小川洋子『ブラフマンの埋葬』の書評

古代インドのウパニシャッド哲学からヒンズー教に至る流れにおいて、宇宙の中心的原理とされたのはブラフマン(梵)であり、人間個人の支配原理とされたのはアートマン(我)でした。
宇宙の中心にあって万物の生成の根拠となり、宇宙の隅々にまで遍在して生命力の源泉である普遍的原理がブラフマンですが、古代インド哲学の最重要概念はそのブラフマンと個人(自我の魂)が究極的には同一であるとする梵我一如です。

神秘的で崇高なイメージをまとう古代インド哲学のブラフマンと小説『ブラフマンの埋葬』に登場するブラフマンとは全く異なるものですが、小川洋子さんがなぜ、ブラフマンという特殊な概念を森に生きる小動物に付けたのかを考えると興味深いものがあります。

ブラフマンがどんな種類の動物なのか、犬なのか猫なのかは小説中では明示されませんが、毛並みや尻尾の様子や瞳の印象、特徴的な動作、可愛らしいしぐさなどは詳しく繰り返し描写されます。私は、森林に生まれる野生動物ということから狐か何かそういった動物である印象を受けましたが、そのあたりは想像によって自由に楽しむ部分なのでしょうね。

ブラフマンは、夏の初めのある日に、「僕」の元へボロボロに傷ついた身体を抱えて、「僕」に助けを求めるようにしてやってきました。
ブラフマンはオスの野生動物ですが、初対面だというのに、「僕」に対して人懐っこい様子を見せて、怯えたり逃げたりするそぶりもありません。

何の因果もなく偶然出会った「僕」とブラフマンは、『創作者の家』という少し変わった生活環境で共同生活を開始することになります。
『創作者の家』というのは、文字通り、あらゆる種類の創作活動に没頭する芸術家たちが無償で利用できる施設であり、ある出版社の社長の遺言によって創設されたものです。
「僕」はその『創作者の家』に住み込んで働いている管理人であり、ブラフマンという名前は「僕」が時折会話を交わす無口な碑石彫刻師の助けを借りて名づけたものなのです。

「僕」は、『創作者の家』で、掃除、洗濯、芸術家の送迎、庭の手入れ、マッサージ、雑談相手などあらゆる雑務を一手に引き受けていて忙しい毎日を送っているので、ここを訪れる芸術家たちの実際の仕事や作品について具体的に理解する暇がないし、またそれほど理解したいとも思わないのです。
日常の生活に必要な動作に終始する「僕」と日常の生活から遊離した創作に没頭する「芸術家」のコントラストがここには絶えずあります。

仕事の合間をみてまだ幼いブラフマンに牛乳を与えようとしますが、飢えて食欲が異常に高ぶっているブラフマンはがっつきすぎて皿に注いだ牛乳を床にこぼしてしまいます。「僕」はブラフマンに確実に牛乳を飲ませてあげるために、村の駅前にある雑貨屋に赤ちゃん用の哺乳瓶を求めます。

雑貨屋の店主は、50代の元競歩の選手で、奥さんを亡くしてからは、若い「娘」と二人で雑貨屋を経営しているのですが、「僕」は去年の春にその「娘」と知り合って以来、密かに淡く燻る恋愛感情をその「娘」に抱くようになっていきます。

とはいえ、明瞭な形でその異性(娘)への関心や情緒が書かれている部分はなく、文章を読んでいると自然に「僕」の内面に共感や想像ができるように文章構成が工夫されています。
この小説の主要テーマが通俗的な思春期の恋愛というわけではないのですが、『ブラフマンと娘との関係とその変容』がこの小説のテーマだと言う風に私には読めました。

ただ、恋愛感情の存在を感じさせる情景描写として、午前11時10分着の急行列車で「村の娘」に頻繁に会いにやってくる「町の彼氏」に対する嫉妬に似た当惑を書いている部分や村はずれにある古代遺跡で二人の性愛の痕跡を示唆するような部分があります。




土曜日、駅の改札口で娘を見つけた。僕の知らない、初めて見る刺繍入りのブラウスと、白い綿のフレアースカートを着ていた。貝殻形の髪留めだけが、普段と変わらず同じだった。午前十一時十分着の急行列車を待っているのだ。

僕はコントラバス奏者を見送り、入れ違いにやって来るクラリネット奏者を待っているところだった。僕は娘と顔を合わせないよう、売店の後ろに身を潜めた。
月に一度か二度、娘に会いに町から男がやって来る。雑貨屋は駅のすぐ目の前にあるのに、娘は改札口まで迎えに行く。ベルの音を聞いてから店を出たって間に合うのに、十五分以上も前から待っている。

(中略)

お互いたった一人の相手を見つめ合う。声に出して名前を呼んだり、抱き合ったりするような愚かな真似はしない。まるで遠い親戚の人を迎えに来たかのような、礼儀正しさを示す。村人が噂しているのを知っているからだ。

(中略)

不安を打ち消すために、僕はよどみなく喋る。利用者を迎える時いつも繰り返す台詞だ。娘と男のそばを通らないよう、ロータリーの駐車場まで遠回りした。クラリネット奏者がお喋りな男だったので助かった。彼が<創作者の家>のベッドの寝心地について不安を漏らしたり、過去のコンクール入賞歴について自慢してくれたりしたおかげで、余計な考えを巡らせずにすんだ。娘と男がこれから丘の古代墓地へ向かい、何をするかについて、考えないですんだ。



何処にでもあるようなエッセイ風の馴染みやすい文章ですが、小川洋子さんの小説の描写の特徴は、ほとんどの作品で、登場人物に固有名を与えず代名詞を与えるということですね。後、登場人物の何気ない仕種の特徴や外見の様子を飾らない自然な言葉で表現して、「アイデンティティが不安定な代名詞の登場人物」に輪郭を与えていくといった書き方を得意としています。

この作品では、ブラフマンの生物学的特徴や生態学的特性を太文字で書いている部分があるのですが、それをゆっくり読んでから、ブラフマンの活発で元気のよい動作や「僕」に忠実で信頼を寄せている様子を見ていくと一層ブラフマンに対する愛着というか好感が強まっていくと思います。実際に、犬や猫などを飼っていて動物好きな人であれば、この小説に出てくるブラフマンと過ごす日常生活や遊びの場面をより共感的に読めることと思います。

『ブラフマンの埋葬』に込められたメッセージの解釈は多義的なもので人によって「最後の場面」をどのように受け止めるのかは大きく変わってくると思います。
「最後の場面」がなければ、この小説はテーマ性のあまりない「僕」とブラフマンの私小説というか和やかな田舎の日常風景を切り取った物語となりますが、何気ない日常の一コマが一瞬で展開してエピローグを迎えるところに作者の意図を感じます。

無論、小川洋子さんや村上春樹さんのような、説明的な文章を極力排そうとする作家、日常会話と詩的な情景の再現だけで物語を紡ぐタイプの作家の場合は、推理もののミステリー小説などと違って種明かしのような説明を添えることはありませんから、個人個人に自由な想像と主題の読み取りを期待するという事になってきます。

『ブラフマンの埋葬』は、気軽に読める分量の作品で、文体も心に優しく沁みてくるような読みやすさがあり、仕事や勉強の空き時間を利用してのんびりと読むには最適です。
過去の懐かしい心象風景を思いださせられるような郷愁、いつもそのようにあることが当たり前の日常が変容していく淋しさといった読後感を得ました。

あなたにとってのブラフマンとは何でしょうか?

■書籍紹介
ブラフマンの埋葬

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