精神分析と認知行動療法の理論的対立を乗り越えた相補的な統合的活用へ

精神分析の歴史を振り返ると、フロイトが神経生理学的な科学研究の経験を積んだ医師であり、精神疾患としての神経症を主要な治療対象とした経緯から、長らく精神分析は医学領域の技法として医師に占有されてきました。
かつて、アメリカの伝統的な精神分析研究所には、非医師の加入が認められておらず、非医師がどれだけ精神分析理論に精通して技法に熟達しても、精神分析医よりも低いレベルのレイ・アナリスト(素人分析家)と蔑称されていました。

しかし、非医師である精神分析学者にも、フロイトの信認の厚かったテオドール・ライクやフロイトの愛娘で力動的人格論の主要理論である“防衛機制”を精細に分類したアンナ・フロイトなどがいます。
社会的心理的発達理論を提示して、人間の社会環境における精神の発達と青年期の自我同一性の重要性を明らかにしたエリク・エリクソンも非医師の分析家であり、種々の社会現象や宗教を信仰する人々の精神分析的解釈を行い、伝統文化論や芸術論を精神分析的に研究したエーリッヒ・フロムも医師ではありません。
精神分析は、医学領域から臨床心理学領域へとその版図を拡大していくと同時に、思想・哲学や芸術文化、社会科学、文学などの諸分野に革新的な影響を与え続けてきました。

フロイトが医学を基盤とした精神分析の研究にこだわった背景には、過去の記事で述べたように、フロイトの自然科学主義があり、精神世界の科学的な一般法則を解明したいという熱き思いがありました。
しかし、臨床医の個人的経験の蓄積と予測に基づく部分がある医学が、反証可能性を持つ純粋な自然科学領域ではないように、精神分析も医学以上に自然科学としての経験的実証性や実験的検証性に乏しいものです。

現在、医学の領域では、医学を物理学や化学のような自然科学と同等の客観的普遍性のある学問としようとする動きがあり、それをEBM(Evidence Based Medicine:客観的実証に基づく医療)と呼んだりします。
近代以降に重視されるようになった科学的客観性とは、学問領域における信頼性の高さを示す指標であると同時に主観的な思弁や推測ではないという保証を意味するものですから、現在ではどのような分野の理論であっても科学的であることを必死に主張しようとする傾向があります。

自然科学への傾倒が激しくなり過ぎると、科学原理主義的な理性に支配された科学信仰に陥ってしまい、数値化できるデータや統計学的な根拠の存在しない文化・芸術・文学・哲学などの世界を情緒的に楽しむ精神のゆとりを失うこともあります。
世界のあらゆる事象を客観的に実証しようとするウィーン学団の論理実証主義運動が道半ばで挫折せざるを得なかったのは、この世界の事象や事物の全てを論理的真偽や統計的検証で把握し尽すことが原理的に不可能だからです。

特に、ウィトゲンシュタインが『語り得ぬ事柄については沈黙しなければならない』と述懐したように、この世界の論理形式の枠組みそのものや善い・悪いという倫理的な価値判断を科学的に実証することは出来ません。
とはいえ、科学的客観性を主張する理論や発言の真偽を確認する為の“科学哲学的な検証方法や統計情報を適切に解読する科学的視点を持つ事”の重要性が、雑多な情報が氾濫している現代社会で高まる一方であることも忘れてはならないでしょう。

現在のカウンセリングや心理療法では、過去に隆盛した精神分析や精神分析的療法は客観性や実証性に乏しい理論であるとしてやや衰退の傾向があり、エビデンス(科学的根拠)のある認知療法や認知行動療法などが中心的な位置づけを得てきています。
アーロン・ベックやティーズデイルなどの単極性の気分障害(うつ病)の研究と抑うつ感の生起メカニズムの解明によって、認知行動療法の基礎が形成されました。
認知療法や認知行動療法は、気分障害(うつ病)や各種の不安性障害などに対する有効性が統計学的に立証されている理論・技法であることや、難解な概念や複雑な理論を用いずに誰もが常識的に理解できる分かりやすい理論を採用していることもあって、多くのカウンセラーやクライアントの注目と期待を集めています。

私も、うつ病や全般性不安障害、強迫性障害、各種の嗜癖(依存症)など認知行動療法の有効性が実証的に確認されている精神障害の症状の苦痛の緩和には、認知理論を基盤においた認知療法や認知行動療法を適用して構造化された面接を行う事は妥当な対処だと考えています。
精神分析や来談者中心療法は、精神や身体の症状の不快や苦痛を緩和し除去するという目的に対する即効性がそれほど望めず、どちらかといえば長期的な治療期間や面接時間を必要とする技法で、深層心理の意識化や人格的特性の変容による成長的な改善を意図しています。

それと比較して、認知療法や認知行動療法は、外部から観察可能な問題の原因となっている行動パターンや思考パターンの変容を目標としてカウンセリングを行うので即時的な効果を期待できるメリットがあります。
また、クライアントがセルフモニタリング(自己観察)によって自己申告する『認知の歪み』や『自動思考』を直接的な話題に載せて、主観的な気分や感情を数値化した形で話し合うので、内面世界や人格特性といった深層的な心理を取り扱う技法よりも技法の即効性や症状改善の有効性の面で優れているとは言えるでしょう。

心理療法理論やカウンセリング理論の思想的淵源としての精神分析は、精神の階層的な構造論や無意識の意識化という未知の感情や思いへの気付き(洞察)といった形となって種々の心理学理論に現在でも隠然とした影響を与えています。
精神分析以外の療法家が精神分析の影響を受けている一つの証左として、行動療法家で系統的脱感作法などを考案したウォルピや抑うつスキーマ理論に無意識的な概念であるスキーマを持ち込んだ認知療法家のアーロン・ベックやデビッド・D・バーンズなども精神分析を学んでいることが挙げられます。

また、カウンセリングの面接場面で、カウンセリングの進展を妨害するようなクライアントの無意識的な心理反応や否定的態度が発現することがありますが、それらの反応に適切に対処する為に、精神分析理論の抵抗や陰性感情転移の概念が役立ったりもします。

精神分析の最大の長所は、その理論体系がパーソナリティや精神の発達過程、人間関係などを網羅する包括性と総合性を持っていることであり、即時的な対症療法として有効性や信頼性の高い行動療法や認知行動療法と相補的に利用することによってその技法的限界を乗り越えることが出来るのではないかと考えています。

つまり、無意識の意識化を行って、抑圧していた外傷的な記憶や激しい感情を洞察して言語化するだけでは十分な治療効果や改善作用が起こらない場合には、直接的に現在の問題を抱えた認知や行動のパターンを変容させようとする認知療法的なアプローチが必然的に要請されてくるという事でもあります。
内面的な構造論に基づく葛藤や発達心理学的見地からの性格の問題、無意識的な欲求の抑圧を取り扱う事に精通している精神分析理論の弱点は、現実生活への適応を積極的に促進する行動療法的なアプローチです。

実際の行動体験や有効な社会技能、現実的な認知パターンの学習・遂行を具体的な目標とする“認知行動療法”と内面心理の世界の探求と過去の記憶の追想によって自己のパーソナリティと精神発達過程の理解を深めて洞察(気付き)を重視する“精神分析療法”は、対立的なものとして排斥しあう技法ではなく、双方の利点と長所を取り入れあう相補的なものとして活用していくべきでしょう。




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