大将軍は、周辺の異民族から日本を守る役割を負った総大将でした。

『外国船を打ち払い、異民族を追い出せ』という攘夷主義者の多くは、日本を文化文明の中心国とし、日本から遠く離れた異国に拠点を構える異民族を文化と民度の低い『北狄・東夷・西戎・南蛮』と見る中華思想の世界観に影響されていました。『異国人は自分たちの文化や知識よりも劣っているはずだ』という心理的な障壁を越えられなければ、『異国の優れた科学技術や経済制度、学術教養』に眼を向けることが非常に難しくなります。

幕末以前の時代には、周辺諸国を野蛮な夷狄と見なす世界観から脱却して、偏見のない自由な視点から世界を見渡せる人は極めて稀でしたが、佐久間象山や勝海舟、象山に感化された吉田松陰、勝海舟に薫陶を受けた坂本竜馬などは固定観念を乗り越えた先駆的な知識人・活動家であったといえます。

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戦乱と混迷の春秋戦国時代に徳治主義と修己治人の理想を掲げた孔子の漂白遊説の生涯

■書籍紹介
日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで

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