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タイトル 日 時
13代将軍徳川家定・14代将軍徳川家茂の婚姻:皇女和宮の降嫁による『公武合体』の挫折と江戸幕府の崩壊
13代将軍徳川家定・14代将軍徳川家茂の婚姻:皇女和宮の降嫁による『公武合体』の挫折と江戸幕府の崩壊 『前回の記事』の続きになるが、1787年に茂姫は徳川宗家との家格の釣り合わせのために、寧姫として近衛経煕(つねひろ)の養女となり、1789年に近衛寔子(このえただこ)として婚儀が執り行われた。11代将軍の家斉と茂姫の間には五男・敦之助(あつのすけ)が産まれるが、既に側室の子・敏次郎(12代・徳川家慶)が世嗣に決まっていたので清水徳川家の養子になった。しかし、敦之助はわずか4歳で病死した。徳川家斉は10代の頃から複数の側室を持っており、26男・27女の53人もの子を設けた徳川家の歴史の中でも特に精... ...続きを見る

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2008/12/05 08:10
徳川将軍家と薩摩藩島津家の縁戚関係の歴史:篤姫の先例となった11代将軍徳川家斉と茂姫の婚姻
徳川将軍家と薩摩藩島津家の縁戚関係の歴史:篤姫の先例となった11代将軍徳川家斉と茂姫の婚姻 宮崎あおい主演のNHK大河ドラマ『篤姫』の初めでは、島津今和泉家(島津忠剛,ただたけ)の娘であるお一(おかつ)が、一橋派として将軍後継問題に干渉しようと計画する島津本家(島津斉彬,なりあきら)の養女・篤子(篤姫)となったが、学説的には徳川家と島津家の縁組は家定の将軍就任以前から既定されていたと言われる。次いで、五摂家で最も家格の高い近衛家(近衛忠煕,ただひろ)の養女・近衛敬子(すみこ)となるが、これは摂家以上の娘と婚姻を結ぶ徳川家の慣例に合わせたものであり形式的な家格の向上である。 ...続きを見る

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2008/11/25 08:13
将軍(後継者)を確保するための徳川幕府の御三家と御三卿のシステム:徳川将軍家と公家の形式的な婚姻
将軍(後継者)を確保するための徳川幕府の御三家と御三卿のシステム:徳川将軍家と公家の形式的な婚姻 『前回の記事』の続きになるが、徳川宗家においては将軍の正室・側室・愛妾を集積させて世継ぎを確保しようとする『大奥』を整備したにも関わらず、たびたび血統断絶(後嗣断絶)の危機に晒された。しかし、徳川将軍家は宗家に継ぐ家格を持つ『御三家(ごさんけ)・御三卿(ごさんきょう)』の分家から必要に応じて養子を取ることで、徳川の血統を継ぐ将軍を立て続けることができた。 ...続きを見る

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2008/11/25 01:32
豊臣政権から江戸幕府への転換と『ご恩と奉公の原理』の変質:“豊臣家の断絶”と“徳川将軍家の継続”
豊臣政権から江戸幕府への転換と『ご恩と奉公の原理』の変質:“豊臣家の断絶”と“徳川将軍家の継続” 織田信長、豊臣秀吉という日本史の上でも傑出した専制君主の時代が終わると、豊臣政権下で最大の実力者であった徳川家康(1543-1616)が台頭して征夷大将軍に就任し江戸幕府を開府する。武力で領土を拡大する戦国武将としての実力と存在感では、徳川家康は信長や秀吉よりも個としての存在感が劣っているが、武家の棟梁としての血統(家系)を約260年にわたって存続させた戦略においては数枚上手であった。家康は天下一統を成し遂げた秀吉の政権の果実を横から攫った狡猾な印象があるので大衆的な人気は必ずしも高くないが、秀... ...続きを見る

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2008/11/15 19:37
千利休の茶の湯(茶道)の精神と豊臣秀吉の勘気に潜むもの:和風文化の原型を形作った東山文化
千利休の茶の湯(茶道)の精神と豊臣秀吉の勘気に潜むもの:和風文化の原型を形作った東山文化 日本国王としての権勢を強めた義満の時代に豪華絢爛・華美典雅を特徴とする北山文化が花開き、将軍としての指導力を殆ど発揮できなかった義政の時代に侘び寂び(わびさび)・幽玄枯淡を特徴とする東山文化が成熟したのは興味深い。豪奢な鹿苑寺(金閣寺)と風流な慈照寺(銀閣寺)の建築物の外観の対照は鮮やかであり、義政の東山文化の潮流の中で和(日本)の文化芸能の基本的性格の多くが規定されることになった。現代においても伝統芸能・日本文化の継承として認知されている『茶道(村田珠光)・華道(池坊専慶)・能楽』の基本的な形... ...続きを見る

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2008/09/05 22:55
豊臣秀吉の明征服を目指した朝鮮出兵(文禄・慶長の役):スペイン帝国の布教活動と征服事業
豊臣秀吉の明征服を目指した朝鮮出兵(文禄・慶長の役):スペイン帝国の布教活動と征服事業 羽柴の名字を持つ“羽柴秀吉”は“豊臣”という関白家の姓を手に入れて、藤原氏を凌ぐ『(天皇由来の)律令的権威』を手中にしましたが、秀吉の最終目標は名実共に日本の最高権力者となることであり、その為には日本の伝統的権威の源泉である天皇家を何らかの手段で超越する必要性がありました。権威・権力の源となる血統も官職もない農民(百姓)の子として生まれた豊臣秀吉が一廉(ひとかど)の武将(大名)となるだけでも驚異的なことですが、全国の大名を武力で服従させる奇蹟とも言える天下一統を成し遂げた秀吉は、関白太政大臣とい... ...続きを見る

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2008/08/18 22:02
本能寺の変後の羽柴秀吉の地政学的優位と朝廷工作による『豊臣姓』の授与
本能寺の変後の羽柴秀吉の地政学的優位と朝廷工作による『豊臣姓』の授与 過去の記事で『刀狩』について書きましたが、天皇家・摂関家・将軍家の血縁と無関係であるだけでなく、朝廷・幕府の官位官職とも無縁な農民(足軽)出身の豊臣秀吉(羽柴秀吉・木下藤吉郎)が天下を掌握して、人臣としての最高位である関白・太政大臣の地位に上り詰めたことは、近代以前の歴史においては類例のないことでした。羽柴秀吉が主君の織田信長から“サル”と呼ばれて重用・厚遇されたことは有名ですが、本能寺の変の後に秀吉(羽柴筑前守)が天下人になれる可能性はそれほど高いものではなく、織田家家臣団の中で秀吉の上位に位... ...続きを見る

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2008/08/08 17:53
豊臣秀吉の“刀狩(兵農分離)”と室町期の農民・国人の軍事力:武断主義と文治主義の交替史の終焉
豊臣秀吉の“刀狩(兵農分離)”と室町期の農民・国人の軍事力:武断主義と文治主義の交替史の終焉 中国王朝の交替史と日本の近世以前の政権(幕府)の交替史を眺めると、『武断主義(軍事政権)の時代』と『文治主義の時代』とが繰り返し訪れているが、近代国家が成立する以前は、武力で政権を取った勢力が官僚機構を整備して数十年〜数百年のスパンで領域を統治した。日本は公家政権(平安京の朝廷)と武家政権(源氏棟梁の幕府)という二本の柱があったが、鎌倉時代以降は公家(天皇)は権威付与の役割へと後退し、武家は政治権力の中枢へと進出したが、弓矢・刀剣を携える武芸(戦闘)を生業とする武士も天下泰平の時代には官僚化・農... ...続きを見る

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2008/07/14 08:03
8代将軍足利義政と京都の町を破壊する応仁の乱の発生:山城国一揆に象徴される民衆・土民の政治的影響力
優柔不断で指導力のない8代将軍・足利義政と将軍の後継者選びに強く容喙した日野富子(義政の正室)の判断のミスが、応仁の乱の勃発を許した大きな原因となっていますが、将軍義政が東軍(細川勝元)に味方したのに対して、後花園上皇は細川(東軍)にも山名(西軍)にも味方せず客観中立の態度を保持したまま出家しました。将軍義政の政治判断には一貫性がないところが多く、京都で応仁の乱を引き起こす好戦的な武将である畠山義就(はたけやまよしなり,1437-1491)の入京と守護補任を許しておきながら、義就と家督を争ってい... ...続きを見る

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2008/07/14 07:54
後醍醐天皇の建武の新政の瓦解と足利義満による南北朝の合一
鎌倉幕府の滅亡後には、後醍醐天皇が実際に政権を運営する『建武の新政』が始まります。しかし、朝廷の実権と天皇親政を回復しようとする建武の新政は、恩賞・訴訟の不公平や旧来の土地所有権を否定したことによる所領問題の混乱、大内裏造営のための重税、天皇や公家の浪費・遊興による財政逼迫など多くの問題を抱えた悪政に終わりました。国政の混乱を深めた建武の親政は、北条時行(北条高時の遺児)と北条泰家(時行の叔父)が起こした中先代の乱(1335)をきっかけにして終焉に向かいます。 ...続きを見る

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2008/06/22 10:28
地方武士の織田信長と百姓出身の豊臣秀吉が対峙した“血統(家格)・慣習・宗教”による伝統的権威
近世の江戸時代以前の日本社会では、政治的地位と家格的身分(血縁的身分)が比例しており、公家政権であっても武家政権であっても『天皇家・摂関家との観念的血縁』が政治権力の正統性の根拠になされてきました。無論、鎌倉幕府を創始した源頼朝の背後に北条時政・政子がおり、室町幕府を確立した足利将軍家の権威が戦国時代の戦国大名(一向宗の宗教勢力)に踏みにじられたように、日本史では『フィクサーとしての実質的権力者』にはある程度の流動性が見られます。しかし、伝統的権威性の象徴である『天皇・摂関家』、政治的権力の象徴... ...続きを見る

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2008/05/09 14:56
日本史における“権力の正統性・殺生禁忌”と後醍醐天皇による武家政権の一時的崩壊
儒教の記事で、朝廷(公家)と幕府(武家)の相補的な関係について書きましたが、日本では西欧的な立憲君主制の概念を知る以前から『政府(実効権力)の正統性』が天皇の承認によって担保されるという形式を採っていました。古代〜近世の日本で権力と権威が分離して二重権力構造が生まれたそもそもの発端は、保元の乱(1156)・平治の乱(1169)の発生によって武家勢力が急速に台頭し、皇室から賜姓された平氏・源氏が政治の実権を握れる状況が生まれたことでした。平安時代の桓武天皇以降、平安京にある公家政権は常備軍を廃止し... ...続きを見る

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2008/04/19 10:35
尚氏の琉球王国が実現した大交易時代と中国王朝の冊封体制・文治主義(官僚政治)の伝統
沖縄関連の記事で近世以降の沖縄の歴史について少し書きましたが、尚氏の琉球王朝は15世紀に万国津梁(ばんこくしんりょう=世界の架け橋)の黄金時代を迎え、東南アジアや中国大陸(明)との海外貿易によって繁栄を謳歌しました。琉球王国は尚巴志(しょうはし)が建国して尚泰久(しょうたいきゅう)において盛期を迎える第一尚氏王朝と、尚徳の血統に取って代わった金丸(尚円)以降の第二尚氏王朝とに区切られます。 ...続きを見る

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2008/04/03 06:53
大江健三郎の『沖縄ノート』の記述を巡る訴訟と近世以降の沖縄の歴史から考えたこと
ノーベル賞受賞作家・大江健三郎氏の著作『沖縄ノート』にある沖縄・座間味島、渡嘉敷島での住民集団自決の記述を巡って、元守備隊長と遺族らが慰謝料・出版差し止めなどを求める損害賠償裁判を起こしていたが大阪地裁は原告の訴えを退けた。裁判の焦点は『集団自決に日本軍の命令・関与はあったのか?』ということであるが、大阪地裁は軍の『深い関与』があったことを認め、軍(軍人)の『直接的な命令』については合理的な推測の範疇にあるというやや曖昧な見解を示した。 ...続きを見る

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2008/03/30 17:13
日本の将棋の起源とケガレ思想による将棋のマネーゲーム化:『逆説の日本史8』の雑感
将棋(しょうぎ)とオセロというのは日本で最もポピュラーなボードゲーム(盤上遊戯)であり、子ども時代に誰でも一度は友人と勝負したことがあるゲームだと思いますが、将棋は特に古来から日本にある伝統のゲームという一般認識が持たれています。日本の将棋、中国の象棋(シャンチー)、西欧のチェスを合わせて世界三大将棋といいますが、それらの起源を遡ると古代インドで発明されたチャトランガという立体駒を用いたボードゲームに辿り着きます。韓国の将棋(チャンギ)やタイのマークルックといったチャトランガ起源のゲームもありま... ...続きを見る

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2008/03/03 00:50
孔子『論語』の解説と“ルーツ(起源)の正統性”を説く朱子学(水戸学)の歴史的影響
儒教の始祖・孔子(B.C.551-479)の言行録である『論語』の書き下し文と解説を、ウェブサイトのほうで更新したので興味のある方は読んでみて下さい。『論語』は子路篇の当たりまでは孔子の実際的な言行や儒学の正統思想がテーマになっていることが多いですが、憲問篇の当たりから散文的なエピソードが多くなり前半に出てきた章の言葉との重複も幾つか出てきます。陽貨篇では『君臣の義(忠節)』よりも『徳治政治の実現』を重視して血統的に正統な君主以外の人物に仕えようとする孔子の言行も描かれており、日本の江戸時代に幕... ...続きを見る

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2008/01/27 11:37
大貴族・大寺社の『不輸不入の権』と古代日本の土地制度・税制の変遷:土地の所有権の承認を求めた武士
藤原氏が朝廷の権力を実質的に独占するようになるのは、藤原鎌足の次男・藤原不比等(659-720)の時代からですが、藤原不比等は自身の子孫のみが藤原姓を名乗って朝廷の最高位である太政大臣になれるという特権を獲得します。つまり、朝廷における実力主義や冠位の流動性を完全に廃して、藤原氏でなければ朝廷の高位の位階や官職を得ることが極めて難しい体制が作られたのです。『同等に比べられる者などいない』という“不比等”の名前が指し示すように、藤原氏は他の氏族(豪族)を全く寄せ付けないような特権階級となり継続的な... ...続きを見る

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2008/01/27 11:23
藤原光明子・聖武天皇・称徳天皇をめぐる奈良時代の歴史2:摂関政治の萌芽と律令制の変質
前回の記事の続きになりますが、天武系の天皇の系譜は女帝の称徳天皇の代で断絶することになります。称徳天皇の時代は藤原氏が関与する朝廷の権力闘争がもっとも激化した時代でもありましたが、称徳天皇(孝謙天皇)自身も父親が聖武天皇、母親が光明皇后であり藤原氏の血筋を引いていました。しかし、母親の光明皇后(藤原光明子)とは違って、称徳天皇は『藤原氏の権勢の存続維持』を至上命題にして政治を行っているわけではありませんでした。光明皇后は飽くまで『藤原氏の権力の継続』と『藤原氏がコントロールできる天皇の擁立』を考... ...続きを見る

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2007/12/26 10:30
藤原光明子・聖武天皇・称徳天皇をめぐる奈良時代の歴史1:男系天皇の皇統と女性天皇
平安時代の貴族(公家)は軍事(流血)を嫌い死刑制度を廃止しましたが、桓武天皇(在位781-806)自身は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北地方の蝦夷を服従させるなど旺盛な軍事活動を指揮した天皇であり、死刑の執行にも承認を与えています。しかし、晩年に藤原式家の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が805年の徳政相論において『天下の百姓(人民)を苦しめているのは、軍事(蝦夷征伐)と造作(平安京の建造)であり、これらをやめれば百姓は安心する』といった諫言をして、それを聞いた桓武天皇は軍事と造作を停止する... ...続きを見る

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2007/12/25 00:49
聖徳太子の『三教義疏』が説く勝鬘教の捨身思想と古代日本における怨霊信仰の影響力
過去の歴史記事の続きになりますが、武断派としての横顔も持つ聖徳太子は、新羅に525年頃に侵攻された任那(加羅,369-562)の日本府(内官家,うちつみやけ)を奪還するために、600年と602年に新羅征討の軍事活動を起こしました。562年に、残っていた任那の利権を完全に失った欽明天皇が必ず内官家を回復するように遺言して死んだように、古代日本の天皇家にとっては、任那(加羅・伽耶)はかなり重要な領地あるいは特殊なこだわりのある地域だったようです。しかし、聖徳太子の新羅征討は朝鮮半島に軍隊を送る前に中... ...続きを見る

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2007/12/05 08:52
聖徳太子と蘇我馬子による仏教保護と氏姓制度・冊封体制から離脱し始めた大和王権
古代〜近世に至る日本では神道(アニミズム)・儒教・仏教・道教などの宗教が折衷的に信仰されていましたが、仏教は近代以前の皇室から深い帰依を受けたという意味で特別な宗教でした。仏教伝来の年は、百済の聖明王から釈迦の仏像や仏教経典が献上された538年とされますが、飛鳥時代から平安時代にかけての仏教は『国家鎮護・皇室保護・貴族繁栄』を目的とする官営仏教(国教に近い宗教)として栄え、僧侶(官僧)や寺院(官寺)は公的な国家機構の一翼を担うことになりました。 ...続きを見る

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2007/11/24 16:12
世俗と宗教の“ダブルスタンダード(二重基準)”によって支えられた前近代の秩序と近代国家の政教分離原則
過去の記事では、孔孟思想と老荘思想の違いについて考えましたが、儒教とはアニミズム(精霊信仰)と祖先崇拝から派生した一つの宗教であり、基本的には『今よりも昔を尊ぶ』という保守的な伝統復古の教えです。近代日本では儒教道徳(忠孝・仁義の徳)が大きな力を持った時期もありましたが、孔子という個人が創始した思想体系に過ぎないので、逐語的に『論語』や『孟子』の文章を規範化して受け止めても得るべきところは少ないでしょう。自分の日常生活や人間関係を豊かにするために儒教的な世界観や徳目を振り返ってみる場合には、復古... ...続きを見る

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2007/10/31 13:30
親鸞の浄土真宗と悪人正機の思想2:幸福追求の自助努力へとつなぐ専修念仏
前回の続きになりますが、善人とは、学問・修行・禁欲・利他的な行動などの『意図的な功徳(くどく)』を積んで阿弥陀仏の救済の本願(慈悲)をさらに確実にしようとする者のことです。親鸞は阿弥陀仏の本願は『至上・最大の効果』をもっており、自力本願の功徳によって救済の可能性を上げる必要性などはないと教えました。阿弥陀仏が衆生救済をする無限の慈悲の力は絶対不変であるから、一度、念仏信仰を信心決定すれば必ず救われるし例外はまったくないというわけです。親鸞は、自分も含む『煩悩具足(煩悩を克服できない人)の衆生=悪... ...続きを見る

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2007/09/04 00:49
親鸞の浄土真宗と悪人正機の思想1:自力本願の功徳から他力本願の救済への転換
浄土真宗の祖である親鸞(1173-1263)は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の作成(1243)によって真宗を立教開宗したとされますが、親鸞の時代には独立した宗教教団としての体制を十分に整えておらず、親鸞自身には旧仏教を否定する新宗派を開設する意志はなかったともいいます。しかし、数十万人以上の規模に信徒数を増やした浄土真宗は、親鸞の死後に親鸞の子孫(覚如)と高弟との間で利害対立が起きて、蓮如登場以前の真宗は分裂状態(仏光寺派・三門徒派・専修寺派など)にありました。 ...続きを見る

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2007/09/03 01:03
鑑真の戒律と授戒制度を無効化した天台宗・最澄の“円戒の思想”:古代日本の怨霊信仰と宗教観
浄土系の鎌倉仏教は、旧仏教の難行苦行の修行と難しい学問による『善行の功徳』を否定することによって、『仏教の大衆化・救済の一般開放』に成功し、農民(被統治階級)への求心力が強かった浄土真宗などは親鸞の死後に急成長を遂げました。浄土真宗の『中興の祖』となった蓮如(1415-1499)の時に、山科本願寺と石山本願寺(石山御坊)が建設され、真宗の最盛期を迎えた顕如(1543-1592)の時代には、天下統一を窺う戦国大名を威圧するほどの巨大な宗教勢力へと成長しました。 ...続きを見る

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2007/08/25 01:21
“貴族守護(国家鎮護)の古代仏教”から“衆生救済の鎌倉仏教”への転換:無条件の救いを説く浄土信仰
老荘思想(道教)と儒教の原理的な考え方について書いた過去の記事で、『老荘の無為自然』と『仏教の悟り(解脱)』の類似性を指摘しました。仏教には、出家した僧侶が厳しい修行の中で悟りを目指す『上座部仏教(小乗仏教)』と在家の仏教信者である衆生(一般大衆)を仏法によって救済しようとする『大乗仏教』とがあります。日本仏教では、末法思想と政情不安定によって旧仏教(奈良・平安の仏教)が衰退した平安末期から鎌倉初期にかけて、大乗的な衆生救済の仏教が優勢となりました。 ...続きを見る

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2007/08/18 00:15
原爆発言による久間章夫防衛相の辞任と戦後の日米関係を支えた歴史との距離感:2
戦後の日本は、『軍事闘争における敗退(屈辱)』を『経済競争における優越(成長)』に転換して、精神分析的な昇華(sublimation)を実現してきたわけですが、現在の日本は経済の成熟期と少子高齢化社会に入ったことで『経済競争における優越(右肩上がりの生活水準・一億総中流社会)』という戦後アイデンティティを失いつつあります。更に、経済格差の拡大や国民のライフスタイルの個別化によって国民の経済次元の階層分化が進み、教育格差や価値観の多様化で「国民一般に共通するような関心事(価値規範)」というものも急... ...続きを見る

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2007/07/05 08:21
原爆発言による久間章夫防衛相の辞任と戦後の日米関係を支えた歴史との距離感:1
原爆発言による久間章夫防衛大臣の辞任を受けて、7月29日の参院選の争点は、『年金問題』だけではなく『原爆投下の解釈問題』も加わってきそうな感触です。原爆問題に関わらず、戦後60年を経て過去の亡霊が立ち上がってきているような不安を感じる出来事が続いていますが、原爆投下の再解釈や米国下院の対日謝罪要求決議案(慰安婦問題)などに潜む潜在的な不安は、安倍政権の『戦後レジームの転換』にもつながっていて、急進的保守派の一部の主張である『憲法改正による自主防衛路線(日米同盟に距離を置く防衛路線)』とも関係して... ...続きを見る

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2007/07/05 08:07
戦後日本の政党政治と二院制における参議院の存在意義:日本の国会議員数は多いのか?
国会会期の12日間延長によって参院選は7月22日から29日の投開票へと延長されましたが、二院制の議会政治における第二院に過ぎない参議院選挙は、自公連立政権(与党)と民主党(野党)の政権交代を問う選挙ではありません。内閣総理大臣の指名選挙では『衆議院の優越』が働きますから、衆議院で多数派を形成する政党(連立政党)が政権与党を担当する原則は揺らがないからです。自民党・公明党が参議院において安定多数(過半数)を維持すれば現状のまま安倍政権の政策路線が続行することになり、民主党を基軸とする野党が過半数を... ...続きを見る

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2007/06/27 23:29
日清戦争・日露戦争後の東アジア情勢と「併合」へと傾く日韓関係
日清戦争・日露戦争後の東アジア情勢と「併合」へと傾く日韓関係 日露戦争の勝利によって朝鮮半島における影響力を確固たるものにした日本は、1905年9月にロシアとポーツマス条約を結んだ後すぐに(11月17日)、漢城(ソウル)で大韓帝国との間に「第二次日韓条約」を締結します。特派全権大使として韓国に乗り込んだ伊藤博文が締結した第二次日韓条約によって、韓国は植民地にはされなかったものの国家主権を大幅に制限される保護国となります。独立運動に身を投じていた韓国人の中には、日本が大義名分として掲げた『韓国の自主独立のための戦争(日清戦争・日露戦争)』を信じていたものが少... ...続きを見る

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2007/06/02 00:11
朝鮮半島の保護権益を巡る日露戦争と近代日本の政党政治の衰退
過去の記事で朝鮮半島の近代化の困難と儒教的な冊封体制について書きましたが、清国や李氏朝鮮(大韓帝国)が西欧的な政治体制や経済政策を迅速に導入して日本との集団安全保障体制を確立していれば、東アジアを起点として世界史の粗筋は大きく変化していたかもしれません。19世紀後半(明治維新)から終戦に至るまでの日本の戦争の軌跡と政治体制の変化を振り返ると、第二次世界大戦(太平洋戦争)での敗戦がなければ、現在のような自由民主主義体制や価値観の多様性(プライバシー権)、経済優位の政治状況が日本に根付いていたかどう... ...続きを見る

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2007/06/01 22:55
韓国の近代化を巡る葛藤と封建的な冊封体制の束縛:大院君の壬午事変(壬午軍乱)と独立党の甲申政変
1910年の韓国併合以前にも、日本では西郷隆盛を中心とする板垣退助、江藤新平らの征韓論がありました。征韓論を唱導した西郷や板垣、江藤は、政権中枢の大久保利通や岩倉具視らとの論争に敗れて故郷に下野しますが、その後、朝鮮に強引に開国・国交を迫るための江華島事件(1874)が起こりました。征韓論を唱えて鹿児島県(旧薩摩)に下野した西郷隆盛は、日本側が策謀的な挑発行為を行った江華島事件には批判的であったといいます。 ...続きを見る

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2007/05/03 14:42
近代の朝鮮半島の歴史と日本・韓国・中国の民族アイデンティティの揺らぎ
過去の記事で、日本と中国・朝鮮(韓国)の間にある歴史認識の対立と戦後補償の問題について書きましたが、日本と中国の戦後関係の障壁となっている歴史は、多数の被害者を出した日中戦争(1937-1945)と関東軍の策謀(満州事変)による満州国建設(1932)をはじめとする清王朝の利権化です。20世紀初頭から中国も朝鮮も国家主権を侵害されて帝国列強(日本・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ)から植民地同然の扱いを受けていたのですが、中国(蒋介石の中華民国・毛沢東の人民解放軍, 八路軍)と日本とは武力衝突の... ...続きを見る

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2007/05/02 16:28
士族最後の反乱となった西南戦争と西郷隆盛の生涯:2
何故、鹿児島県(薩摩藩)に下った西郷隆盛が、至誠の尊王思想の持ち主でありながら、官軍と衝突する西南戦争(1877)を引き起こしたのかという理由には諸説ありますが、西郷自身には官軍と戦闘を交えてでも上京するという確固たる意志はなかったと言われます。西郷は可能であれば、1万3千人もの薩軍を率いて戦闘をしながら上京を目指すのではなく、陸軍大将である自分と陸軍少将の桐野、篠原など最小限の人員を連れて、薩摩を弱体化し西郷の暗殺を画策した(と私学校側が思い込んだ)政府や警視庁の真意を問責しに行きたかったので... ...続きを見る

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2007/04/22 07:32
士族最後の反乱となった西南戦争と西郷隆盛の生涯:1
西南戦争の薩軍の主戦力となった鹿児島の私学校というのは、西郷隆盛が設立した私設の教育機関であり、鹿児島県下で乱暴者(ぼっけもん)といわれる不平士族の暴走を戒めて統御し、未来の日本を背負って立つ人材を育成するという目的を持った学校でした。 ...続きを見る

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2007/04/20 00:15
西郷隆盛の独立不羈の精神と司法卿・江藤新平の佐賀の乱
西郷隆盛は、江戸城無血開城へとつなげた戊辰戦争の軍功によって、参議・陸軍大将・近衛都督を兼務する日本の最高権力者に取り立てられましたが、廟堂(朝廷)で権勢を握っていた岩倉具視(1825-1883)や三条実美(1837-1891)と折り合わない部分があり、征韓論を巡っては親友であった大久保利通(1830-1878)や木戸孝允(1833-1877)と激しく対立しました。 ...続きを見る

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2007/04/01 09:25
西郷隆盛(西郷南洲)の遺訓と薩摩隼人の質実剛健の気質
戊辰戦争と明治維新を経て日本は近代的な法制を整えた中央集権国家となりましたが、明治政府成立後も薩摩の国父島津久光と陸軍大将の西郷隆盛は旧薩摩藩において隠然たる影響力を中央政府に及ぼし続けました。日本各地の諸藩と旧士族の殆ど全てが新政府の正統性を承認する中で、西郷が下野して後の鹿児島県(旧薩摩藩)と九州諸県(熊本藩・佐賀藩)と長州藩・土佐藩は、薩長閥が政権を掌握する明治政府に対して反抗的な態度を取り続けました。 ...続きを見る

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2007/03/27 20:09

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