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zoom RSS 塩野七生『三つの都の物語』の書評・1:独立の岐路に立つ海の都ヴェネツィア共和国

<<   作成日時 : 2005/05/25 21:46   >>

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歴史的事実と創作的ロマンスが絶妙な配分で織り込まれた“塩野七生『三つの都の物語』朝日新聞社”を読み、私の精神は暫しの間、人文と芸術の隆盛が頂点に達したルネサンスの余韻を残す16世紀初頭のイタリアを浮遊しました。
『三つの都の物語』は、非常に長大で重厚な大作(547P)であり、文庫本では3冊に分冊されていますが、ハードカバーの単行本では『緋色のヴェネツィア』『銀色のフィレンツェ』『黄金のローマ』という三章に大きく分けられています。

海の都として通商貿易で栄華を極めたヴェネツィア、花の都として文芸芸術の優美を極めたフィレンツェ、地中海世界を支配した古代ローマ帝国の首都として永遠にその栄光が継続すると信じられたローマ……イタリア史を語るに欠かす事の出来ない都市を巡って、塩野七生は美しく儚く悲しい3つの物語を雄大かつ典雅な筆致で描いていきます。
私は、『三つの都の物語』を、イタリア・ルネサンス後期の波乱万丈の歴史小説として読み、政治に翻弄される情熱的な恋愛小説として味わい、ニコロ・マキャベリの著作と共鳴するような思想文学として考察の材料ともした。

イタリアのルネサンスの歴史を参照しながら、この物語を深く読み解く時間さえあれば、史実と創作、現実と仮想が交錯するこの歴史小説から学び取れる有意な知識と人生の教訓には限りがなく、歴史的好奇心を持つ人達の知的欲求や情的興奮を十分に満たしてくれるでしょう。
数百年、数千年という過去を現在から振り返りみると、歴史に『もしも(if)』は無いとはいえ、歴史の摂理の精妙さに突き動かされるような人間の行動や判断の一つ一つには畏怖や脅威を覚えることがあります。

世界の歴史と個人の人生は今、この瞬間も留まる事を知らず流れ変化し続けています。世界にある全ての事物や現象は絶えず移り変わる諸行無常と生成消滅の真理にさらされている……こういった永遠普遍の実在が現象的に認められないことに対する情趣や哀感を歴史物語を通して象徴的に味わう事は、この世界を覆うある種の真理に静かに接する時かもしれません。
あの強大無比で永遠の栄光を確立したかに見えたローマ帝国が意外に脆く崩壊したように、あの優雅な繁栄と発展を見せたイタリア・ルネサンスの諸国が次第に衰退して独立を奪われたように、あのスペインの沈まない太陽とまで言われたカルロスの帝国が短期に没落したように、絶頂期にある栄耀栄華は気付かない間に斜陽の衰退期を迎え、絶大な権力を誇る個人や一族もどれだけ周到に権力を維持する策略を巡らしても必ず凋落を迎えてしまう。

この“盛者必衰の理”は、およそ普遍性のあるもので、どの時代の政治権力(王侯・貴族・英雄・富豪など)にも適用することが出来ます。
永遠に変わらないものはないという無常に対する不安と期待がいつの時代にもありますが、新勢力と旧勢力の世代交代、保守と革新の権力闘争によって人類の歴史(文明の進歩・経済の発展・文化の推移・ライフスタイルの変化)が紡がれているのは手段の違いはあれ現代も古代も中世も変わりません。

しかし、塩野七生氏がこの歴史小説で強く訴えたかった事は、私たち人間は歴史の摂理や自然の法則に盲目的に従属する無力で脆弱なだけの存在ではないという事であると私は解釈しました。
そう、主人公マルコ・ダンドロやダンドロの親友アルヴィーゼ・グリッティのように、あるいはダンドロの
恋人で、国際政治の暗黒に束縛されながらも奔放で情熱的な生を送るオリンピアのように……私たちは、自らが投げ込まれた人生の様々な制約や障害を受け容れて尚、力強く生きようと願うべきだし、全てを歴史の必然に帰して諦める態度に陥るべきではない。
自らの過去の記憶にまつわる悲哀や苦難から逃避して絶望するのではなく、勇敢に立ち向かう毅然たる意志を持って、過去に対して卑屈にならず高貴に生き抜く決意を持たなければならない。

過去の制約や障害を決然として踏み越えようとする大切さという意味では、16世紀ヴェネツィアの血統に左右される階層社会の冷厳な束縛を、自らの才知と行動で切り開こうとしたアルヴィーゼ・グリッツィの生涯は非常に魅力的なものに移るだろう。
その無鉄砲な生き方や身分や血統に人生が制限される時代背景は、現在の人権思想や自由民主主義思想による価値判断を適用すれば、褒められたものではないのかもしれないが、少なくとも血で血を洗うような苛烈な戦乱の時代を駆け抜けた一人の人間の生き様としてアルヴィーゼの生き方は“孤高の高貴な光芒”を放っていると私は感じる。

この物語を読み進めながら、歴史の波間で翻弄される恋人達の情熱と別離に陶酔し、永遠の絆としての友愛や恋情さえ無惨に切り裂く貴族制度の伝統や政治情勢の非情な転換に胸を切なく締め上げられました。
自らが帰属する共同体の拡大と衰退、そして滅亡を巡る壮大かつ悠遠な歴史を刻んできた人類の足跡に驚嘆の念を抱かされるだけでなく、私やあなたがこの“歴史の絶え間なき悠久の流れ”の微細な一部に関与している現実と改めて向き合わされたのです。

『3つの都の物語』について色々と賢しらな感想や私見を書き連ねましたが、イタリアの歴史や文化、政治学的な事柄に全く興味がない人であっても、生命を賭した情熱的な恋愛小説として楽しむ事ができ、魅惑的な都市の興亡と独立を巡るスリリングな歴史小説として次のページを開くのが待ち遠しい興奮や感動を得る事が出来るのではないかと思います。

周辺を神聖ローマ帝国を盟主とするハプスブルク家やイスラム帝国のオスマン・トルコという強国に包囲され独立存亡の窮地に立たされた海の都・ヴェネツィア共和国がこの物語の始点です。
ヴェネツィアの名門ダンドロ家の当主マルコ・ダンドロとマルコの10年来の親友でヴェネツィア共和国元首アンドレア・グリッティを父に持つアルヴィーゼ・グリッティを中心に話は進展していきます。

物語の冒頭で、ヴェネツィアで最も高い『聖マルコの鐘楼』から、ヴェネツィアの警察機関『夜の紳士たち』に所属する男が身を投げるという事件が起こり、この投身事件が物語の後半でマルコの人生を変える重要な真実とつながる伏線となっている。

亜麻色の美しい髪を緩やかにウェーブさせたマルコ・ダンドロは、ヴェネツィアの守護聖人の名を持つ名門貴族ダンドロ家の長男であり当主である。マルコは生まれながらにして、ヴェネツィアの国政で重要な役職に配属されることが決定しているという意味でヴェネツィアの支配者階層の典型的な人物であると言える。
ギリシアの彫刻のように端整な容姿と豊かな艶のある黒髪を持ち、アクアマリンからエメラルドへと優雅に変化して相手を魅了するエキゾチックな瞳を持つアルヴィーゼ・グリッティは、確かにヴェネツィアの元首として権勢を誇っているアンドレア・グリッティの実の子だが、正室の子ではなく異国の妻妾の子であった。
学校の授業や試験の成績ではいつもマルコが優秀だったが、賭博に女、商業や交易といった実際的な技術や行動ではいつもアルヴィーゼはずば抜けた才覚を見せ、マルコだけでなく他者の追随を全く許さなかった。

アルヴィーゼが進む人生の道筋はある意味で、生まれながらに規定されていた、正確には、生まれながらにヴェネツィアの国政に携わる事が出来ないという意味で限定されていた。
アルヴィーゼは、幼少時から寝食を共にするほど親しい付き合いをして、周囲から『離れられない坊やたち(インセパラーヴィレ・シニョリーニ)』と冷やかされるほど深い友情を取り交わしていたマルコ・ダンド
ロと同じ道を歩めない事は生まれながらに決められていたのだ。

学校生活を終える20歳の年に、ヴェネツィアの名門中の名門ダンドロ家の当主であるマルコは共和国の国会議員の席を用意されたが、ヴェネツィア元首の偉大なアンドレアを父に持つアルヴィーゼにはそのエリート路線は用意されておらずアルヴィーゼは自らの能力と才覚を試すかのように遠い異国へと旅立った。

ヴェネツィアの支配階級の一翼を形成するグリッティ家に生まれたアンドレアは、堂々とした体躯から威厳と風格を漂わせ、数ヶ国語に精通して各国の政治や文化を知悉する知性も併せ持った偉大な元首となった。領土を拡大し続けている意気衝天のトルコ帝国のスルタンや神聖ローマ帝国皇帝カルロスさえも、アンドレアをヴェネツィアの豊かな経済力を象徴する華麗さと威厳を兼備した人物として認知していた。
しかし、経済的な爛熟と政治的な隆盛というのは、裏を返せばその国が実現できる限界値ギリギリの状態であることを同時に示す……つまり、“地中海の女王”とまで呼称されるほどの経済的繁栄と政治的安定を誇ったヴェネツィア共和国もアンドレア・グリッティが元首を務める成熟期には、国家の斜陽の入り口に立ち、周辺国家の勢力拡大による独立の危機にも曝されていたのである。

1453年にヨーロッパ世界とキリスト教の守護者であった東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、オスマン・トルコ帝国のメフメト2世(マホメッド2世)によって滅亡させられて以降、コンスタンティノープルはイスラム教国家オスマン・トルコの首都になり、ヨーロッパ諸国は絶えずイスラム帝国の領土拡大政策の脅威に曝されることとなる。
地中海の女王と呼ばれた経済大国ヴェネツィアは、特定の宗教の信仰を強制しない信教の自由を認めた国だったので、西にはカトリックの大国・神聖ローマ帝国の軍事的脅威を抱え、東にはイスラムの強国オスマン・トルコ帝国の侵略の危険を抱える窮地に立たされる事となった。

ヴェネツィア共和国は独裁君主を持たない共和制の国家であり、繁栄の基盤は通商と貿易という経済活動にあった。
ヴェネツィア共和国の代表者であるアンドレア・グリッティの政治信条は、その繁栄と興隆を守る為にヴェネツィアの独立と平和をひたすら維持するという事であった。
そして、マルコを含む賢明な為政者の多くが、ヴェネツィアの平和的な交易と商業を通した繁栄の歴史から、戦争や侵略による領土拡大路線を取る事がヴェネツィアの衰退と滅亡を早めるだけの愚策であることを学び取っていた。
ヴェネツィアの独立と平和を維持する為には、強大な軍事力で拡大路線を取る大国と干戈を交えることを徹底的に回避し、平和的な交渉と経済的な取引を巧妙に用いて、強国に適度な利益を与えながら軍事活動を牽制し続けなければならないのであった。

ヴェネツィアの独立を脅かす専制君主たち……オリエント世界最強のイスラム帝国、オスマン・トルコのスルタン、スレイマン1世、カトリックの守護者であるハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝とスペイン国王を兼ねるカルロス5世、フランス王のフランソワ1世……彼らはかつての地方の貴族達に支えられた封建領主ではなく、貴族の地方分権の上に立つ名目上の国王でもない。
16世紀、ヨーロッパ世界の国民国家の形成期に出現した王(皇帝)は、実際に国家の全権力を一身に担って官僚機構を縦横無尽に操る専制君主である。
このヴェネツィア共和国の危難の時代に、マルコ・ダンドロとアルヴィーゼ・グリッツィが激しく華麗な政治的活躍をし、甘く哀しい恋愛物語を展開することとなるのだ。
『緋色のヴェネツィア』だけでも十分に面白く、イスラムとの均衡関係にあるヨーロッパの歴史と文化の薫香に触れることができます。




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塩野七生『三つの都の物語』の書評・2:16世紀ヴェネツィアと現代日本のデジャヴュ
オスマン・トルコがヨーロッパ世界への浸透を始め、ヴェネツィアの隆盛が頂点から衰退に向かおうとする時代の転換期を舞台にして、『緋色のヴェネツィア』というヴェネツィア貴族の宿命と試練を描いた悲劇が語られる。 生まれながらに対照的な境遇にある美しい二人の貴公子マルコ・ダンドロとアルヴィーゼ・グリッティは、陰謀と政略が渦巻く国際政治の渦中に身を投じる。ダンドロ家の嫡子であるマルコは、名門貴族のエリート路線を順当に歩んで元老院(セナート)議員となり、グリッツィ家の庶子であったアルヴィーゼはトルコに... ...続きを見る
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2005/05/29 08:28
塩野七生『三つの都の物語』の書評・3:孤高と連帯……自己の帰属する場所と価値を求める人
自由な経済活動によって自国の優雅な繁栄を導いたヴェネツィアは、カトリックのイタリア各国やヨーロッパ諸国とも交易していたし、イスラム教のトルコ帝国とも貿易をしていたが、迫り来るハプスブルク家の君主カルロス5世の猛威の前にどのような方略で自国防衛をすべきかという窮迫した状況下にあった。 ...続きを見る
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2005/05/30 00:44

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