|
法治主義や人権思想、教育活動が普及した現代の先進国では、他者と『物理的な暴力(実力)』で優劣を競い合って戦う場面はほとんど無くなっているが、十分な社会化・道徳化が行われていない幼児期から思春期に掛けては、感情・プライドの対立から殴り合いの喧嘩が起こったり、少年グループの間で自分たちのほうが強いという暴力(腕力)をほのめかす示威的行為が行われたりすることがある。 個人の暴力を否定する『社会化・道徳化』というのは、相手の立場に立って物事を想像して考えることができるという共感性・協調性と関係する精神発達(学習成果)であり、精神分析的には弱肉強食の力の論理(強者が腕力で弱者を服従させる)を否定する『エス(本能的欲求)の去勢』によって、文明社会(法治社会)に適応的な倫理観が形成されてくることになる。 大人社会でも、反社会的勢力の犯罪や緊急避難的な正当防衛、学校や家庭における体罰として暴力は残っているし、国家の保有する警察・軍隊も国民や主権を守るために武力(暴力)を発動することがあるが、『漫画・映画・アニメ・小説』などのエンターテイメントの娯楽作品では“勧善懲悪的な暴力・戦争”が肯定的に描かれ、観客にカタルシスの快感を与えることさえある。 現代社会でも、テロリスト(侵略的な独裁国家)に対する『正義(自衛)のための戦争』や社会防衛を目的とする『刑罰(排除)としての死刑』、教育的な意図を持つ『効果的指導のための体罰』などに賛成する人は少なからずいるが、個人的な暴力・反撃であっても『目には目を、歯には歯を』のハムラビ法典的なロジックで、加害者の悪人に対する制裁手段として同情的に共感されることもある。 “暴力・武力”は人権の全否定や倫理的に深刻な問題を引き起こすものであるが、利害対立の決定的な問題解決や他者に何かを強制する手段として用いられるケースは残っており、理不尽な危害や侮辱を他人に加えた加害者に対しては、遺族や大衆によって『暴力的な制裁(身体的な苦痛や生命の喪失を伴う厳罰・私刑)』が感情的に求められることも多い。 傷つけられた自分や家族、仲間が味わった苦痛や恐怖と同じだけの苦痛を加害者にも味わわせてやりたいという『同害復讐的な本能』は、暴力を原則否定する倫理規範を持つ現代人であっても無縁の欲望とは言えない。 一般的には、身体に危害を加えられたり生命を奪われたりする暴力は、人間にとって最大の恐怖の対象であり、人権思想を承認する近代社会では『個人・民間組織の暴力』と『国家権力の身体的な拷問や刑罰』は厳しく規制されている。 だが、前近代的な社会では、民衆に対する見世物(見せしめ)として公開処刑・磔獄門が行われていたり、個人の復讐(敵討ち)や決闘などが条件つきで公認されており、『人権の保護・推定無罪・暴力の禁止』よりも『公権力の威圧・人間の本能的感情・推定有罪』のほうに重点が置かれていた。 人間の敵対者との戦闘行為を心理学的に見ると、敵から攻撃される危機を感じた時には『闘争−逃走反応(fight or flight reaction)』を反射的に示すことになるが、人が他者との物理的な戦闘状況において選択する行動は、闘争と逃走も含めて以下の4つにまとめられる。 1.相手と戦う……相手と身体的な戦いをして、勝つ見込みが高そうな場合には戦う。 2.相手から逃げる・どこかに隠れる……相手と身体的な戦いをしても勝てそうにない時には、その場から逃走するか身を隠してやり過ごす。 3.誰かに助けを求める……自分ひとりでは勝てそうにない場合や周囲に助けてくれそうな他者・警察などがいる時には、誰かに救助・援護を求める。 4.負けを認めて相手をなだめる……服従と無抵抗の意志を示すことで、攻撃しようとする相手をなだめて闘争を終結させる。その後に、相手の支配や命令を受けたり、不利益な待遇をされたりするリスクもあるが、服従ディスプレイは身分制社会・封建社会の慣習や儀礼としても残存した。 『闘争−逃走反応』というのは原始的な自己防衛機制であり、話し合いの余地もなくやるかやられるかの緊急事態において有効となるものだが、言語的コミュニケーションや服従ディスプレイが可能な相手に対しては『4の服従行動』が選択されて、それ以上の過剰な攻撃が為されないことも多い。 人間は自分が相手と同等か優位であることを示すために『威嚇ディスプレイ』をすることがあるが、自分が相手よりも劣位(格下)・弱者であることを示したり、上位者(権力者)に対する従属性や忠誠心を表現するために『服従ディスプレイ』をすることもある。 『威嚇ディスプレイ』というのは、相手から目線を逸らさない(にらみつける)、肩で風を切って歩く、胸を張って堂々とした振る舞いをする、緊張感を持った対応をするということであり、『服従ディスプレイ』というのは、相手に対抗心や敵意がないことを示し、肩を丸めたりすくんだりして自分を小さく見せて、慈悲・恩恵を願わざるを得ない自己の弱さをアピールするということである。 服従ディスプレイの特徴は、身体を縮めて丸くすること、相手よりも姿勢・目線(頭)を低くすることなどにあるが、専制的・封建的な身分制度が廃止された近代社会では、こういったあからさまな服従ディスプレイのジェスチャーや慣習は殆ど残っておらず、他者の救助が期待できないプライベート状況での暴力犯罪やリンチ、いじめなどに遭遇したケースなどに限られるだろう。 日本では謙譲の美徳やお辞儀をする挨拶の習慣があるので、『他者に軽く頭を下げる行為』は自己と他者の優劣関係と何ら相関しないが、専制主義・封建主義の時代のヨーロッパでは頭を下げて姿勢を低くする行為全般が服従ディスプレイとして解釈された名残があり、今でも欧米の人たちは日常的にお辞儀をすることはない。日本以外の国々が『頭を下げる公的な謝罪』についてかなり慎重である理由のひとつも、頭を下げて謝るという行為が『相手よりも自国のほうが劣位・格下であること』を示す服従ディスプレイをイメージさせることと関係しているかもしれない。 また現代では、国家元首や首脳が参加する『公式のレセプション』などで深々とお辞儀(礼)をしたりひざまずくことがあっても、それは過去にあった実質的な服従や人格的な忠誠(自己の劣位・弱さ)を示すものではなく、長年の間に慣例化・形式化された『儀礼の型・格式の表現』をなぞっているに過ぎないとも言える。 ■関連URI 人類の縄張り意識と所属集団の規模の変化2:家・家族の防衛と公共空間の一時的な私有 『緊張する対人状況・不慣れな環境』の不安から自分を守る“パーソナル・スペース”と“身体交差” マックス・ヴェーバーの『支配の社会学』と政治権力の正統性の根拠:伝統・法・大衆の生み出す力 パラノイア(妄想症)の特徴とジャック・ラカンの『エメの症例』に見る自罰パラノイア・理想自我の投影 社会的な集団状況における『同調圧力(集団圧力)・役割行動規範』と『個人の判断基準』との葛藤 ■書籍紹介 共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること 紀伊國屋書店 フランス・ドゥ・ヴァール ユーザレビュー: 共感する経済のあり方 ... 人間も動物の一種著者 ... 著者が観察している「 ...Amazonアソシエイト by ![]() |
| << 前記事(2010/10/31) | ブログのトップへ | 後記事(2010/11/07) >> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
デズモンド・モリスが説く現代の社会的序列と地位ディスプレイ:継承者・実力者・文化人の分類
文明社会を構築する政治権力(法権力)も倫理規範も存在しなかった原始的社会では、明示的な腕力(暴力)とその示威的アピールによって『社会的優劣・集団内の序列』が規定されていたと推測される。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2010/11/13 20:57 |
| << 前記事(2010/10/31) | ブログのトップへ | 後記事(2010/11/07) >> |