『溢れる余剰としてのエロス』を消尽する生の歓喜と充溢:純粋な快楽と贈与の祝祭

エロスとしての愛とは、主体である私が対象であるあなたを求める事であり、愛の充足として対象であるあなたと融合し、愛の関係として対象であるあなたと愛着や興奮を伴う時間を共有する事です。
エロス(異性への愛と憧憬)は、一般に利己的な欲求の充足を含むものですが、真のエロスは、ジョルジュ・バタイユが語る非経済的な享楽的消費の概念“消尽(consumation)”によって特徴付けられます。

“消尽”という概念に日常生活で触れる事は余りないかもしれませんが、消尽ではその字義が指し示すように『完全に消費し尽くす事・空になるまで使い切る事』といった意味を持つ概念です。
恋人(配偶者)との関係や触れ合いそのものを純粋に楽しみ、そこから自然に生起する荒々しい“快の衝動”を徹底的に味わい尽くす時には、経済的な利害関係や関係の外の損得勘定は存在しません。
人間は、基本的にエゴイズムの束縛から完全に自由にはなれませんが、本当に愛する人間と時を共にしている刹那に、“バタイユの消尽に基づく愛の共同体”が精神内界に蜃気楼のように現出してきます。

何故、私がここで現代社会で一般的に使用される“消費”という言葉を用いずに“消尽”という言葉を用いたのか。
その理由は、経済的な消費活動と純粋な快楽の享受と享楽を意味する消尽の行為とを区別したかったからです。
消費活動は、飽くまで、生産活動に対置される金銭と商品の交換行為であり、経済社会の枠組みの内部で見返りとしての利益や有用を求めて行われる商取引ですから、近代的な消費は原始的な消尽とは異なる概念です。

消尽は、純粋な快楽を得るために、他者に無償の贈与を行う事を可能とするものであり、祝祭的な歓喜と恍惚を招きよせる『生の溢れる余剰』なのです。

消尽の起源は、経済制度が確立する以前の未開社会(原始共同体)における『非生産的な祝祭・供犠』にあるとされ、古代の人々は自らの苛酷な労働の成果である食料や武器などの生産物を神々や精霊に惜しみなく捧げて消尽しました。
最も原初的な祝祭としての消尽には、神々に農作物の豊作や多産繁栄、安全平和を祈願するといった現世利益の宗教信仰の要素はなく、ただ祝祭としてのハレの空間を徹底的に享楽として楽しみ尽くす事を目的としていたと考えられています。

消尽とは、生物学的本能に規定される“快楽への意志”によって遂行されるものであり、フロイトの精神分析でいうリビドーが充足を求める衝動に類似したものです。
近代以降の人間社会は、単純な即時的快楽を求める動物的本能を倫理規範や良心によって徹底的に抑圧する社会です。
労働と生産の経済システムによって近代社会の豊かさや快適さは支えられていますから、私たちは学校教育や家庭の躾によって、将来や未来を計画して、現在の欲望を我慢する『禁欲的で勤勉な生き方』こそが『幸福や発展につながる正しい生き方』であると教育されています。
労働によって貨幣を稼いでから消費の快楽が許されるとする基本的な社会規範を持つ近代社会では、欲望の即時的快楽は否定され怠惰や野蛮として抑圧されます。

その為、欲望充足を遅延させる現代社会では、通常、消尽の快楽を社会的活動によって得ることは出来ず、消尽の快楽は、異性との情熱的な恋愛関係や無私の奉仕による歓喜の共有などによってしか得ることが出来ません。
消尽は、文明社会においては野蛮で無思慮な行為であるとして低く評価されることが多く、計画性のないその場限りの快楽に溺れる事は愚かしい事であるとして軽視されがちですが、私たちは無意識領域において消尽としての即時的快楽の獲得を求めていて、その欲求が恋愛や性行為、破壊的攻撃性などとして表面化することがあります。

何故、高度に発展した現代資本主義社会において、恋愛というエロスの関係に特別の価値が見出され、性的な魅力を高める為のファッション・化粧・ヘアスタイル・遊びの知識が重要視されるのかというと、そこに唯一、資本主義構造に取り込まれない“享楽的消尽が可能な聖地”があると信じたい願望があるからではないのでしょうか。

とはいえ、実際には、その恋愛至上主義的な願望が、異性を惹きつける為の美や魅力を高める商品・サービス・整形外科の大きな市場が形成される原因となっているという一面もあります。
“異性に魅力ある存在として承認されたい果てしないエロスの欲望”が、消費願望へと転移して資本主義構造の枠組みを強化する役割を果たしているというポストモダン思想の指摘がありますが、恋愛感情と市場経済の相関についてはまたの機会に語ってみたいと思います。

愛を消尽と結びつけて考えるならば、主体(私)が対象(あなた)の存在・精神を吸収する『エロス(生の欲望)としての愛』によって私たちは自らの存在と生命を肯定し、対象(あなた)によって主体(私)の存在・精神が吸収される『タナトス(死の欲望)としての愛』によって私たちは自我の限界と苦悩を超克します。
生と死の欲望が交錯する二重記述の愛、他者との結合と現実からの解放を求めるエロスとしての愛は、あらゆる意味において、二律背反的な矛盾を孕んだ関係性と言えるでしょう。

エロスとしての愛は、利己的であると同時に利他的であり、愛は人間に戦争や苦悩をもたらす一方で、文明社会を発展させる原動力や人類の種を保存する根源的な動因としての役割を果たしてきました。





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