『弱さを強さに変える触媒』としてのヴァルネラビリティ(脆弱性):知の再編成と自律的ネットワーク化

ヴァルネラビリティ(vulnerability)という概念は、インターネット領域で『セキュリティ上の脆弱性や欠陥』という意味で使われるが、現代思想や社会心理学などでは『他者からの攻撃や搾取などを招きやすい弱点や誘発性』といった意味で柔軟に利用される。

ヴァルネラビリティを単純に他者から攻撃を受けやすい、自分の安全や利益を失いやすい短所・欠点といった『負の特性』であると短絡的に解釈することが間違いであることは、今まで色々な分野で言われてきた。

私が、ヴァルネラビリティという概念に興味を持ったのは、情報社会論の分野で著名な金子郁容氏の『ネットワーク組織論』『ボランティア』といった書籍を通してであったが、金子氏はヴァルネラビリティを『弱さの強さ』といった形で解釈していて興味深い。


ヴァルネラビリティとは脆弱さと強靭さの混合した両価的概念であって、もっと言えば、合理主義や資本主義の限界を抜け出ようとする社会的活動の源泉力でもある。
インターネットにおけるセキュリティやシステムのヴァルネラビリティは、改善可能性に対して開かれているだけでなく、LINUXのようなオープンソースのプログラムであれば誰もがその改善に寄与することができる。

更に、インターネットの誕生によって注目されてきた特異な経済現象として、そのプロジェクト自体(プログラミング・システム構築・ウェブサイト制作・CGや文書の作成)の面白さや楽しさによって惹き出される『無報酬(低報酬)のボランタリーな創作活動』というものがある。

もちろん、インターネットでの無料の創作活動は、他人の利益や喜びを第一義にしたものではなく、自己の趣味や好奇心を追求した結果として他人にもその恩恵や利点が波及するというものである。
しかし、ほぼ無償で、他人の役に立つプログラムなどの創作物を提供し、他人が必要とする需要のある情報を公開するという行為は、従来の経済学のモデルにある経済人(ホモ・エコノミクス)の合理的な行動原理からはなかなか説明が困難な行為である。

このオープンソースの活動とヴァルネラビリティを結びつけて考えると、フリーソフトにせよシェアウェアのソフトにせよ、自分の書いたプログラムをそのまま公開する行為がヴァルネラビリティを内在していることを指摘できる。
つまり、自分の制作したプログラムのコードをオープンにするということは、『自分の手の内をすっかり相手に見せてしまう=自分の弱点やミスを自ら見せてしまう』という意味でヴァルネラブル(突っ込まれやすい)な行為なのだということである。

これは、プログラミング言語やシステム設計といったインターネットの技術的な情報公開だけに限ったことではなく、サイトやブログで日記や持論を書く行為も『ヴァルネラブル(情報の間違いや意見の相違に突っ込まれやすい)な行為』なのである。

絶対的に正しい情報(理論)や誤謬のない完全な振る舞い(行動)が存在しないという前提に立つならば、インターネットで情報・意見を記述するあらゆる発信行為はヴァルネラビリティ(他者の言及に対する脆弱性)を持つ。
しかも、インターネットでは、ログを残した本人がその情報を削除したり訂正しない限りは、その情報は公開されている間、ずっとヴァルネラブルな状態に置かれているわけだから、現実世界での発言や振る舞い以上にヴァルネラブルな状態が明確化・長期化しているといえるだろう。

そういう意味では、インターネットで情報を公開して『私は一切の反論を受け付けない』とか『私の主張は完全にプライベイトなものだからリンクしないで欲しい』と考えることは出来ても、その考えをインターネットで言論活動を行う他者に強制することは不可能だといって良い。
厳密には、『一切の反論を受け付けない』という個人的ポリシーを、他人の反論や言及は見ないようにするという態度で実現することは出来るが、反論する他者の行為そのものを禁止できないということになる。

しかし、インターネットで情報公開する面白さが、ヴァルネラビリティ(突っ込まれやすさ)によって促進され深化させられているという部分も見逃せない。
反論に対する応答の手間を面倒に思う人であっても、メタの視点から反論内容を読むことの面白さ、多面的な物事の解釈に気づく刺激は感じているのではないだろうかと思う。
また、本人以外の関係者や閲覧者にとっても、一つの事件や物事に対する複数の考えや立場を知ることが出来るのは、他者に対する異論の提示の閾値が低くなるネットならではの利点といえるだろう。

自己の正当性を強調するだけの反論や誹謗中傷の含意のある反論などは読むに堪えないという人が多いかもしれないが、理路整然とした異論や説得力やユーモアのある反論などは、(それに応答しないとしても)多様な考えや未知の情報に触れる面白さを感じることにつながるのである。
ただ、オープンソース活動に見られるプログラムコードのヴァルネラビリティ指摘には、『ソフトウェアの機能性やデザイン、安全性の向上』という明確な目標があるのに対して、言論活動におけるヴァルネラビリティ指摘には、『情報の正誤確認や法的・倫理的な問題指摘』くらいしか明確な目標がない。
その為、客観的な正答のない問題に対して、双方が感情的な対応を取るとヴァルネラビリティのベネフィットを十分に活用できなくなる恐れがある。

インターネットの言論で、相手の言説の脆弱性や論理の誤謬を突いて、更に有意義な議論にもっていこうとするならば、相手の自尊心や価値観に対する一定の配慮が必要になるかもしれない。また、自己の公開した情報・意見のヴァルネラビリティを自覚した発言者であれば『異論を楽しく読む姿勢・読むべきポイントを絞って読む技術』を身につけると良いだろう。

ヴァルネラビリティは、『弱さを強さに変える触媒』としての効果を持つということを忘れてはならない。
特に、インターネットは、不特定多数無限大の人々、多種多様な才能(コンピテンシー)と経歴(キャリア)を持つ人々が集積する場所であり、『個としての優越性や該博性』を誇示する場所としては適当ではない。

その意味において、局所的に個対個で知見や主張の優劣を競って戦うよりも、個対個の差異を確認してお互いに有益と思うものを取り入れあう関係を維持することが、インターネットでの生産的な振る舞い方といえるかもしれない。
無論、インターネットを生産性の向上や効率性の上昇といった目的志向で利用する必然性があるわけではないので、個々人の楽しみ方やネット内での関係の持ち方があって良いと思う。

WEB2.0の文脈で、ネットでのヴァルネラブルな情報開示を考えると、『個として可能な不完全な情報開示』を精力的に行うことで、Wisdom Of Crowd(群集の叡智)の可能性に貢献することになり、ネットの参加者が、『開示情報への建設的な言及やタグによる分類整理』を行うことで有意義なFolksonomy(群集による情報整理・タグ付けによる分類)も推進していくことになるのだろう。

もし、私達一人一人が完全無欠で自己完結的な存在であるならば、インターネットは必要ないし、不特定多数の人々が個別に情報公開する意義は乏しいということになるが、私達一人一人は、生憎(あいにく)、ヴァルネラビリティを背負い続ける宿命から自由になれそうにはない。

時代状況は絶えず可変的で、歴史的学術的に定義された静的情報はすぐに古色蒼然としたものになってしまう。だから、百科事典にインデックスされた情報をそのままインターネットに公開するだけでは極めて不完全で、どんなに一流の専門家を集めて編纂した百科辞典も静的情報の限界によって、動的なインターネットの情報にその即時性と応用性において優越することは出来ない。

例えば、インターネット上で誰もが事項の作成や編集に携われる百科事典Wikipediaのプロジェクトは、百科事典として各項目の正確性や権威性では、既存の百科事典ブリタニカなどに劣るかもしれないが、そのWikipediaのヴァルネラビリティこそが未来における終わりなき発展可能性の証なのである。
リアルタイムの編集の可能性と事項の追加性に対して開かれているという点が、インターネット上の百科事典Wikipediaの最大の弱点であり強みでもある。

特定分野における専門家の優秀な知性や権威者の博識に対しては率直な敬意を払うべきだが、『インターネットにおける知の編成』の最大のベネフィットは、無数の群集がヴァルネラビリティに対して膨大な編集・追加を試みることが出来るところにある。
現時点での最高度の正確性はインターネットでは保証されないが、未来時点に向かう情報の可能性の束としてはあらゆる既存の情報媒体を凌駕しているといっていいのではないかと思う。

インターネット普及以前には、自分が持っている情報を積極的に公開して普及させることは機会損失であり優位性の喪失に過ぎなかったが、情報化社会が成熟してインターネットへの参加者が増加するにつれて積極的に情報開示してヴァルネラビリティを示すことが一概に不利益や損失であるとは断言できないようになってきた。

何しろ、Wikipediaや各分野の専門家の参入によってGoogleやYahoo!で検索できない情報のほうが少なくなってきているのだから、情報を出し惜しみする必然性が非常に乏しくなっている。
リアルとネットにおける意欲的な情報開示と自発的なコミュニケーションの活動によって情報ネットワーク環境はより有益でより充実したものになっていき、それに付随して報酬の多寡を問わない社会的ネットワーク化も加速されていくだろう。

今、隆盛を見せているmixiなどのSNSも、情報のネットワークから人間のネットワークへの過渡期にある一つのヴァルネラブルなシステムであり、個々人がリアルと結びついたプライベートな情報をもネットに開示していくことで情報・知識の交換を越えた何かを獲得しようとする試みであると解釈することもできる。

『弱さ(不完全さ)を強さ(可能性)に変える媒体』が、ネットに限らず現代社会には少しずつ増えてきている徴候があるし、それは経済的合理性(貨幣経済原理)や暴力の階層性(政治的秩序)に収まりきらない人間のネットワーク化の本性やコミュニケーションの欲求を反映したものなのかもしれない。

インターネットの世界で、ヴァルネラビリティのパラドックスの徴候が顕著に見られるのは、生存維持の為の物理的コストがネット世界では極めて低いためだと思うが、リアルの世界でそういった動きがボランティアやNPOなどの形態以外で見られるようになるかどうかは未知数である。






■書籍紹介
ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ

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