DSM-Ⅳの臨床診断と薬物療法の安全性を担保する臨床試験(治験)のエビデンスの問題
『前回の記事』で、精神分析に基づく力動精神医学から薬物療法を主力とする生物学的精神医学への移行についての概略を説明したが、勿論、薬物を用いた治療には大きなメリット(効果)がある一方で、それと拮抗するデメリット(副作用)が発生するリスクがある。
向精神薬に限らず、化学化合物である薬剤のほぼ全てに何らかの副作用のリスクがあり、薬物療法は絶えずメリットとデメリットの比較考量の中で行われることになる。精神医学臨床における薬物療法では、『正確な症状(問題状況)の診断』と『安全性・有効性を考慮した適切な処方(薬種・分量・期間の考慮)』が要求される。
しかし、治験(臨床試験)段階で明らかにされなかった副作用のリスクや極めて稀に起こる致命的な副作用までは臨床医の診療面接でカバーすることが難しく、各種の薬害訴訟では開発者・製造者である製薬企業や許認可の権限を持つ審査者である官庁(国)の責任が問われることもある。EBMを前提とする薬剤の研究開発と治験の問題点として、安全性や有効性のエビデンスとして採用される統計データ(疫学的データ)の偏りや、製薬会社の研究者による恣意的なデータの取捨選択が指摘された訴訟事例もある。
臨床試験で重視される薬剤の有効性と安全性のエビデンスは、RCT(無作為化比較試験)によって得られるが、RCTでは薬剤が原因となって引き起こされた少数事例の結果について因果関係を明らかにすることが原理的に出来ない。アメリカの訴訟事例では、臨床試験で確率論的に生起する症状として証明されなかった副作用は存在しないという前提があり、RCTによる統計データを分類するカテゴリーに、初めから危険な致命的副作用を含めないことで副作用がないことを証明しようとした事案もあるようである。
科学的根拠に基づく薬剤開発は概ね有益なものであることに変わりはないが、副作用のリスクや存在を隠蔽するような形でRCTによる統計データが提示される問題というのは依然残されている。また、多額の資金をかけて開発・治験を行った薬剤の商業的成功を至上命題とする利益優先主義の弊害や産官学の癒着による批判的検証の甘さなどの問題が、これからの政治的・経済的・医療的な課題になっていくのではないかと思う。
最後に薬剤の治験の問題について少し付記したいと思うが、まず、前回の続きになる科学的な生物学的精神医学の解説を補足しておく。
精神医学と精神病理学の標準的な教科書を著述しようとしたエミール・クレペリンの『記述精神医学』は、精神症状と問題行動を網羅的に収集整理して統計学的検討を施した“DSM‐Ⅳ(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders,4th edition)の疾患単位(診断基準)”として現代精神医学に復権を果たしている。
精神疾患や異常行動の治療法でいえば、言語的コミュニケーションを通して治療的な人間関係を構成する『心理療法(カウンセリング)』ではなく、DSM‐Ⅳ‐TRやICD‐10の診断マニュアルに基づいて処方箋を書く『薬物療法』が中心的となり、脳の神経伝達物質のバランスの正常化や神経細胞(ニューロン)の過剰興奮の鎮静などによって精神医療が行われるようになっている。つまり、うつ病のモノアミン仮説に基づく脳内のセロトニンやノルアドレナリン、ドーパミンの代謝障害(分泌不足)を改善したり、神経伝達を遮断して過剰興奮を抑制して睡眠に導いたりする薬剤によって、生理学的な解決を模索する科学的な医学へと変化してきたといえる。
また、近年では、カウンセリングや心理療法を用いた対人援助を専門とする臨床心理士の職域が制度的にも発達してきた為、薬物療法を行う精神科医と心理療法(心理アセスメント)を行う臨床心理士(カウンセラー)との役割分担が意識されてきている。臨床心理士や精神保健福祉士(ソーシャルワーカー)、保健師、看護師などコメディカル・スタッフとの職業領域や役割分担との兼ね合いによって、医師の生物学的精神医学寄り(DSM‐Ⅳの診断と薬物療法の標準化医療)のスタンスが強化されている側面もあるだろう。その場合には、力動精神医学に基づく見立て(診断)やカウンセリングの実践活動を担う主体が、精神分析医から臨床心理士をはじめとする心理学者に移ってきたと考えることが出来る。
薬物療法の隆盛の問題点としては、数十億円以上の巨額投資で推進される薬剤開発と大規模なマーケティング(宣伝広告・啓蒙教育)によって、必要以上の向精神薬が処方される危険性や無作為化対照試験によるEBMを過度に信頼し過ぎることの弊害が考えられる。
製薬会社が数十億、数百億という莫大なコストを支払って臨床試験(治験)を行ったり化合物の特許の取得をした場合には、その研究開発された薬剤には社運の全てがかかっていることが少なくなく、その薬剤を大量に製造販売する経営戦略としてのマーケティングが重要視される。即ち、巨額の研究開発費用をかけて医薬品市場に供給される向精神薬で利益を出す為には、確実に大量の薬剤を処方できる『潜在的なマーケット(適応症と診断される推測患者数)』と医師や患者に安全性・有効性を信頼してもらう『統計学的なエビデンス(無作為化比較臨床試験)』が必要ということである。
もし、開発した薬剤の需要が予測よりも小さければ、適応症を広げたり新薬の宣伝を行うことで市場開拓をしなければならないし、副作用の事例が報告されれば自社の薬が原因で副作用が起こるはずがないというエビデンス(統計学的根拠)を示さなければならない。自社の販売した薬剤の危険な副作用のリスクを認めるということは、薬事医療裁判の結果如何によっては、市場に出した薬剤を全面的に撤去することを意味する。
研究開発とマーケティングのコストを回収できないうちに新薬が市場から回収されれば、製薬会社の財務状況は急速に悪化して経営が危なくなるので、製薬会社は持てる資金力と専門家のマンパワーを総動員して『薬の副作用ではなく、元々の病気の悪化によって予想外の偶発的結果』が起こったことを臨床試験データのエビデンスを元に立証しようとする。
薬物療法に薬剤を供給する製薬業界の巨大マーケットは、患者の利益以上に商業的成功を目的とし、株主に対して利益を還元する責任を負っている。そして、大学教授や研究所所長などの地位と共に製薬会社の主任研究員やコンサルタントとしての肩書きを持つ精神医学(精神薬理学)の専門家は、EBMのエビデンス(科学的根拠)に関する基準やデータを製薬会社に不利にならないように解釈する可能性が高いという意味で、エビデンスの客観性や倫理性は絶えず危険に晒されているとも言える。また、製薬会社が所有権を主張する個々の臨床試験の直接的なデータには、外部の研究者は通常アクセスできないので、その意味でも臨床試験データの取捨選択の具体的プロセスを透明化するという課題が残されている。
向精神薬の持つ副作用と精神障害の過剰診断が問題となって論争や訴訟に発展した事例として、プロザックやパキシル、ゾロフトなどのSSRI(選択的セロトニン再取込阻害薬)を巡る訴訟事例があり、最終的には、2004年以降に製品の適切な警告表示(副作用のリスクへ注意を喚起する表示)が義務付けられることになった。このSSRI訴訟には複数の訴訟があったが、それらに共通するのは、SSRI服用患者に見られたアカシジア(静座不能)や自殺傾向、攻撃性の副作用の存在を製薬会社が治験(臨床検査)の段階で認識していたか否かということであり、臨床試験のデータの分類や解釈が適切であったかどうかということであった。
結局、イーライリリー社やファイザー社がデザインした臨床試験の実験モデルでは、自殺傾向や攻撃性・暴力性の副作用を分類するカテゴリーが初めから準備されていなかったり、実験初期の段階で脱落した被検者を副作用事例ではなく不応事例として処理するなどの問題点が指摘されたようであるが、それらは純粋な商業主義の悪意から出たものというよりも、科学的エビデンスの基準カテゴリーの客観性・実用性を担保することの難しさを思わせる問題であった。
薬事行政の許認可プロセスや英米のSSRIの訴訟事例の詳細に触れる余裕はないが、抗うつ薬に関する大規模な臨床試験では、患者の利益・安全を保護する為にエビデンスを批判的に検証する責任を持つ学者(医師)の独立性が維持されていないということが問題視されていたようである。
学者(医師)や学問(研究機関)の独立性の侵害というのは、薬事裁判でエビデンス(科学的証拠)にまつわる証言をした学者(医師)が、製薬会社のアドバイザーやコンサルタントを務めていたり、企業から大学へ多額の研究資金が供与されていて、相互に支えあう産官学の複合体が構築されていたりすることを意味する。製薬事業を含むヘルスケア産業が、患者(消費者)の安全や利益を守る為には、臨床試験データの透明性と精度の高い治験のデザインを確保して、副作用をチェックする複数の第三者機関を整備する必要があるだろう。
また、近年ではADHDの子供に対するリタリン(中枢神経刺激薬)の処方や小児うつ病の子供に対するSSRIの薬物治療が増えている傾向があるが、脳や身体器官の形成途上にある子供に対する向精神薬の処方については長期的スパンにおける安全性のエビデンスが十分に確立していないという問題が残されているので、十分に綿密なアセスメントと慎重な投与判断が望まれる。新薬開発の臨床試験のデザインやエビデンス・ベースド・メディスン(EBM)のエビデンスの取捨選択に関する問題については改めて考えてみたいと思う。
製薬業界のビジネスの倫理問題の根幹は、科学的根拠(エビデンス)の正当性に責任を持つべき権威ある科学者が、最終的に企業に肩入れをするのか消費者の安全を守るのかというところにあり、外部の主観や利害に影響されない客観中立性を掲げてきた『学問としての科学』が利益優先の産業システムに飲み込まれ続ける現状をどう改善していけるのかということでもある。
■関連URL
科学的実証主義を前提とするEvidence-Basedな臨床心理学と統計学的な根拠に関する話
『無意識の決定論』を前提とする精神分析の合理性とエビデンス・ベースドな精神医療の科学性
『心の世界の魅力的な物語性』と『心の世界の客観的な解明』:心理学の科学性の社会的認知
■書籍紹介
抗うつ薬の時代―うつ病治療薬の光と影
ビッグ・ファーマ―製薬会社の真実
暴走するクスリ?―抗うつ剤と善意の陰謀
無作為化比較試験―デザインと統計解析
向精神薬に限らず、化学化合物である薬剤のほぼ全てに何らかの副作用のリスクがあり、薬物療法は絶えずメリットとデメリットの比較考量の中で行われることになる。精神医学臨床における薬物療法では、『正確な症状(問題状況)の診断』と『安全性・有効性を考慮した適切な処方(薬種・分量・期間の考慮)』が要求される。
しかし、治験(臨床試験)段階で明らかにされなかった副作用のリスクや極めて稀に起こる致命的な副作用までは臨床医の診療面接でカバーすることが難しく、各種の薬害訴訟では開発者・製造者である製薬企業や許認可の権限を持つ審査者である官庁(国)の責任が問われることもある。EBMを前提とする薬剤の研究開発と治験の問題点として、安全性や有効性のエビデンスとして採用される統計データ(疫学的データ)の偏りや、製薬会社の研究者による恣意的なデータの取捨選択が指摘された訴訟事例もある。
臨床試験で重視される薬剤の有効性と安全性のエビデンスは、RCT(無作為化比較試験)によって得られるが、RCTでは薬剤が原因となって引き起こされた少数事例の結果について因果関係を明らかにすることが原理的に出来ない。アメリカの訴訟事例では、臨床試験で確率論的に生起する症状として証明されなかった副作用は存在しないという前提があり、RCTによる統計データを分類するカテゴリーに、初めから危険な致命的副作用を含めないことで副作用がないことを証明しようとした事案もあるようである。
科学的根拠に基づく薬剤開発は概ね有益なものであることに変わりはないが、副作用のリスクや存在を隠蔽するような形でRCTによる統計データが提示される問題というのは依然残されている。また、多額の資金をかけて開発・治験を行った薬剤の商業的成功を至上命題とする利益優先主義の弊害や産官学の癒着による批判的検証の甘さなどの問題が、これからの政治的・経済的・医療的な課題になっていくのではないかと思う。
最後に薬剤の治験の問題について少し付記したいと思うが、まず、前回の続きになる科学的な生物学的精神医学の解説を補足しておく。
精神医学と精神病理学の標準的な教科書を著述しようとしたエミール・クレペリンの『記述精神医学』は、精神症状と問題行動を網羅的に収集整理して統計学的検討を施した“DSM‐Ⅳ(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders,4th edition)の疾患単位(診断基準)”として現代精神医学に復権を果たしている。
精神疾患や異常行動の治療法でいえば、言語的コミュニケーションを通して治療的な人間関係を構成する『心理療法(カウンセリング)』ではなく、DSM‐Ⅳ‐TRやICD‐10の診断マニュアルに基づいて処方箋を書く『薬物療法』が中心的となり、脳の神経伝達物質のバランスの正常化や神経細胞(ニューロン)の過剰興奮の鎮静などによって精神医療が行われるようになっている。つまり、うつ病のモノアミン仮説に基づく脳内のセロトニンやノルアドレナリン、ドーパミンの代謝障害(分泌不足)を改善したり、神経伝達を遮断して過剰興奮を抑制して睡眠に導いたりする薬剤によって、生理学的な解決を模索する科学的な医学へと変化してきたといえる。
また、近年では、カウンセリングや心理療法を用いた対人援助を専門とする臨床心理士の職域が制度的にも発達してきた為、薬物療法を行う精神科医と心理療法(心理アセスメント)を行う臨床心理士(カウンセラー)との役割分担が意識されてきている。臨床心理士や精神保健福祉士(ソーシャルワーカー)、保健師、看護師などコメディカル・スタッフとの職業領域や役割分担との兼ね合いによって、医師の生物学的精神医学寄り(DSM‐Ⅳの診断と薬物療法の標準化医療)のスタンスが強化されている側面もあるだろう。その場合には、力動精神医学に基づく見立て(診断)やカウンセリングの実践活動を担う主体が、精神分析医から臨床心理士をはじめとする心理学者に移ってきたと考えることが出来る。
薬物療法の隆盛の問題点としては、数十億円以上の巨額投資で推進される薬剤開発と大規模なマーケティング(宣伝広告・啓蒙教育)によって、必要以上の向精神薬が処方される危険性や無作為化対照試験によるEBMを過度に信頼し過ぎることの弊害が考えられる。
製薬会社が数十億、数百億という莫大なコストを支払って臨床試験(治験)を行ったり化合物の特許の取得をした場合には、その研究開発された薬剤には社運の全てがかかっていることが少なくなく、その薬剤を大量に製造販売する経営戦略としてのマーケティングが重要視される。即ち、巨額の研究開発費用をかけて医薬品市場に供給される向精神薬で利益を出す為には、確実に大量の薬剤を処方できる『潜在的なマーケット(適応症と診断される推測患者数)』と医師や患者に安全性・有効性を信頼してもらう『統計学的なエビデンス(無作為化比較臨床試験)』が必要ということである。
もし、開発した薬剤の需要が予測よりも小さければ、適応症を広げたり新薬の宣伝を行うことで市場開拓をしなければならないし、副作用の事例が報告されれば自社の薬が原因で副作用が起こるはずがないというエビデンス(統計学的根拠)を示さなければならない。自社の販売した薬剤の危険な副作用のリスクを認めるということは、薬事医療裁判の結果如何によっては、市場に出した薬剤を全面的に撤去することを意味する。
研究開発とマーケティングのコストを回収できないうちに新薬が市場から回収されれば、製薬会社の財務状況は急速に悪化して経営が危なくなるので、製薬会社は持てる資金力と専門家のマンパワーを総動員して『薬の副作用ではなく、元々の病気の悪化によって予想外の偶発的結果』が起こったことを臨床試験データのエビデンスを元に立証しようとする。
薬物療法に薬剤を供給する製薬業界の巨大マーケットは、患者の利益以上に商業的成功を目的とし、株主に対して利益を還元する責任を負っている。そして、大学教授や研究所所長などの地位と共に製薬会社の主任研究員やコンサルタントとしての肩書きを持つ精神医学(精神薬理学)の専門家は、EBMのエビデンス(科学的根拠)に関する基準やデータを製薬会社に不利にならないように解釈する可能性が高いという意味で、エビデンスの客観性や倫理性は絶えず危険に晒されているとも言える。また、製薬会社が所有権を主張する個々の臨床試験の直接的なデータには、外部の研究者は通常アクセスできないので、その意味でも臨床試験データの取捨選択の具体的プロセスを透明化するという課題が残されている。
向精神薬の持つ副作用と精神障害の過剰診断が問題となって論争や訴訟に発展した事例として、プロザックやパキシル、ゾロフトなどのSSRI(選択的セロトニン再取込阻害薬)を巡る訴訟事例があり、最終的には、2004年以降に製品の適切な警告表示(副作用のリスクへ注意を喚起する表示)が義務付けられることになった。このSSRI訴訟には複数の訴訟があったが、それらに共通するのは、SSRI服用患者に見られたアカシジア(静座不能)や自殺傾向、攻撃性の副作用の存在を製薬会社が治験(臨床検査)の段階で認識していたか否かということであり、臨床試験のデータの分類や解釈が適切であったかどうかということであった。
結局、イーライリリー社やファイザー社がデザインした臨床試験の実験モデルでは、自殺傾向や攻撃性・暴力性の副作用を分類するカテゴリーが初めから準備されていなかったり、実験初期の段階で脱落した被検者を副作用事例ではなく不応事例として処理するなどの問題点が指摘されたようであるが、それらは純粋な商業主義の悪意から出たものというよりも、科学的エビデンスの基準カテゴリーの客観性・実用性を担保することの難しさを思わせる問題であった。
薬事行政の許認可プロセスや英米のSSRIの訴訟事例の詳細に触れる余裕はないが、抗うつ薬に関する大規模な臨床試験では、患者の利益・安全を保護する為にエビデンスを批判的に検証する責任を持つ学者(医師)の独立性が維持されていないということが問題視されていたようである。
学者(医師)や学問(研究機関)の独立性の侵害というのは、薬事裁判でエビデンス(科学的証拠)にまつわる証言をした学者(医師)が、製薬会社のアドバイザーやコンサルタントを務めていたり、企業から大学へ多額の研究資金が供与されていて、相互に支えあう産官学の複合体が構築されていたりすることを意味する。製薬事業を含むヘルスケア産業が、患者(消費者)の安全や利益を守る為には、臨床試験データの透明性と精度の高い治験のデザインを確保して、副作用をチェックする複数の第三者機関を整備する必要があるだろう。
また、近年ではADHDの子供に対するリタリン(中枢神経刺激薬)の処方や小児うつ病の子供に対するSSRIの薬物治療が増えている傾向があるが、脳や身体器官の形成途上にある子供に対する向精神薬の処方については長期的スパンにおける安全性のエビデンスが十分に確立していないという問題が残されているので、十分に綿密なアセスメントと慎重な投与判断が望まれる。新薬開発の臨床試験のデザインやエビデンス・ベースド・メディスン(EBM)のエビデンスの取捨選択に関する問題については改めて考えてみたいと思う。
製薬業界のビジネスの倫理問題の根幹は、科学的根拠(エビデンス)の正当性に責任を持つべき権威ある科学者が、最終的に企業に肩入れをするのか消費者の安全を守るのかというところにあり、外部の主観や利害に影響されない客観中立性を掲げてきた『学問としての科学』が利益優先の産業システムに飲み込まれ続ける現状をどう改善していけるのかということでもある。
■関連URL
科学的実証主義を前提とするEvidence-Basedな臨床心理学と統計学的な根拠に関する話
『無意識の決定論』を前提とする精神分析の合理性とエビデンス・ベースドな精神医療の科学性
『心の世界の魅力的な物語性』と『心の世界の客観的な解明』:心理学の科学性の社会的認知
■書籍紹介
抗うつ薬の時代―うつ病治療薬の光と影
ビッグ・ファーマ―製薬会社の真実
暴走するクスリ?―抗うつ剤と善意の陰謀
無作為化比較試験―デザインと統計解析