宮城谷昌光『奇貨居くべし 春風篇』の書評

『奇貨居くべし』の格言は、始皇帝の父となる荘襄王(子楚)を補佐して秦の宰相となった呂不韋(りょふい)の優れた先見の明の故事に基づくものである。春秋戦国時代も末期に差しかかろうという時代に、商賈(しょうこ)の次男として生を受けた呂不韋は商人として各地を遍歴し巨富を築く。

賈人としての才覚を発揮して大きな財産を築くことに成功した呂不韋は、秦の敵対国であった趙に人質に取られていた子楚(異人)に目を付け、「これ奇貨なり。居くべし(これは珍しい品物である。買っておいたほうが良い)」と述べた。管見でなければ、どう見ても秦の王位に就けそうにない境遇にあった子楚に、呂不韋は惜しげもなく大金と労力を投資した。諸侯や士大夫が集う社交界で子楚の名声と評価を高めさせ、秦の王太子・安国君の寵姫であった華陽夫人との親交を深めて、将来の巨大な利益と権力を狙ったのである。

子楚を戦国末期の最強の国家である秦の王位に就けるという呂不韋の目論見は的中して、子楚は荘襄王として秦の王として即位した。そして、宮城谷昌光の『奇貨居くべし』では呂不韋は始皇帝・政の実父という扱いがされているが、一説には、荘襄王が懸想した芸妓が呂不韋の元愛妾で既に呂不韋の子を身篭っていたという。呂不韋は、後に始皇帝となる秦王・政から仲父(ちゅうほ)という尊称で呼ばれるほどの権勢の絶頂を極めることとなる。

珍しい財物や品物を買っておいて、将来の大きな利益を得るという『奇貨居くべし』の故事成語は、得難い好機を逃さずに賢明に利用するという意味にも用いられる。春秋戦国時代において農民や職人よりも卑賤な身分とされていた賈人(商人)から、人臣の最高位である秦の丞相にまで上り詰めた呂不韋の隆盛と斜陽の生涯を描いた作品が宮城谷昌光『奇貨居くべし』である。

『奇貨居くべし』は五巻組なので、『奇貨居くべし 春風篇』では呂不韋の少年時代の成長と旅路を中心として物語が紡がれる。実母のいない呂不韋は、義母の産んだ兄と弟に挟まれて実家の商賈で不遇な少年時代を過ごしていたが、鮮乙(せんいつ)という壮年の従者と伴に商機を求める旅に出て、肉体を鍛錬し精神を成長させていく。

韓の国の陽テキにある実家では義母から冷遇されていたので、父が死没しても呂不韋に財産が巡ってくるかは分からない。まだあどけなさの残る15歳の少年である呂不韋は、父の財力や商賈としての地位に頼るのではなく、自立的な人生設計を立てる為のきっかけを求めていた。

呂不韋は商賈の家計に生まれたが金銭を稼ぐだけの商人で終わる気はなく、斉の商人から名宰相に上り詰めた管仲や料理人から商の宰相となった伊尹に自らをなぞらえ、天下に不遜なる野心を漠然と広げていた。巨富を持ちながらも天下への野心を持たない冥氏という商賈の元を訪れるが、呂不韋は冥氏に人民の敬意や輿望を惹き付ける人徳がないことを見て取り慨嘆するのである。

『呂氏はまだ天下を取ったことがない』と暗鬱な気分でつぶやきながら、遥か古代の中国大陸で起きた湯武革命に思いを馳せるのであった。湯武革命とは、夏の暴君であった桀王を放伐した商の湯王の故事と商で悪政を行った紂王を放伐した周の武王の革命のことである。

夏は紀元前1,600年頃に崩壊し、商は紀元前1,046年頃に消滅して、現在は周王室が中国大陸を支配している。しかし、周王朝の中国制覇は既に名目上のことに過ぎなくなっており、実際には、群雄割拠する春秋時代(B.C.770-B.C.403)に大きくその勢力を減衰させ、戦国の七雄が覇を競う戦国時代(B.C.403-B.C.221)に至ってからは東周の権威は地に堕ちた。

周王室の権威の残光がまだ僅かなりとも残っていた時期には、周辺諸国は周王に配慮して「王」の称号を名乗らなかったが、周王室の権威に利用価値がなくなった戦国時代には諸侯はこぞって各国の「王」を僭称するようになったのである。

呂不韋は、周王室の天命が今正に尽き果てんとしている戦国時代末期に生きている。そして、天下を統一する氏族の命運は、華やかな隆盛を極めた後に必ず衰退する天命に支配されていることを既に洞察していた。勢威の後の衰退、伸張の後の収縮、繁栄の後の没落、それは、10代の少年期にある呂不韋が見た未来の自己像だったのかもしれない。

父から『山へゆけ』という命を受けて従者の鮮乙と山師の彭存に連れられて、山地の金脈を探す厳しい旅に出た呂不韋は、弱肉強食の乱世の現実を知り、世界の事象を理解する為の学問の必要性を痛感する。

時代は、秦と斉の二つの強盛国が覇権を競い合った時代から、秦一国が他国を圧倒する軍事力を持つ一強時代へと突入しようとしていた。春秋戦国時代には儒家や道家をはじめとする百花繚乱の諸子百家が出て、各地で思想や学問、戦略を説いた。数多くある学派の一つで外交戦略を巧妙な弁論で説く縦横家(しょうおうか)に、蘇秦(そしん)と張儀(ちょうぎ)という類稀な戦略家が出現する。

蘇秦張儀は伝説的な軍略家である鬼谷先生の弟子筋に当たる。戦国時代には、戦国の七雄と呼ばれる『秦・斉・楚・韓・魏・趙・燕』が覇権を争って割拠していた。蘇秦は、最強国である秦に対抗する為に南北の6ヶ国が同盟する『合従策』を燕王に説き、張儀は、最強国である秦が合従策による6ヶ国の同盟を解体させる為の『連衡策』を秦王に説いた。縦横家を代表する蘇秦と張儀の天下の覇権を争う軍略から生まれた故事成語を『合従連衡(がっしょうれんこう)』と呼ぶ。最終的には、合従策は挫折して張儀の連衡策が奏効し、秦の政が他の王国を滅ぼして紀元前221年に中国大陸を統一することとなる。

山師(さんし)とは、軍事を預る官職である司馬に属し、山林の名と地形の利害を知悉する者のことをいう。その山師である彭存(ほうそん)は、黄金が眠る山地に立つという『黄金の気』を見る能力を持っていたが、呂不韋の将来の栄達を予見するかのように呂不韋に『黄金の気』が立ち上がるのを見たのであった。

英傑と俊才がひしめく戦国時代には、天下の輿望と食客の信義を集める君子が数多く出たが、その中でも特に高い名声と威徳を集めていたのが『戦国の四君』と呼ばれる四人の君子である。
『戦国の四君』には、斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君がいるが、彼らは現代でいえば真正の任侠道を生きた人物であり、数多くの食客から義侠心に基づく忠誠を寄せられる大親分のような存在だったと言える。

孟嘗君は、何の役にも立ちそうにもない技能を持つ、一見して穀潰しにしか思えない食客を多数養った。しかし、絶体絶命の危機に際した時に、それまで何の役にも立たなかった食客が、犬や鶏の鳴き真似の特技を活かして主人である孟嘗君の窮地を救ったのである。その故事から生まれた格言が漢文の教科書などに良く取り上げられる『鶏鳴狗盗(けいめいくとう)』である。

この『奇貨置くべし 春風篇』には、楚の頃襄王(けいじょうおう)の命令を受けて楚の国宝である『和氏の璧(かしのへき)』と呼ばれる宝石を趙に運ぶ春申君=黄歇(こうけつ)が登場する。後に春申君と呼ばれるようになる黄歇は、楚王の命を受けて和氏の璧を趙王の元に運んで、楚と趙の間に秘密裏に同盟を結んで秦から趙を引き離そうと画策していたのである。それを知った秦の狡猾怜悧な宰相・魏ゼンは、趙の邯鄲の都に黄歇ら使者が辿りつく前に和氏の璧を奪い取ろうとしたのである。

呂不韋と鮮乙は、偶然、秦の刺客に楚の使者が殺された状況に出会い、和氏の璧を手に入れる事となる。鮮乙の妹の鮮芳の元を尋ねてきた藺相如と一緒だった黄歇と、呂不韋は知り合うことになる。容姿端麗で艶やかな鮮芳が思いを寄せる藺相如は、趙の宦官を取り締まる宦者令という職にある繆賢の舎人である。藺相如の趙の官吏としての身分は低く、趙王に直接謁見することもできない陪臣(家臣・繆賢の家臣)であった。

藺相如(りんしょうじょ)は遠い祖先を遡れば高位の貴族であったようだが、長い歴史に翻弄される内に、下級官吏の身へと落魄したのである。黄歇は黄歇で、斉のビン王に恩義を売ろうとして失敗して四面楚歌の窮状に陥った楚の頃襄王の密命を受けて、趙との同盟を取り付けるべく『和氏の璧』を携えて趙に向かっていたのだった。

その楚の命運を握る和氏の璧を盗賊(秦の刺客)に奪われて困惑していた黄歇に、呂不韋は和氏の璧を返却する。そして、その謝礼として、呂不韋は黄金百イツの褒賞と黄歇を通じた楚の人脈を得ることに成功した。

更に、呂不韋は大きな器量と卓越した才知を持つ藺相如の食客となることを望み、それを受け容れられる。年少の呂不韋は、無知である自分を嘆き、無力である自分を憎んでいた。旅の途中で出会った清浄無垢な少女・小環に淡い恋情を抱いた呂不韋は、その小環を無残な芸女の運命から救い出せない自分を憎んだのである。



魏ゼンの財産はどれほどであるか見当もつかないが、それは秘蔵されたものである。自分のためにつかいはするが、他人のためにはつかわない。魏ゼンが食客を好まないことからでも、それはあきらかである。

しかし呂不韋は賈人の子だけあって、蓄財の考え方が違う。まず、信用という目にみえぬものを蓄え、それを財産にする、という認識がある。信用は人と人とが共存し共栄するという考えがなければ成り立たない。独裁者ではわからぬことである。

そういう考えを推し進めていけば、蓄財は、自分でするより、他人がしてくれる。そう信じ始めた呂不韋である。

王室だけが富んで国が貧しい、ということはあっても、国が富んで王室だけが貧しい、ということはありえない。



この世界の摂理を漠然とつかみ始めた呂不韋は、大望を実現する為の学問を欲し、他人の不幸を消して他人を救うことが出来る財力の必要性を痛感したのであった。趙の大都市である邯鄲で、学問に精励するために、呂不韋は経済的にそれほど裕福でない藺相如の食客となる決意を固めたのである。

秦王の使者が趙の首都邯鄲を訪れ、趙の恵文王に書簡が届けられた。その書簡には『十五城を持って、璧に変えん』という文字が書かれており、趙が秘密裏に楚と同盟を結ぼうとしていたことは大国である秦に既に知られていたのである。
楚との密約の証拠である和氏の璧を秦に持参すれば、秦は十五城を趙に与えて再び同盟関係を回復するというのである。この申し出を断れば、趙は秦に敵対する国ということになり、秦の連衡策による軍隊が趙の国土を蹂躙することになろう。

虎狼背信の国である秦に『和氏の璧』を持っていくという極めて危険な任務を藺相如が果たすことになった。いったん秦を裏切った趙を、秦がただで許すわけはなく、和氏の璧を持参する趙の使者が殺害する恐れは非常に強い。
己の死を覚悟しなければならない過酷な任務を拝命したのが、下級官吏でありながら智謀と豪胆では衆に抜きん出た実力を持つ藺相如だったのである。

『奇貨居くべし 春風篇』の最大のクライマックスが、この藺相如が秦の昭襄王に謁見する場面であり、中華世界の覇権を正に握らんとする昭襄王に対して、藺相如は怒髪衝冠の気概を見せて趙の国難を救うことになる。
宦官の舎人という卑賤な身分の藺相如であったが、中国大陸の最高権力者を恫喝し圧倒して、昭襄王の謝罪の言まで引き出すことに成功する。卓絶した胆力と智謀を持つ英傑の藺相如は、秦の昭襄王と対等に交渉して和氏の璧と斉の威厳を守った功績により、上大夫に破格の出世を遂げた。

秦から帰国後に発病した重篤な病から回復した呂不韋も、秦の進撃を控え新たな人生の転回期を迎えようとしていた。



『不のしたに一を加えれば、丕となる。大きいということだ。丕子といえば、天子の子のことだ。不顕なる文王、といい、周王朝を創立した文王にしか、不の字はつかわれなかったことがある。すなわち、不韋の名には、この家の天下への野望がかくされている。呂望、つまり太公望でさえ取れなかった天下への野望が、不、の一字にあるといってよい』




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■書籍紹介
奇貨居くべし―春風篇

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