マックス・ヴェーバーの『支配の社会学』と政治権力の正統性の根拠:伝統・法・大衆の生み出す力

『永遠の過去』を繰り返す中世ヨーロッパから、不可侵の主権を持つ近代国家が誕生する歴史過程では、各地の封建諸侯が所領を分割統治する『地方分権体制』から国王が全ての権力を掌握する『中央集権体制』への移行が起こりました。国王が専制君主として君臨する専制君主政治は、ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーの社会契約説を踏まえた立憲主義と民主主義(ロシアや中国ではカール・マルクスやレーニンの官僚独裁的な共産主義)によって次第に衰退していきますが、現代の民主政体の国家も不可侵の主権を持つという意味では絶対王政と変わりありません。

現代社会における“不可侵の国家主権”というのは、国家以上の上位審級を私たちは持たず、最高裁判所の判決を合法的に覆すことは出来ないという事であり、国家が所有する正規軍以外に私兵を集めて軍隊を構成してはならないという事です。現在の国家権力の立法機関である国会(議会)以外に、勝手に議会を開いてそこで法律を制定しても当然無効ですが、統一的な国家権力のない分邦体制であった中世ヨーロッパでは、各地の封建領主が独自に法律を制定することが出来ました。

中世ヨーロッパの世界は、群雄割拠する各地の諸侯(封建領主)が強大な権力を保持していて、その勢威と影響力は各地の封建領主を取りまとめる国王と同等かそれ以上のものでした。中世ヨーロッパの国王は、形式的には各地の封建諸侯(貴族階級)よりも上位の地位にありますが、封建諸侯が所有する領土や人民(平民・奴隷)に対して権力を行使することは出来ませんでした。即ち、主権国家が存在しない中世の国王は、国王といっても現在イメージされているような独裁的な権力者ではなく、家臣である封建領主に自由自在に命令を下せるというわけではなかったのです。

現代の国民国家においては、国家以外の集団が、集団的な暴力(軍事力)を組織したり利用することは違法ですし、一般国民が武力で国家権力を簒奪する革命のような事態は、多くの先進国では起こる余地が殆どありません。しかし、現代の一部の開発途上国やイラク戦争でアメリカに敗北したイラクでは、絶対的な不可侵の国家権力が確立しておらず、国家が暴力装置を独占していないので悲惨な内戦と闘争が続いています。

歴史や伝統、民族を無視して考えてみれば、多種多様な価値観や欲求を持つ人間が、単一の国家権力に服従して秩序を維持するというのはかなり困難なことなのかもしれません。日本のように文化的・歴史的・慣習的な同一性が強い国家(明治以来の歴史からそう信じている民族)や日本人のように平和志向性が強く(平和主義と協調外交を強調する教育内容)、過去の戦争に対する復讐感情の弱い民族(歴史的事象へのこだわりが淡白な民族)というのは、世界では極々少数派です。

その為、日本人が思っているほどには単一の国家権力による治安維持は自明のものではなく、中世ヨーロッパや日本の戦国時代のように、暴力装置(軍隊)と立法機関が分散して存在する地方分権的な政治システムが残存している地域にあっては、統一国家の正統性を承認させることは大変なことなのです。日本では警察と自衛隊以外に、日常的に武装して勢力を誇示しているような人物はいませんし、そういった人物や集団が仮に出現しても銃刀法違反の容疑で容易に拘束されたり正当防衛による反撃で屈服させられるでしょう。

治安が安定しない国や内戦が継続する国というのは、合法的な警察や軍隊を持つ国家以外に、国家に対抗できる軍事力(暴力)を持つ軍閥(集団)が存在していたり、国家権力の正統性(レジテマシー)を認めない国民の数が無視できないほどに多かったりすると考えられます。

法治政治を行う先進国に住む人々は、全ての人が議会で制定された法律に従うことが当然の国民の義務であると考えますが、現在、泥沼の内戦状態に陥りつつあるイラクなどでは、アメリカが主導して建設した民主国家(イラク政府)の正統性を承認しない武装勢力が相当数いて、イラク政府が制定した法律を無視しています。法治国家が有効に機能する為には、その領土に住む国民が国家へ自分自身の権力(自然権)を移譲して、その正統性を承認する社会契約を済ましている必要がありますが、既存の国家権力が打倒されて新生の国家が建設された場合には、社会契約を結ばずに国家権力に敵対する勢力集団が現れる可能性があります。

社会契約による国家の承認というと、現在の日本やアメリカ、ヨーロッパの先進国の人々は生まれながらに国籍を獲得して政治制度に組み込まれるので、誰も社会契約に「明示的な同意」をしていないから同意するまでは国内法に従属しないでも良いのかという反論も有り得ますが、既存の国家権力の正統性が、『圧倒的多数による全面的同意』を得ていて『大多数の人々にとって望ましい社会秩序と法律体系』が成立している場合には、社会契約は理念上のものに過ぎず、実際には無条件に国家の正統性を承認することになります。

現代の先進国(国民国家)の統治基盤は、国民アイデンティティと遵法精神、国家の歴史性に支えられているので一般的に極めて磐石です。警察や軍隊に匹敵するような勢力を私人(一般国民)が集められるはずがないことを考えると、既存の現代国家に代わる新生国家が確立される余地はまずありません(そもそも大多数の人には、既存国家を転覆するメリットが全くありませんから、社会契約の同意も得られません)。また、民主政治が行われている以上は、暴力的な抵抗ではなく合法的な政権交代を選択するのが合理的(理性的)であり、過半数に近い人々が餓死するような危難に晒されるか、独裁者が政権を掌握して恐怖政治の弾圧を行うかといった余程深刻な危機的政治状況が継続しなければ、既存の国家権力が他の権力に取って代わられる恐れはないでしょう。

国難に晒された幕末の開明的な日本人であればともかく、現代の日本人にとって政治権力の正統性と唯一性というのは、およそ疑念を挟む余地がないほどに自明のものであり、現在ある国会・行政・司法以外の権力機関の可能性をまじめに論じることは笑い話の類に含められます。日本でも、関が原の戦いで西軍を破った徳川家康が江戸幕府を開府(1603)するまでは、政治権力の正統性を巡る内戦・内乱が無数にありました。しかし、封建諸侯を統率する安定的な政権である江戸幕府が出来てからは、各藩の地方自治を認める地方分権体制ではあったものの、日本国の統治権力を巡る内戦・内乱は姿を消しました。

日本の歴史で最後に戦われた内戦は戊辰戦争ですが、薩長連合を核とする官軍(新政府軍)と江戸幕府を中心とする幕府軍との戦いは、地方分権の封建主義国家から中央集権の近代国家へと政権転換する為に不可避なものでした。戊辰戦争で官軍と賊軍(幕府軍)を分けた正統性の根拠は、日本の政治的実力者を征夷大将軍に任命して『伝統的な正統性』を付与してきた天皇の存在でした。天皇と公家は、鎌倉時代に武家の源氏の政権が成立する以前には、日本の政治を運営してきた支配者階級であり、日本国の最初期に原型的な政治・文化・伝統を形成してきたという歴史性を持っています。

天皇は、神道の宗教的な最高権威者でもあると同時に、大和朝廷の最高権力者でしたが、鎌倉時代以降の歴史では、世俗の実力者の統治権力に正統性を付与するという役割を果たしてきました。征夷大将軍が実際の政治を行い、天皇が政治権力の正統性を承認するという『世俗権力と神聖権威の二重構造』が日本の伝統文化として残っていた為に、戊辰戦争で勝利して樹立された尊王派の明治政府の正統性は、他の有力者や民衆に速やかに承認されました。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(Max Weber, 1864-1920)は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、資本を蓄積・拡大させる近代資本主義の精神が、倹約と禁欲を説くプロテスタンティズムの倫理と深い関わりがあることを解説しましたが、権力の正統性について論証した『経済と社会』という論文もあります。

『経済と社会』に収載された「支配の社会学」においてマックス・ヴェーバーは、国民(民衆)が『政治権力(統治権力)の正統性』を承認して納得する為の正統性(legitimacy)について論じました。ヴェーバーは、以下のように権力の正統性の根拠には3つの分類があるとしました。


1.伝統的正統性(伝統的支配)……過去に認められた伝統・慣習・しきたり・家柄・血統・身分によって支配や権威の正統性が担保されるとするもの。過去に正しいと認められたものや過去に支配階級として固定されたもの(身分制の伝統や宗教)、過去に大多数の人々が従ってきた文化慣習が、現在においても正しいとする思想によって支えられている。『今まで上手く物事が進んできたのだから、過去の文化・慣習・規範を現在にも当てはめるべきだ』という保守主義や伝統主義の立場である。

2.合法的正統性(合法的支配)……正当な法手続きを経て立法された法律の規定によって支配や権威の正統性が担保されるとするもの。社会契約と法の下の平等を前提として、正当な立法機関によって制定された法律に全ての人々が従うことが正しいとする法治主義の思想によって支えられている。法治主義と合理精神によって運営される近代国民国家の支配と権威の正統性は合法的正統性によっているが、『万人に為政者や行政担当者となる門戸が開かれているので、合法的な支配には服従しなければならない』とする理性主義や法万能論(法の優越)の立場である。

3.カリスマ的正統性(カリスマ的支配)……大多数の国民(民衆)の圧倒的な支持と賛同を集めたカリスマ的為政者に、実効的な支配や権威の正統性を担保するもの。現時点において絶大な支持と同意を取り付けているカリスマ的な独裁者が、国民からの権力移譲を受けて『一時的な社会契約』を成立させているとするものである。『国家を構成する過半数の国民からの賛同と支持を得ているので、実力的に誰もカリスマ的支配者を排除したり抑制したりできない』とする実力主義や独裁主義の立場である。


第二次世界大戦以前の日本では、権力の二重構造に支えられた伝統主義に基づく伝統的支配が承認されていましたが、終戦後の日本では、伝統的支配に民主主義と自由主義に根ざす合法的支配が加わることで更に国家権力の正統性が強く承認されました。中世から近代に至るヨーロッパ世界にも、ローマ・カトリックのローマ教皇と各国の国王・諸侯による『世俗権力と神聖権威の二重構造』が有効に機能していましたが、中世の政治権力(王権・貴族・領主)の正統性を担保していたのは『過去の支配階級は今日の支配階級である』という身分制の伝統主義(traditionalism)や保守主義でした。

身分制の封建主義や王権の不可侵性を肯定する伝統主義(traditionalism)は、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンの宗教改革によって誕生したプロテスタンティズムの精神によって次第に侵食され、人権思想や市民革命の認識論的な基盤となる『神の下の人間の平等』が強調されてきます。中世封建社会の崩壊や近代の絶対王政の転覆を招来したのは、人間世界の全てに優越する全知全能の神は、人間社会の伝統主義の規則よりも上であるというプロテスタンティズム(カルヴァニズム)の信仰と熱狂でした。

プロテスタンティズムの台頭以前には、中世ヨーロッパ社会に完全に根を下ろしていた伝統的支配の正統性を誰も疑わず、人間は生まれながらに不平等なものであり生まれ落ちた階級身分の義務を果たすように務めなければならないと考えていました。その為、『国王・貴族・平民・奴隷』といった伝統的な階層秩序を破壊するような行動は極めて重大な悪であり、『生まれながらに人間は平等である』という人権思想のようなものは、既存社会の安定や秩序を脅かす危険思想であると見なされていました。

現代の先進民主主義国家では、『万人は生まれながらに平等である』というのは常識となっていますが、19世紀~20世紀初頭頃まではどの国においても急進的な人権思想や民主主義、自由主義は社会秩序や安定支配を脅かす危険で無責任な思想だと考えられていたのです。性別や身分、財産と無関係に年齢条項だけで、男女の普通選挙が実施されるようになったのは、日本においても戦後からですし、多くの先進国でも第二次世界大戦が終結する以前は、女性に参政権がなかったり、納税額によって参政権を制限されたりしていました。

封建的な身分制度や王権の不可侵性を反駁したプロテスタンティズムの『神の下の平等』は、人権思想や民主主義の基盤を整えた複数の条件の一つに過ぎませんが、自由主義や人権思想を人間世界に根付かせた最大の要因は『市場経済システム=神の見えざる手』であったように思います。

かつての人類が、封建主義や専制主義(独裁政治)の国家権力の正統性を承認していた最大の根拠は、安定した社会秩序を維持する為には、『今まで通りのやり方とルールを守るしかない=伝統主義』というものであり、『無知蒙昧な大衆は君主の絶対権力で命令して規制しなければならない=君主政治』というものでした。

しかし、近代国家における市場経済システムへの信頼感が高まるにつれて、『永遠の過去』を繰り返す伝統主義よりも、より良い明日を目指して変化を繰り返す進歩主義が優位に立つようになりました。更に、支配者と服従者の階級が固定されている君主政治よりも、法の下の平等と国民の参政権が保障され、各人の自由な経済活動と最低限の法治(権力)によって国家を運営する民主政治・自由主義が多くの支持を集めるようになったのです。

封建主義や絶対王政を打倒して、民主主義・資本主義・人権思想を確立する思想的原動力となったのは、西洋のキリスト教のプロテスタンティズムと啓蒙思想の社会契約説です。一方、日本の歴史を振り返ると、明治維新以後の君主であった天皇がキリスト教の神の代替を果たして、日本の伝統主義に基づく身分制度を解体しました。

更に、終戦後のGHQの占領統治と日本国憲法の公布によって、『伝統的支配(天皇主権)から合法的支配(国民主権)への転換』が推し進められ、現在の日本の政治経済体制の正統性がとりあえず確立したと考えられます。自由主義と民主主義、資本主義が一定以上に普及して戦争発生のリスクが低くなると、多くの国民は政治権力の正統性云々を考慮しなくても良いような『権力の不在』を感じやすくなります。

しかし、現在の日本では外交的リスク(北朝鮮問題・中東問題・中国の膨張)や内政の不安、社会格差の拡大(貧困問題の意識化)、将来の社会保障の危うさ(少子高齢化・企業減税の流れと相関する財源不足)などによって、『自己責任・道徳規範・安全保障』を基軸とする保守主義の揺り戻しが起こっており、政治的自由と経済的自由をどこまで肯定すべきかについて国民の間での意見の食い違いが大きくなってきています。

国家権力の存在を悪い意味でもっとも強く意識させるものは『軍隊(徴兵)・税金(徴発)・警察(監視)』ですが、良い意味でもっとも強く意識させるものは『安心(国防)・保護(福祉)・安全(治安)』であり、それらは表裏一体のものであり、民主主義というのは、どこまで『良い意味での権力』を発現させられるかが国民ひとりひとりに問われる制度だと言えます。

無論、富裕層が所得の再分配を促す累進課税を嫌い、道徳観の厳しい人が行き過ぎた自由の容認を嘆くように、万人にとって良い意味での政治権力というものは存在せず、『最大多数の最大幸福』というベンサムの功利主義を越える政治制度を設計できない原理的な問題があるわけですが。権力の正統性が揺らがないという意味での善政の基準としては、『社会で最も恵まれていないと自己認知する層』が既存の社会体制そのものを破壊しようとしたり、絶望して自殺しようとしたりするほど追い詰められない政治を考えることができると思います。

その意味では、所得や資産の差が大きくなる格差社会はそれそのものが悪いというよりも、最も低い所得層で働いても生活が出来ないほどに苦しいというワーキングプアの増加や将来の社会保障の欠如が問題であるといえます。社会主義を理想としているのでもない限り、完全な結果平等を求めるのは間違いですが、最底辺の所得階層が衣食住に困らないレベルでの所得の再分配を促進する必要はあるでしょう。

社会福祉制度や社会保障制度の充実発展を語る場合に、『行き過ぎた平等の弊害』や『結果の平等の間違い』を指摘する自由主義的な意見はありますが、福祉制度の基準としては本人の能力・年齢を勘案した衣食住に困らないレベルを設定すべきであって、年収1000万円の人と年収200万円の人を年収600万円で平等にするといった話(結果の平等)と混合させないことに留意が必要だと思います。政治の究極的な目的には、『社会の保存(国家・民族・文化の存続)』『個人の幸福・自由・安全の保護』がありますが、人口を養う生産力が拡大して人権意識が発達するほど後者に重点が置かれ、経済力が低下して他人を思いやる余力が社会から失われると前者に重点が置かれるようになります。


■書籍紹介
闘争と文化―マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論

縦並び社会―貧富はこうして作られる

大衆の反逆  オルテガ・イ・ガセット

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