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日本の山の多くはアニミズム(精霊崇拝)や山岳信仰の影響を受けており、俗界を超越して高くそびえ立つ『山』は実在する神仏(権現)の象徴であり、神仏の住みなす霊域とされてきた。人を寄せ付けないほどに峻険で悪路を極める山は、俗塵に汚されない聖地であり、神仏の霊威が立ち込める特別な領域であるから、古代から日本の神官・僧侶の宗教者は世俗と遮断された深山幽谷に寺社仏閣を建設して、その地を仏教宗派・修験道の大本山としてきた。 伝教大師・最澄の比叡山延暦寺や弘法大師・空海の高野山金剛峰寺は誰もが知っている『山の聖域』の代表であるが、日本地図を広げてみてどこの都道府県でも良いので山地を眺めてみると、必ずといっていいほどその山中に何らかの仏教寺院があるのが目に付く。仏教の寺院を初めてその地に建立すること、あるいは建立した人物を『開山(かいざん)』というが、新田次郎の『槍ヶ岳開山』は一本の槍のように頂上が鋭くとがった槍ヶ岳に、日本史上で初めて登頂して開山した播隆(ばんりゅう)の信仰と葛藤を描いた奥行きの深い小説である。 新田次郎の真骨頂である登山小説としてだけではなく、仏教的評伝としてもヒューマンドラマとしても読める作品であり、最後のクライマックスでは、『播隆が長く固執していた葛藤・思い残し』の裏側にある事実が弥三郎の口から訥々と語られる。その言葉が、臨終が間際に迫り意識が消えゆこうとする播隆の耳に届いていたのか否か、それは読者の解釈に任せられる形になっている。心の底から愛した妻・おはまの死への懺悔(自責)・執着が、山を登攀する播隆の禁欲的で苛烈な信仰生活の基盤となっていて、その懺悔の思いをうっすらと察している昔馴染みの弥三郎と播隆との複雑な心理的やり取りがクライマックスを緩やかに形成していくのである。 江戸時代末期まで、天に向かって鋭く細くそびえ立つ槍ヶ岳(標高3180メートル)の山頂は人跡未踏の聖域であったが、文政11年(1828年)7月28日(新暦9月7日)に浄土宗の僧侶・播隆(1786-1840)が中田又重郎と共に初めて頂上まで登攀(とうはん)した。登山靴や防寒具、行動食、テントなどの登山道具がまともにない時代の登山は、過酷と危険を極めるものであり、播隆は地元の漁師・住民でも誰も登り詰めたことがない槍ヶ岳に決死の覚悟をもって登頂したのである。 槍ヶ岳の頂上に『阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩』の三尊像を安置して槍ヶ岳開山の悲願を成就するのだが、播隆がどんな困難や危険にも物怖じせずに槍ヶ岳登頂をやり遂げた背後には、浄土教で衆生を救済するという仏教信仰ではない、煩悩というべき『個人的な事情・後悔』があった。 越中国新川郡河内村(現富山市大山地区)で生まれた播隆(俗名は岩松)が、商人(番頭)としての生活を捨てて仏門に出家することになった契機は、『富山一揆での妻・おはまの殺害』である。19世紀初頭、食糧が枯渇する飢饉に襲われた富山の村々では、藩(役人)が餓死が増えている農民の窮地を救う政策を打たないことに村民が激昂し、米屋・質屋の米蔵を襲う『打ちこわし』が始まった。 番頭の岩松は不本意な形でその富山一揆に参加することになり、反乱する農民を鎮圧しようとする藩士を相手に暴れまわるが、自分を鉄砲で撃とうとした兵士を槍で突こうとした時に、自分と兵士の間に愛妻のおはまが割って入り、岩松は誤っておはまの胸を貫いて殺してしまう。その瞬間に、おはまが自分へと向けた強い憎悪・怒りが籠もった目線が、死ぬその時まで播隆の心を押し潰して苦しめ続けるのである。 浄土宗の念仏僧になる前の商人・岩松の願いは、ただ恋女房であるおはまと二人で仲良く静かに暮らしていくことだけだったが、槍を突こうとした勢いを止めることができず、自分の前に飛び出してきたおはまの胸を貫いてしまったことにより、岩松は深い罪悪感を背負いながらお上から追われる身となり、俗世の身分を捨てて出家する道を選ぶ。仏教について系統的な学問をしたこともなく、正式な山岳修行をしたこともなかった岩松は、子どもから石を投げつけられるような憐れな乞食坊主同然の生活をしていたが、同じ富山出身の少年の徳助(徳念)と共に修行を続けて次第に徳を積み名声を高めていく。 小説『槍ヶ岳開山』のベースには、同じ富山県の八尾出身の、岩松(播隆)と徳助(徳念)、弥三郎(やさぶろう)の“三者関係”があるのだが、播隆は軽薄な薄ら笑いを浮かべて商機ばかりをあざとく追い求める弥三郎のことを警戒しており信用していない。しかし、薬売り・先物取引の商売で成功していく弥三郎は、要所要所で播隆の前に姿を現して、播隆のために私財を惜しまずにさまざまな仏像・物資の援助や投資をしてくれたり、おはまにそっくりな女性の妹(柏巌尼)を仏弟子として紹介してくれたりする。ただの同郷の誼(よしみ)にしては、余りにも手厚い援助と好意の裏にあるのは、弥三郎が播隆に隠し続けてきた『妻おはまの死にまつわる改悛・懺悔』があるわけだが、これは物語の終盤で解き明かされる。 仏教僧として無名だった岩松が弟弟子の徳助と共に正式の仏門を潜るのは、大坂(摂津国)・宝泉寺の見仏(けんぶつ)との出会いであり、仏道修行の手抜き・省略を許さない厳格な見仏上人の教えによって、岩仏と徳念は粥・菜の塩汁だけの一日一食の戒律を守りながら修行に勤め、仏教徒としての強固な基盤を固めていく。岩松に岩仏、徳助に徳念という戒名を与えたのも見仏であり、見仏は釈迦の鹿苑寺での初説法を通して『欲望と苦行を徹底排除する中道の道』を岩仏と徳念に教えてくれた。おはまの死と愛着に関連した煩悩に悩み続けている岩仏は、正しく生きるための戒律、精神統一のための瞑想、正しい認識としての智慧の習得に専念することで、おはまの煩悩を振り切ろうとするがそれでもその煩悩は執拗に岩仏を苦しめ続ける。 ■関連URI 親鸞の浄土真宗と悪人正機の思想1:自力本願の功徳から他力本願の救済への転換 “貴族守護(国家鎮護)の古代仏教”から“衆生救済の鎌倉仏教”への転換:無条件の救いを説く浄土信仰 五木寛之『21世紀仏教への旅 中国編』の書評:頓悟禅の六祖・慧能と曹洞宗の道元が伝えた禅宗の教え ■書籍紹介 |
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新田次郎『槍ヶ岳開山』の書評2:“悟り(煩悩消尽・自他救済)”につながる登山と瞑想の相関
ストイックに自分と弟子を戒律と専修念仏で律し続ける見仏上人は、文政・天保の世の中を『末法の苦悩に満ちた時代』と看破しているが、この時代に衆生を地獄の苦しみに突き落としていた大飢饉と幕府・藩の苛斂誅求に対しては為す術を持っていなかった。本書の後半では、『天保の大飢饉(1833年〜1837年)』が発生して重罪・飢餓で苦しむ百姓たちが、仏教信仰や念仏の称名(功徳)に限界を感じて絶望したり仏法に反対したりするのだが、岩仏(播隆)は徹底的に追い詰められて二進も三進もいかなくなった衆生と自分を救済する... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2011/08/02 02:31 |
新田次郎『孤高の人 上・下』の書評1:驚異的な脚力と精神力で登山に臨む“単独行の加藤文太郎”
登山小説(山岳小説)を多く書いている新田次郎の作品では、『槍ヶ岳開山』の書評を書いたが、『孤高の人』もまた加藤文太郎(かとうぶんたろう,1905-1936)という実在の登山家をモデルにして書かれた小説である。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2012/03/04 01:34 |
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