森博嗣『四季 秋』『四季 冬』の書評:ヒトの才知と成長が醸成するレゾンデートル

森博嗣の四巻組の小説『四季』のうち、前半部に当たる『春 green spring』と『夏 red summer』の書評を以前書きました。
『四季』というタイトル通り、後半部は『秋 white autumn』『冬 black winter』というタイトルになっています。

物語は引き続き早熟のコンピューター工学の天才・真賀田四季を中心にして展開していき、四季の超越的才能に憧憬を覚える犀川創平と犀川の生徒の西之園萌絵を巻き込む形で四季の関与した殺人事件の真実が明らかにされていきます。
森博嗣の主要著作には「S&Mシリーズ」と「Vシリーズ(瀬在丸紅子のシリーズ)」がありますが、S&Mとは国立大学の助教授である犀川創平のSの頭文字と、犀川に恋愛感情を抱く学生・西之園萌絵のMからとったもので『すべてがFになる』という処女作から続いているものです。

結局、この『四季』のシリーズにおいて、個々ばらばらに登場していたS&MシリーズとVシリーズの登場人物たちの人間関係が一つの線でつながっていく仕組みになっているのですが、双方のシリーズをある程度読んでいないと登場人物たちが相互に意外な関係にあったことへの驚嘆みたいなものを十分感じられないかもしれません。
真賀田四季という超越的才能を取り巻くストーリーの進行に合わせて、今まで別々の物語として語られていた作品中の人物たちが出逢って言葉を交わしていきます。

特に、『四季 秋』では犀川と萌絵のぎこちない恋愛関係の進展も主要ストーリーの一つになっているのですが、その恋愛と絡めて必然的なシチュエーションの中で今まで語られなかった犀川創平の家族関係やパーソナリティの原型が明かされていく構成になっています。
2つのシリーズを架橋して、シリーズ相互の人間関係や各登場人物の背景が説明されていくわけですが、こういった文章構成のスタイルはミステリーによく見られる『叙述トリック(倒叙ものとも呼ばれる文章構成によって読者をミスリードするトリック)』の変種に当たるのではないかと思います。

私は、S&MシリーズとVシリーズを素直に一冊完結の形で途切れ途切れ読んでいたので、作品群相互における人物の対照関係を意識したことは余りありませんでした。
『作品の中で流れている時間』をシリーズ相互の間で何十年かずらすことによって、それぞれの作品の中で同年齢のように見える人物達に年齢差が生まれるというトリックを利用しているのですね。

つまり、シリーズAで高校生として人物設定されている人物A'とシリーズBで高校生として人物描写されている人物B’がいるとして、その二人が一緒に出るような場面を記述せず、それとなくシリーズAとシリーズBの間に連続性(関連性)があるという伏線を引いておけば、最後の最後でシリーズAとBの間には実は大きな時間差があったというトリックを使えるということです。
同世代のキャラクターだという先入観を読者に上手く形成させることが出来れば、A'とB’を親子や祖父と孫などとして種明かしする事で、ストーリーに意外性をもたせ読者の驚嘆や感動を誘うことが容易になります。

『四季』の叙述トリックを振り返って、こういうシリーズものの特性を活かした、読者の虚を突くというか認識の錯誤を利用した面白い小説の書き方もあるのだなという印象を受けました。
叙述トリックというのは、多くの場合、一冊の本の中で完結することの多い技法で、順序良く物事を述べているように見せかけて、密かに物事の時間的順序を入れ替えたり、物語を語る視点(一人称の人物)を素早く探偵役から犯人へと転換したりといった形で、それまで読者が抱かされていた固定観念を終盤で一気に覆して「鮮やかな真相の解明・意外性に基づく感嘆」を得ようとする技法です。

『現在の出来事』として語られていると思った事象が『過去の述懐』だったり、『現実世界の事件』として記述されていたことが『精神内界の想像』だったりといった感じで、急速に場面を転換して真実の告白をするというところに叙述トリックの妙があるわけですが、あまりこれを多様するとミステリー作家としての評価を落とすこともあるようです。

私は、ミステリー小説は結構読んでいますが、トリックそのものの分類や工夫への強いこだわりはないので、同じようなトリックが用いられているミステリーでも登場人物や場面展開に魅力があればそれなりに楽しく読むことが出来ます。
しかし、本当のミステリーマニアになると、犯人を事前に当てるというフーダニットをしながら、自身の推理の妥当性を検証するという楽しみもあるので、読者を意図的なミスリードによって欺こうとする「叙述トリック」はアンフェアだから好ましくないという主張もあります。
とはいえ、小説『四季』は、犯人を探し当てたり、不可能犯罪のトリックを暴くタイプの本格派のミステリーではないので、叙述トリックといっても人間関係を曖昧化させて意外な人と人を結びつける役割をしているだけですが。

前置きが長くなったので、本論についての書評はやや簡潔に書こうかと思います。
『秋』では、シリーズ当初大学に入学したばかりだった西之園萌絵は院生となり、犀川創平との恋愛関係を順調に育んでいます。
順調な恋愛といっても、犀川は基本的に異性に対する性的関心などは殆どなく、世俗的な価値観にも一切迎合するところがないので、一般的な恋愛に見られる相手へのこだわりのようなものは殆どありません。
犀川創平の人物設定の最大の特徴は、徹底的な科学的思考に基づく世界認識と感情的倫理の軽視、ニヒリスティックな事象分析にあるといえるでしょう。

あらゆる物事の価値を相対化して自分が特別に執着すべき対象などはないというのが犀川の精神機構のデフォルト(初期状態)ですから、恋愛においても感情の起伏に翻弄されることはなく何処までも淡々とした緩やかな情緒を萌絵に向けるだけです。相手に盲目的に陶酔して、熱狂的な異性関係に溺れるなどといった状況とは全く無縁な存在といえるでしょう。
一方、萌絵は莫大な資産を持つ名家のお嬢様で数学的処理能力に抜きん出ているといった特徴はあるものの、恋愛に対しては極々一般的な感性を持ち、好きな相手から情熱的にストレートな愛情をぶつけられたり、一緒に楽しくデートしたりすることを望んでいます。

そういった普通の恋愛関係の進展を望み、安定した結婚生活を夢見る萌絵に対して、犀川はそういった標準的な異性関係の行動や様式に全く興味がありません。関心の範囲内から生活感覚のあるものがすっかりスポイルされているというか、知的生産活動以外の営為の優先順位を顧みないというのが彼の日常なのです。端的に言えば、大多数が承認する常識的価値観や職業的に要請される社会的責務のようなことに全く拘泥しない特異な性格なのです。
基本的に、実際の恋愛関係において犀川と萌絵の折り合いはよくないのですが、萌絵のほうが初めから一方的に犀川の存在に惚れこんでいるところから最初の物語(「すべてがFになる」)が始まっていますから犀川の何処に魅力があるのかという具体的な事柄は考慮されません。
とりあえず、『四季 秋・冬』において、二人の関係は進展し、どういう風の吹き回しか犀川が萌絵に指輪を贈って婚約するという事態に至っています。

圧倒的な知性と美貌を持つ天才少女としてマスメディアから持てはやされた真賀田四季は、14歳の時、妃真加島で両親を殺害してから刑事裁判を受け無罪となりますが、その後完全に消息を絶ちます。
数学や工学、コンピューター部門における早熟の天才として国際的な知名度を得ていた四季は、人々に強烈で特異な才能と事件の記憶を残してその姿を消し去るのですが、15年後に自らが出産した娘(叔父との間の子)を殺害するセンセーショナルで動機不明な不可能犯罪を再び起こします。
その事件を主題にした話が処女作の『すべてがFになる』なのですが、謎解きのミステリー作品として森博嗣の作品を比較して評価するなら最初の『すべてがFになる』が最も完成度が高いように感じます。

犀川創平は、外観的な美や性的な魅力によって幻惑されることがないタイプですが、余人を寄せ付けない不世出の才能の所有者である真賀田四季にかつてから憧憬に似た高い関心を抱いていました。余りにも突出した天性の才覚で犀川を惹きつける四季に嫉妬する萌絵、そして、世界的な研究開発プロジェクトを動かすメンバーの一員として犀川に魅力を感じた四季。
そういった萌絵の内面の揺れや恋愛から婚約への流れの話が『四季 秋』の前半を占めていますが、四季は世界中から特異な才能を持つ自然科学者をスカウトして、批評家の東浩紀氏が語る環境管理型システムのような自動化された環境調整システムを開発しようとしています。
さらに、生命科学分野の権威・ロバート・スワニィも研究開発組織に加えて、バイオテクノロジーによる驚異的な生命の実験的操作(DNA情報からの人間個体の再生)も行おうとしているのですが、それが『四季 冬』のクライマックスへと続いていきます。

クライマックスは多少パロディめいた脚色が為されていますが、それが現実に起きている出来事なのか作中の想像的世界なのかの区別がつきにくい詩的な文章構成が取られています。
おそらく四季の表面化し難い素朴な無意識的願望が、ありふれた日常生活の情景にしっくりと溶け込むこと、無邪気な子ども時代に回帰して情緒的な人間関係に耽溺することだったことを暗示しているのではないかというように私は読みました。
現代社会に偶発的に誕生する精神的機能の早熟と感情的機能の萎縮が内在する子ども、知性至上主義的な世界認識による人格構造全体の歪みといったものが、四季という仮想の人物がメタファーするものでしょう。



『メモリィが大きい、処理能力が高い、つまり賢いものほど、長い期間、子供である必要があるのです。動物の中では、人間がもっとも成長が遅い。何年も子供を経験します。それなのに、私が小さい頃には、皆が……、私の親も親族も含めて、誰も、私を子供だと扱ってくれなかった。頭脳が明晰であることは、大人の証だという錯覚があったためです。しかし、それはまったく正反対でした。頭脳が明晰なのは子供のほうですし、頭の良い者ほど、成長は遅い。大人になかなかなれないのです』

『四季 冬』より引用



狂気的科学者としての風貌を帯びた真賀田四季という人物の特性を一言で語れば、『徹底した観念至上主義に基づく世界の知的操作』によって生を支える存在です。
比類なき知的精神機能と卓越した機械的計算能力を先天的に得ていた四季は、情報処理速度の最大化を物理的改善と融合させたシステマティックな無駄のない社会を構想しながらも『主観的な自己の存在意義』を次第に希薄化させ『身体性の必要性』を懐疑し始めます。
そういった実存的な価値の喪失と社会的な倫理契約の軽視を示しながらも四季は、自分の生きる主観的価値の確信を揺らがせます。

独我論的な社会性の喪失=倫理規範の完全な無効化というのは、精神医学的には感情の平板化や無為、感情鈍麻、興味や喜びの消失、反社会的な行動化などと密接に関与していますが、四季はそれを『純粋な知と血の継承』によって克服しようとし挫折したように思います。
犀川創平が倫理規範の根拠にまつわる大雑把な考察を述べている箇所があります。ここで倫理学的な詳細を語る余裕はありませんが、『社会環境における善悪の判断の究極的根拠=所属共同体の存続・維持・発展に対する行為の作用』と考えることができます。
物事の善悪は、3者以上の人間が存在し相互にコミュニケーションをとる社会環境においてしか発生することができません。そして、人間は生物学的生殖メカニズムによって、必ず父と母を持って子が生まれます(先端生殖医療の応用を除いてですが、人工授精・体外受精もその医療技術を施行する専門技能を持った医師が必要ですから必ず三者以上の存在があり、相互関係が生まれることとなります)。



『歴史的に築かれたモラルは、そのほとんどが、生命を守るために、我々が存続するために選ばれた手法の一部なんだ。人を殺してはいけない。人を食べてはいけない。血縁者と交わってはいけない。生命は神聖なものだ。人は神によって創られた。堕胎をしてはいけない。自殺をしてはいけない。しかし……』犀川は煙草を吸い、そして煙を吐いた。

それらは結局のところ、人の集団を守るためのエゴでしかない。自然を破壊してはいけない、何故か?それは人が生きにくくなるからだ。あらゆる道徳はそのエゴから発している。それが良い、悪いという話をしているのではない。誤解しないで。我々のモラルと真賀田博士のモラルが違うのは、その基盤が、人間社会にあるのか、それとも彼女自身にあるのか、その差だ。彼女にとっては、自分自身が世界の中心にある。僕たちは社会の中心にけっして自分を置こうとはしない。最初から、自分の存在を他人に預け、歴史に預け、役割を担うことを恐れ、働きかけをしないよう、避けている。僕たちは、平穏無事にただ安穏と生きていければ良い、毎日が楽しければ良い、美味しいものが食べられれば良い、自分だけが病気にならなかったらそれで良い、と考えている。さて、いったい、どっちが本当のモラルだろう?どっちが真のエゴだろう?』


『四季 秋』より引用



倫理学的な善悪の根拠考察において、人間の自己保存欲求(生命維持本能)以上の根拠を持ち出す為には、つまりエゴイズムの隣人愛を超越する為には、人間以上の超越的存在や絶対的原理を持ち出す以外にありません。
人間より上位の存在者や高等な自然原理を見出そうとする心理が、宗教的価値観創始の源泉にはあります。
つまり、『私たちは何者かによって生かされているから、勝手に生命を奪ったり、自殺したりすることは絶対に許されない』という価値観は、宗教的な神や原理を前提としなければ成り立たないということになります。

小説の感想に戻れば、四季は『普遍的な倫理と主観的な判断の一致』を志向して犯罪に至ったという意味で科学者でありながら思考形態は非常に宗教家的であるということができます。
精神分析の概念で簡潔に言えば自我肥大の状態であり、才能の裏づけはあるものの幼児的な全能感による自滅的行動であるといえるでしょう。

そして、伝統宗教の影響が軒並み低下している現代の先進国においても死生観にまつわる倫理の原因を尋ねた場合に、意外なほど『人間の精神や利益以外の根拠』を信奉している人が多いことに気付きます。
個人や共同体のエゴイズム(利己主義)の限界を本質的に超えようとすれば、確かにそういった集団の共同幻想的な行為規範を持つ必要があるのかもしれませんが、実際の社会秩序は『個人の生命の尊厳の相互的承認・他者の苦痛や不幸への共感感情・社会規範に背くことに対するペナルティ』といったもので支えられていると私は思います。

宗教は、人間の慢心や倣岸を抑制して自然や生命に対する畏敬の念を強める効果がありますが、一方で副作用的な妄信的信仰によって現実的利害を見失ったり、一切の融通が効かない根本原理への従属者を輩出するというリスクも併せ持っています。
また、人類全体の生存への欲求を短絡的にエゴイズムといってよいのかという問題意識は持って然るべきですし、現在のところこの宇宙に認識と記憶とミーム(情報伝達子)としての表現の機能を持っているのは人類だけしか確認されていませんから、人間の生存を継続することに大きな価値があるという考えは間違っていないと思います。

少なくとも現段階では人類の絶滅は、人間原理による常識的世界認識のもとでは宇宙の認識主体の消滅を意味しますから、『この世界の存在を保証するためには人類の存在が必要』と言い換えることも可能なのではないかと思います。
論理的には人間原理(人間の存在によって世界が認識され存在する)を反駁することは出来ませんし、今いる人間の頭の中で人間のいない世界を想像できても、人間(知的生命体)のいない世界では想像の可能性自体が初めから閉ざされています。

書評から幾分、倫理学的な事柄へ脱線しましたが、気楽にミステリーのエンターテイメントとして読めば犀川と萌絵の関係の進展や意外な家族関係の明確化、四季の犯罪の真実の述懐が主題といえるでしょう。
頭脳が肥大した人間のレゾンデートル(存在意義)の探求を四季にシミュレイトさせたと考えると、ジーン(生物学的遺伝子)とミーム(情報的遺伝子)の存続継承へのヒトのこだわりと現代科学の進歩がどのような形で結合していくのかという問題提起の意識もあったのではないかと思います。

■書籍紹介
四季・冬

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