宇和島徳洲会病院の臓器売買事件と万波誠医師の疾患腎移植に関する倫理学的考察:1

医学とは、生体の構造・病気の機序・疾患の治療と予防について研究し、病気や怪我に苦しむ患者に医療を提供する為の経験科学です。医療の究極の目的は『患者の生命の救助』であり、生命の安全を確保した上で『疾患・怪我による苦痛(不安)の緩和(ケア)』も同時に行っていくことになります。

愛媛県の宇和島徳洲会病院で泌尿器科部長を務める移植医の万波誠(まんなみまこと)医師(66)が、生体腎臓移植で疾患腎(病腎)をレシピエントに移植した事が問題となっています。宇和島徳洲会病院といえば、以前に、ドナーとレシピエントの間に金銭授受を伴う臓器売買が行われた事件が報じられていました。

この臓器売買の事件では、松下知子容疑者(59)に金銭を貸していた女性が腎臓を売ったというちょっと奇妙な構図になっているのですが、女性が松下容疑者に貸していた200万円がなかなか返ってこない状況があり、お金を貸していた女性からすると、松下容疑者に貸したお金が、実質的に取立困難な不良債権のような形になっていたということです。

松下容疑者が女性に対して、腎臓を提供してくれれば500万円にして即座に借金を返却すると約束したことで違法な契約が成立したようですが、実際にお金を出すのは腎臓を必要とした山下鈴夫容疑者(59)でした。検挙された時点では約束された金額は渡されていませんでしたが、松下容疑者は、全くの他人であるこの知人女性を『自分の妹である』と偽って医師に紹介し移植手術にこぎつけたわけですが、万波医師は山下容疑者と松下容疑者の二人を、法的な婚姻関係にある夫婦(実際には内縁の夫婦)であるように誤認していたという話をしています。

この宇和島徳洲会病院の臓器売買は、医師が患者の家族関係を全く把握しておらず、ドナーとレシピエントの関係性を読み間違えたことで実現したわけですが、私が不安に思ったのは移植医療において、臓器を提供するドナーの身元やレシピエントとの関係というのを殆ど調べずに移植が行われているということでした。もっと言えば、ドナーの身元審査や金銭授受に関するチェック体制そのものが存在していないのですから、ドナーとレシピエントが共謀して意図的に病院を騙そうとすれば比較的容易に騙せてしまうというケースが有り得るということですね。

移植医療の現場とは無縁な私たちからすると、臓器を提供するドナーの身元確認やレシピエントとの関係性(善意で臓器を提供し得る関係の有無)の調査はある程度厳格にやっているはずだという思い込みがありますが、万波医師の話などを総合すると、基本的に親族関係の有無や相互の関係性などを確認するチェックシステムは全くないということです。

患者とドナーの自己申告をそのまま信じるという形で、徳洲会病院の移植医療は進められていたようです。万波医師は、メディアを通して、『いくら調べても患者にだまされることは防げないと思う。(臓器売買は)氷山の一角ではないかと、全国の医師が思っている。兄弟間でも金銭の授受はあるかもしれない。(移植の)背後で何が行われているかは分からない』と述べていますが、病院側が取り得る最低限の(身分詐称の)防止措置として、免許証や住民票を確認するくらいのことは出来るのではないでしょうか。

勿論、何が何でも手段を選ばず臓器移植を受けたい人とどうしても臓器をお金に変換しなければならない人(強制的に臓器を売らせられる人)が結びつけば、免許証や住民票を偽造し事前に綿密な打ち合わせを繰り返して、診療面接でボロが出ないようにすることは可能でしょうが、そこまで入念な臓器売買を計画した相手に騙される場合には、国民の側の非難や不安もそこまで大きくはならないと考えられます。

簡単に確認可能な免許証や住民票などもチェックせずに、簡単な口頭でのやり取りだけで医療側が患者に欺瞞されてしまう現行の移植医療システムでは、臓器移植法で規定された臓器売買の禁止は建前に過ぎないものになってしまいます。万波医師のいうように、本人間で同意のある臓器売買で、陰で謝礼金のような形でお金の受け渡しをするケースに関しては、実質的にタッチできないでしょうが、生体移植のドナーを原則として親族だけに限定すれば、例え多少の金銭授受があったとしても完全に本人の意思(希望)に反した臓器提供を防ぐことが出来るのではないかと思います。

生体移植の為の臓器を金銭で売買することの最大の問題は、『代替不可能な唯一の生命(身体)』を金銭価値に換算してはならないという生命倫理学的な事柄も去ることながら、貧困・借金・恩義などの理由を抱えたドナーが、本当は臓器を提供したくないのに半ば強制的に臓器を提供しなければならない状況が生まれ得るという事でしょう。

臓器売買を肯定する倫理学的立場として、本人の身体(臓器)に関する『自己所有権』を主張して、本人が自分の生命・身体・器官を自分の意思決定でどのように利用しても自由であるという立場も考えられますが、移植医療の場合には第三者の専門家である医師・看護師が関わる上に、臓器提供が経済行為として承認されてしまえば、組織的な斡旋売買が行われる危険があり、貧困層や借金のある層に臓器提供の皺寄せが行く恐れが非常に高くなります。功利的な経済原理が経済的に困窮するドナー候補に及んでしまえば、何が自分の本当の自由意志なのかを明確にすることが難しくなり、臓器の摘出を誘惑的に薦めてくる周囲の声に自分の本当の希望(意志)が曲げられる恐れが非常に強くなってしまいます。

腎臓や肝臓などドナーの生命に直接関わらない生体移植の臓器売買を厳格に禁止することの最大の意義は、現在のところ、『自分の意思表示に背く形で臓器を取られることがなく、金銭的な理由で身体的な苦痛や損失(不利益)を受けることがない』ということに集約されます。生命倫理の原点は、『生命の尊重(肯定)』にありますが、それと同時に『身体的な苦痛・恐怖・不利益』を他者の脅迫や経済的事由によって強制されないということも重要なポイントです。

また、生命倫理学的な『生命・身体の不可侵性』の重要な根拠として、『生命・身体の唯一性(一回性)に基づく交換不可能性』を掲げることが出来ますから、人間社会の倫理規範において『身体(生命・器官・性)と貨幣の交換』をタブーとする事には、社会秩序を維持する為の合目的的な説得力があります。身体と生命を『合法的な労働』以外の形で、直接的に金銭的価値と交換することは、人間を『交換可能な量化(モノ化)された資源』と見るような生命感へと頽落する恐れが十分にあるのです。

生体移植は臓器を提供するドナーにとって完全に安全な医療とは言えない部分もあり、移植手術には必然的に身体的な痛みや心理的な不安を伴いますから、そういった身体的な苦痛(後遺症・副作用・麻酔事故・医療ミスのリスク)と心理的な不安を金銭とトレードオフすることは生命倫理的な判断として容認できないと言えます。脳死移植ではない生体移植のドナーは、飽くまで自発的な善意と純粋な好意に基づくドナーでなければならないと考えると、現時点では、家族・親族かそれに準じる極親しい人物に限定されることになります。

善意や貢献の感情に基づく意思決定で移植医療を行った後に、レシピエントがドナーの善意に対する気持ちの表現として、多少の謝礼を金銭で支払うことまでは規制することが難しいと思いますが、親族間であれば第三者のブローカーなどが関与して金銭授受を行うとは考え難いので、悪質な臓器売買の事態が広まる恐れはまずないと予測できます。

臓器提供に際して金銭授受を伴うことには上記したような倫理的な問題点を指摘することが出来ますが、売買を法的に規制すべきという最大の根拠は、『患者と無関係な第三者(経済的困窮者)』が、経済的理由のみによって不本意ながらも臓器を提供させられる事態を抑止することにあると私は思います。

売買春や賭博などは厳しく取り締まりすぎると、(人間の本能と結びついた)必要悪として存在する市場がアンダーグラウンド化して、反社会的組織の資金源となったり、性産業に従事する人たちが余計に劣悪で危険な環境で働かせられる恐れがあるから、ある程度緩やかに規制したほうが良いといわれることもあります。しかし、移植医療は、専門的な技術と経験を持つ医師が設備とスタッフの整った医療環境でしか実施できないものなので、臓器売買を法的に厳しく禁止してもアンダーグラウンド化する恐れは比較的小さいと思われます。


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■書籍紹介
腎臓放浪記―臓器移植者からみた「いのち」のかたち

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