“包み込む母性原理”と“切断する父性原理”:エディプス・コンプレックスと阿闍世コンプレックス

人間の“パーソナリティ(personality)”は、その人を他者とは異なるものとして規定する“人格構造”であり、その人独自の環境適応パターンを示すと同時に精神の全体的な傾向や特性を意味するものである。
パーソナリティ(personality:人格)は、キャラクター(character:性格)と類似した概念であるが、人格は性格よりも高次の総合的な“精神と身体の相互関連システム”で、性格は人格と比較して他者への感情表現や物事を選択・判断する意志、反復される人間関係のパターンなどに重点が置かれている。

人格とは、『その人固有の特徴を指示する認知・思考・感情・行動・対人関係の一貫したパターン』というように定義することが出来る。
先天的な遺伝要因や体質の影響を強く受ける“気質(temperament)”と、気質に後天的な環境要因や重要な人間関係が作用して段階的に形成される“性格(character)”などが複雑に絡み合い統合されたものが“人格(personality)”であるが、心理学分野では人格と性格を明確に区別しない事もある。

“その個人の全体的な人間性の特徴”と“人間性が他者に与える総合的な印象”がパーソナリティであり、パーソナリティは、神経系・内分泌系・免疫系・筋骨格系といった生得的な遺伝形質のみによって規定される自然主義的な実体ではない。
パーソナリティの発達は、性格心理学の古典的な論争である『氏か育ちか論争』が不毛な議論だったことからもわかるように、遺伝(氏)だけによってパーソナリティの発達が影響されるわけでもないし、環境(育ち)だけによってパーソナリティの特性が規定されるわけでもない。
つまり、“先天的な遺伝要因”“後天的な環境要因”が相互作用することによってパーソナリティは段階的に発達し、その人固有のパーソナリティが形成されていくのである。

この場合に、先天的要因とは『遺伝形質・体質・気質・生理学的素因』などを指し、後天的要因とは『生育環境(家族間の人間関係)・早期の母子関係・社会的な人間関係・教育環境』などを指している。

パーソナリティの発達にあたって、フロイトが創始した精神分析は4~6歳頃のエディプス期の『母親・父親・子どもの三者関係の情緒的葛藤と超自我の形成=エディプス・コンプレックス』を重視し、日本の親子関係や文化習俗の伝統を精神分析に持ち込んだ古沢平作や小此木啓吾はエディプス・コンプレックスに代わる『阿闍世コンプレックス=母子の相互的な許しと癒し』の概念を持ち込んだ。

エディプス・コンプレックスと阿闍世コンプレックスの最大の違いは、エディプス・コンプレックスがキリスト教倫理に根拠づけられるような“父性原理に基づいた感情的葛藤=近親相姦禁忌を示唆する三者関係”であるのに対して、阿闍世コンプレックスが仏教経典に題材をとりながら“母性原理に基づいた感情的葛藤=甘えや依存を許しあう二者関係”であることです。

三者関係のエディプス・コンプレックスの葛藤を経験する意義は、『母親への性的関心の断念』『幻想的な母子一体感を切断する父親の登場による超自我の芽生え』である。
近親相姦禁忌や母親の性的関心というと非現実的な感覚に襲われますが、エディプス期は母親への強固な依存と愛着を弱めていく時期と解釈すれば分かりやすい。
それは、親密な閉じた家族内関係を克服して、見知らぬ他者との社会関係へと自分を開いていくという意味を持ち、心理的自立の小さな第一歩とも言える。
見知らぬ他者とは、単純に家族外部の人間という意味ではなく、『一方的な甘えや依存によって自分に対する世話や愛情を引き出す事が不可能な他者』という意味である。

社会環境で自立して生きていく為には、人間関係を家族から家族外への他者へと発展させていくことで『家族の一員』であると同時に『社会の一員』とならなければならない。
社会の中で生きていく為の相互利他的な“社会規範・倫理規範”を学習して内在化する時期が“エディプス期”であり、社会の中で出会う他者の原型を模範的に示すのがエディプス・コンプレックスにおいて去勢不安をもたらす“父親(父性的な厳格性・規範性・現実性)”なのである。

ここでいう父親は、生物学的な父親を限定的に指示するものではないし、生物学的性差による男性の養親を指示するものではなく、“象徴的な意味での父性的な存在”のことを示している。
即ち、エディプス・コンプレックスにおける“父親”とは、『一方的な甘えや依存を拒絶して、精神的自立の芽生えを促す他者』であり、『厳しい社会環境で生き抜く為の社会規範・倫理規範を提示する他者』なのである。

エディプス・コンプレックスの体験と克服によって獲得される超自我(理想・良心・倫理観)は、父親から懲罰されるという去勢不安から生まれる罪悪感を根底に持っていますが、阿闍世コンプレックスの体験には、エディプス・コンプレックスのような罰や恐怖による罪悪感は存在しない。
何より、阿闍世コンプレックスは、母親と子どもの二者関係における『甘え・憎悪・許し・謝罪の複合感情』ですから、父親のような社会的存在としての他者ははじめから存在していない。

阿闍世コンプレックスで見られる罪悪感は、『自分が悪い事をした(母親を恨み殺そうとした)のに、相手から許されてしまった事による申し訳のなさや後悔・謝罪としての罪悪感』であり、阿闍世コンプレックスの世界は、『悪い行為をした加害者(子ども)を“罰する”のではなく、“許す事”によって子どもに自己懲罰的な罪悪感を自発的に抱かせようとする世界』なのである。

エディプス・コンプレックスの体験と克服によって形成される規範意識(超自我)は、ユダヤ教、キリスト教的な伝統的父権主義に基づくもので、『父親=厳格な法の執行者』のイメージによって支えられている。
その一方で、阿闍世コンプレックスの体験と克服によって形成される罪悪感(超自我)は、阿闍世の母・韋提希(イダイケ)のエゴイズムと愛情・保護という母性原理に基づくもので、『母親=寛容な情・許しの体現者』のイメージによって支えられているのである。

日本人の精神構造の根底にあると古沢が仮説した阿闍世コンプレックスは、日本の文化的特性である集団主義や情緒主義をうまく説明する。
日本人は、よく言えば義理人情に深く相手に対する思いやりが深くて、他人との協調や連帯を大切にするが、悪く言えば過去の人間関係や感情のしがらみに捉われて自分の行動や意見を制限したり、集団的価値観にそぐわない突出した個性を押しつぶそうとする。

日本人の罪悪感は、西洋人の罪悪感のように神(超越的他者)との関係から導かれるものではなく、現実社会で一緒に生きる世間・集団との関係から情緒的に導かれるものである。
相手に必死に尽くす事で、恩義を感じさせ、反対に、相手から懸命に尽くされる事で、自分が恩義を感じ、双方がお互いに相手に恩を返そうとするところに良好な人間関係が生まれる。また、日本文化における罪悪感とは、普遍的な法や倫理を破った為に生じる客観的な罪悪感ではなく、自分の知っている他人や世間に迷惑や心配を掛けてしまって申し訳ないという後悔や謝罪の念に基づく罪悪感なのである。

日本人の超自我は、『他者・世間に迷惑を掛けてはいけないという主観的な基準』に基づく良心として機能するが、日本人は超越的な神による善悪の判断基準を持たない為に、相互的に罪や誤りを許しあう寛容さを持つことが出来る。そして、客観的な能力の競争よりも主観的な情緒の結びつきによって社会関係を構築していく傾向が伝統的にある。
つまり、他者に迷惑や被害を与えても、他者から許されて受容されることで申し訳ないという罪悪感と感謝の念を覚え、その罪悪感と感謝の念を他者・社会へと還元しようとする報恩の精神によって情緒的な社会関係が成り立っていたのがかつての日本社会であった。

現在では、西欧的な個人主義や成果主義が企業文化に持ち込まれてきたこともあって、日本も次第に情緒主義から成果主義へと移行してきているようにも思えるが、それでもやはり日本人の大半は罪や過ちに対してどちらかといえば寛容で甘い傾向がある。
些細な過ちや罪悪に対しては、お互いに許しあおうという雰囲気には、厳しさの少ない居心地の良さをもたらしたりする良い面もあれば企業犯罪のような社会的不正義をお互いに容認しあってしまうといった悪い面もある。

とはいえ、父性原理に基づくフロイトのエディプス・コンプレックス、母性原理に基づく古沢平作と小此木啓吾の阿闍世コンプレックスのどちらが模範的な発達過程なのかという問いかけをしたり、どちらが子どもにとって理想的な育児方法なのかと考えたりすることには本質的な意味はないだろう。
子どもにとっては、理想的な自己像を形成し、社会適応を促進する父性原理も精神的安定をもたらして自分の居場所をつくってくれる母性原理もどちらも欠かせないものである。
そして、この世界には、父性原理で生きなければならない社会的環境もあれば、母性原理で生きても良い親密な人間関係もある。

子どもを育てる親に求められるのは、厳しさと優しさを状況と場合に応じて使い分ける柔軟さであり、規範と自由のバランス感覚を教育して、子どもの精神的・経済的・社会的自立を促進することでしょう。
育児において、“包み込む母性原理”が過剰になれば、ひきこもりやNEET、モラトリアムの遷延といった家庭環境から自立できず社会環境に適応できない非社会的行動の問題が発生しやすくなります。反対に、“切断する父性原理”が強くなり過ぎれば、孤独感や寂寥感が強くなったり、他者に対する寛容や忍耐に欠ける冷淡な人格が形成されやすくなります。
また、徹底した父性原理に基づく行動を示す人の場合には、“他人は競い合い対立する敵”という認識が強くなり、他人に甘えたり他人を信頼する事が難しくなるという心理的問題が生じたり、秩序や規則を機械的に守る事への強迫的なこだわりが生まれて環境不適応の問題などが起きることも考えられます。
そのことから、切断する父性原理と包み込む母性原理の適度なバランス感覚を持って、教育や育児を行うことが大切だという事が分かります。
親である大人たちも、時と場合、相手に応じて、柔軟に厳格な判断と寛容な態度を使い分けながら、良好な人間関係と職業生活の充実を志向しなければならず、他者との相互的な関わり合いの中から人生の幸福を模索していかなければならないでしょう。

■書籍紹介

エディプスと阿闍世

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 14

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い 面白い

この記事へのトラックバック