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zoom RSS 村上龍『半島を出よ 上下』の書評

<<   作成日時 : 2009/05/20 06:35   >>

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村上龍の大部の長編小説だが、北朝鮮の特殊部隊である『高麗遠征軍(こうらいえんせいぐん)』が近未来(2011年)の日本に解決困難なテロリズムを仕掛けてくるという政治サスペンスである。北朝鮮のミサイル実験や核開発問題などを考慮するとタイムリーな物語設定であるが、北朝鮮の兵士ひとりひとりの人物像と心の揺れの詳細な描写により、単純な勧善懲悪の筋書きにはなっていない。必ずしも極東の軍事情勢のみを主題に置いているわけではなく、村上龍の『人物描写を掘り下げる労力』は日本人の登場人物よりも北朝鮮軍人の登場人物に多く費やされている。

現代の日本人と北朝鮮軍人とのパーソナリティの対比が一つの読みどころであり、小さな日本製のパンティを手に取った北朝鮮の女性軍人の心理や淫猥なヌード写真に溢れた日本の雑誌に接した男性軍人の心の揺れなどはなかなか面白く描かれている。一般的に、北朝鮮では性的な道徳規律は極めて厳格であり、日本のインターネットやAV産業のような女性の裸体や性行為を気軽に見ることができるメディアは特権階級を除いて皆無であるが、日本の福岡に上陸しシーホークを占拠した高麗遠征軍の屈強かつ峻厳な長官チェ・ヒョイルが感じた恐怖は『日本の軍事力』ではなく『日本の享楽的文化』であった。

福岡に上陸した高麗遠征軍の兵士は、鉄の規律と不屈の忠誠を持つように徹底的に訓練・馴致されているが、上陸して1週間も経たない内に多くのカルチャーショックに晒され、軍を統制するための規律性の長期維持に対する不安が上層部に根ざすのである。攻撃してくる敵の影さえ見えない外地で、軍の統制を守るためには本能的な恐怖による服従を叩き込まなければならないと考え、軍規を乱した軍人に対して公開処刑の判決が下されたりもする。

北朝鮮にはない日本の文化的な猥雑さや享楽性、経済的な豊かさとモノの氾濫、これらに対する免疫は北朝鮮の若い軍人には全く無いのだが、卓越した美貌と知性を持つチョ・スリョン中尉は『軍の広報』を務めながら、日本のテレビ局の女性アナウンサーにほのかな恋心を覚えたりもする。猥雑で誘惑的な情報に接したり、純粋な恋愛感情を覚えたり、私有できる衣服や時計を与えられたり、そういった北朝鮮では想定できない『心が躍る体験』をする度に、鉄の規律と恐怖に基づく国家(金正日)への忠誠に何の意味があるのかという疑念が、繊細な感性が残っているようなタイプの青年軍人に兆すような場面がさらりと描かれる。北朝鮮では密告・規律違反・再教育のリスクを逃れるために、自然な感受性を持つ心を閉ざして『鉄壁の防御』を強いていた美貌の軍人チョ・スリョンは、日本に来て初めて本質的な『退廃の味』を知ったのだった。

軍の統制というのは『平和・享楽・猥雑』との相性が極めて悪いというのは一般的な人間心理を考えても当然のことであるが、射撃・撃術・格闘・諜報・苦痛耐性のプロフェッショナルを揃えた高麗遠征軍は気合と緊張を漲らせて九州の福岡市の一部を占拠したものの、そこで戦闘を展開するような敵軍の影は見えなかったのである。日本政府は報復攻撃の決断をすることができず、福岡からテロ・占領地域が拡大しないようにするために、実質的に福岡を含む九州全域を封鎖して本土から切り離してしまう。テロの最終目的は、日本国から九州地方を切り離して独立国として国際的に承認させることにあり、その為に日本国民を直接的に傷つけたり奪ったりする蛮行は厳しく禁止されていた。

このテロリズムは本国において周到に計画されたもので、福岡を占拠した高麗遠征軍は『北朝鮮の金体制に対する反乱軍』を自称しており、遠征軍を率いるハン・スンジン中佐は金正日体制の指揮命令の系統下にはないと公言しているため、日本政府及び国際連合などは北朝鮮本国に制裁のオプションが取れなかった。何より数十人〜数百人単位の国民犠牲を払って、テロ発生の初期段階で鎮圧する決断をすることは、日本の世論や政治方針を考えても現実的に不可能だった。

政府が手をこまねている間に、初めに上陸して福岡ドームを襲った数人の部隊が500人にまで増強され、その後に約12万人の占領軍の本体が上陸するという宣告が出される。福岡県民の人命が人質に取られている状況にあるので、海上自衛隊は約12万人の後続部隊を撃退する選択はできず、政府は九州を封鎖して本土を守るというとかげの尻尾切りのような判断をしてしまうことになる。国民に一人も犠牲者を出してはならないという前提を守る限り、既に上陸して重武装している特殊部隊だけを殲滅する方法はあるはずがないからである。

また、福岡ドームを急襲してシーホークに司令本部を置いた高麗遠征軍は、日本の一般国民の生命・財産は保護しており、福岡県警と連携して“犯罪・脱税・詐欺・暴力団”などで不正蓄財している『重犯罪人』を強制的に逮捕して残酷な拷問に掛け、その財産のすべてを没収するという庶民の人気取りを始めるのである。この時代の日本は既に国家財政が半ば破綻しており、ハイパーインフレの発生で預金封鎖などが行われ、極端な経済格差の拡大によって失業者・ホームレスなどが特定の指定領域(公園など)に押し込められて、コワモテのNPOに管理されているという設定になっている。

不正蓄財による富裕層に対する庶民層・貧困層のルサンチマンは高まっており、高麗遠征軍が『軍維持の資金獲得』と『世論の歓心・憂さ晴らし』を兼ねて暴力的に断行した重犯罪人逮捕・財産没収はそれなりの人気取りになったのである。外国の武装勢力であるため、重犯罪人が頼みの綱とする政治家とのパイプや警察との癒着、有力者の便宜、有能な弁護士による弁護などの一切が通用せず、高麗遠征軍は罪状を冷酷に読み上げてそのまま強制連行するという方法を採る。

全財産の没収を目的とするため、賄賂などによって便宜を図ってもらうことも不可能な状況となる。高麗遠征軍は『重犯罪の処分』に公正・平等を期すため、北朝鮮本国の高級官僚とパイプがあるパチンコ業者や総連関係者にも特別な配慮を与えず、地下の勾留室に連行してすべての財産を明らかにして没収に応じるまで冷徹な拷問を加えた。

高麗遠征軍の持つ『表面的な礼儀正しさ・温厚さ』と『裏面の容赦ない冷酷さ・人権感覚の欠如』によって、占領下に置かれている福岡の人々には、特別な悪事(重犯罪に類される犯罪)を働いていなければ大丈夫なのではないかという『安心』と、軍の方針の転換如何によっては即座に処刑されるかもしれないという『恐怖』のアンビバレンツな感情が芽生える。しかし、約12万人もの兵士を抱えた後続の本隊が上陸した時に、一体どんな統治体制・社会経済システムが敷かれることになるのかは想像する他なく、九州在住の国民は暗鬱で悲観的な気分に襲われていたが、それと同時に九州地方を見捨てた『政府への不信感』や『中央(東京)に対する劣等感』のようなものも静かな高まりを見せていた。

本書の大まかな粗筋はこういったところであるが、村上龍の著作の中では『希望の国のエクソダス』に似たストーリーの疾走感とスリリングな展開がある。『半島を出よ 上巻』の伏線の豊かさと状況変化への期待感を考えると、『半島を出よ 下巻』のクライマックスはやや勢いを落とした観もあるのだが、後続して福岡に上陸してくる12万人の部隊の運命にどのような形で結末をつけるのかは意外に難しい判断だったかもしれない。この小説は上下巻でかなりの分量があるのだが、12万人の後続部隊の福岡上陸を許す設定にしていたら、恐らく上下巻の二巻では収まらずに、3分冊以上の長編のシリーズものにするしかなかっただろう。

物語の世界観と人物描写に一定レベル以上の深みがあるので、ひとりひとりの人物の人生や思想、活躍の幅を広げて書いていけば、『半島を出よ』はまた違った進化を遂げていた可能性はあると思う。しかし、このクライマックスはクライマックスで一応、物語としては綺麗に閉じており、途中でやや冗長な政治情勢・兵器の解説・日本社会の動静があることも考えると、一般的な読者が最後まで読み進められる『ページ数の適量』にギリギリの範囲で収まっていると言えるのではないだろうか。

日本政府(自衛隊)も米軍も国連安保理もまともに機能しない中で、どうやって高麗遠征軍を鎮圧したのかという疑問は、実際に本書を読んで確認してみて欲しいが、『イシハラグループ』という幼稚なカルト団体めいた輪郭を持つ『社会のアウトサイダー(過去に衝撃的なトラウマ・犯罪履歴を抱えた少年の集団)』が別種のテロを講じる形で高麗遠征軍に一泡吹かせることになる。

千差万別な『負の要因(家庭崩壊・トラウマ・破壊衝動・反社会性人格)』を抱えた少年がイシハラグループに参加しているのだが、『半島を出よ 上下』では現代の日本社会が抱える政治的な脆弱性や漠たる将来不安、経済問題の“フィクショナルな予想図”が描かれているので、奇矯なイシハラグループの存在が違和感なく物語にはまり込む下地は整っている。『希望の国のエクソダス』と『半島を出よ』で、既存社会から排除された少年(アウトサイダー)にヒロイズムの幻影を投射した村上龍の意図を忖度してみるのも面白い。






■関連URI
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■書籍紹介

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)
幻冬舎
村上 龍

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