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zoom RSS “名古屋・闇サイト事件”の判決から考えたこと:償いようがない罪の重さと罪の意識の欠如の間にある落差

<<   作成日時 : 2009/03/22 03:17   >>

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『闇サイト殺人事件』の被告3人に対して、名古屋地裁は自首した1人(川岸健治)を無期懲役、2人(神田司,堀慶末)を死刑という判決を下した。被害者となった女性は1人であり、永山基準の確立(被害者1人の事件には原則として死刑を適用しない)以降の判例に鑑みれば、死刑判決は重いと言えるだろう。裁判員制度を控えて厳罰化を求める世論が大きくなる中で、利己的かつ情状酌量の余地を見出させない本件のような重大犯罪に死刑を言い渡した意義は大きい。1人が無期懲役になったことを甘いとする批判もあるが、『自首による減刑』が有効ではないということになると、自首する動機づけを低めて後続する事件の解決を遅らせる可能性が出てくる。

自首による刑の軽減の可能性があると示すことは、手がかりの乏しい事件の『迷宮入り・時効切れ』を防止しやすくするという意味で、量刑判断としての妥当性はあるように思う。この自首した川岸被告が闇サイトで犯罪の仲間を集う呼びかけを行ったことや逮捕後に無反省なふてぶてしい態度を取り、開き直った発言をしていることに対して国民世論の反発は確かに強い。

しかし、『加害者の無反省・挑発的態度』をどのように解釈するのかというのは一筋縄ではいかない問題であり、『凶悪犯罪』と『自暴自棄な社会憎悪(投げやりな社会不適応)』との結びつきそのものを象徴的に示す典型的反応でもあるので、人命が奪われる悲惨な事件の続発を抑止するためには『無反省さ・共感性の欠如の背後にある自己否定・他者憎悪(社会憎悪)の分析』を冷静に行う必要もある。他者の人権を障害・毀損する加害者は『自己中心的で共感性や想像力が欠けている』というパーソナリティ評価を行われることが多いが、他人の生命や身体を直接的に傷つける犯罪の加害者は本質的には『自分の人生を大切にする・自分を適切に愛する』という社会適応(対人関係維持)の基本にある心理機能が欠損したパーソナリティを持っていると言える。

『自分の人生を大切にする=自分の人格や生き方に尊厳を持つ』という健全な自己愛の発達は『自分が大切にされる=他者からの承認を受ける』という原初的な対象関係の基盤を持っていないと達成することが困難であり、『人を殺すという行動選択』は自分と他者との双方向的な関係性からの完全な疎外という前提抜きには通常有り得ない。その意味では、誰もが利己的な殺人者になる可能性があるという通俗的なテーゼは正しいとは言えず、『自己愛と対象愛の双方向的なつながり』を経験的あるいは観念的にしっかりと実感したものは、衝動的な怒りや偶発的な事故、異性への執着などを除いては他者を意図的に殺害することはまずできないと想定することが妥当である。故に、平時の社会における殺人発生率は一般に相当低く(日本では1万人に数人も意図的・計画的な殺人の加害者にはならない)、『刑罰の重さ』と『殺人行動の選択可能性・人権否定の価値判断』に有意な相関は無いと思う。

無差別に人を殺したという『結果の重大性・責任性』を内省することができない表層の現象から、『加害者の更正可能性』がゼロであると判断することは容易であるし、そもそも加害者は反省も更正もする必要がなくただ処刑すれば良いという因果応報的な判断に賛同する人も少なくないだろう。このブログで、重大犯罪の被告の責任能力や精神発達プロセスのテーマについては何度か記事を書いたことがあるが、『死刑制度の意義』とは別に『加害者の反省・更正の本質』についても補足的に考えてみたいと思う。

私は死刑制度にはどちらかというと懐疑的であり、過去の記事でも何回か『死刑存置論・死刑廃止論』に関連するような考察を記してきたが、被害者に何の落ち度も責任もない無差別的な殺傷事件に対する憤慨や憎悪の感情には十分に共感できる。その意味では、『死刑の刑罰・執行』には否定的な考えを持っていても、『死刑に相当する罪の概念の存在』には親和的というアンビバレンツな葛藤を抱えている。また、加害者の反省や更正の可能性がそのまま、被害者遺族の希望・救済に結びつくというような理想主義的な考えを持っているわけではない。

どのような更正プログラムや共感性回復の心理教育、関係性を用いても、死ぬまで反省や更正、自己の行動の責任を心から深く理解できない加害者も少なからずいるだろうし、究極的には『人間の内面』を表層の演技と深層の本音を区別して厳密に分析する方法などは存在しない。あるいは、人間の表層的心理と深層的心理は混合しているのが常態であり、犯罪を犯していない通常の社会人であっても『本当の疑いなき反省・謝罪』などというものが確証可能な形で実践できるという保証はどこにもないのである。

そのため、被害者に関連する家族・関係者が、加害者に対して反省(更正)など望まず強烈な復讐感情(応報感情)を抱くことは当然のことであり、死刑制度への賛否に関わらずその感情そのものを否定することはできないだろう。しかし、事件の性質や被告の年齢、更正レベルにも拠るが、被害者遺族の加害者に対する『怨恨・復讐の感情』も絶対に未来永劫、緩和不可能なものと断言できるわけではなく、死刑囚の人格変容や直接的な対面(手紙のやり取り)によって極刑までは望まなくなったという事例も無いわけではない。

『極刑を望むこと』と『極刑を望まないこと』のどちらが正しいとかどちらが人道的であるかという価値判断は無意味なことであるが、加害者を短期で死刑に処さないことによって少なくとも『加害者と被害者遺族が自分の心と向き合う時間』が延長されるという効果はある。事件が発生した後に、被害者遺族が加害者への強烈な憎悪と復讐感情を抱くことは自然なことであるが、事件の記憶が生々しい時には『死刑を望む世論』のバックアップも凄まじい勢いになるため、自分の怒り・憎悪と周囲の制裁感情が共鳴して『死刑の選択肢』に実際以上の救済可能性や道義的な重みを感じてしまうこともあるだろう。

『死刑』が事件に対する自分なりの決着や納得に何らかの形で寄与するというのであれば、『死刑制度』の社会的・法律的な意味づけを別にすれば、被害者遺族にとっては意味のある刑罰ということにはなる。その一方で、『事件当時のままの無反省な加害者』がそのままいなくなる(形式的に処刑される)と言うことが、遺族にとって長期的にどういった意味づけを持ってくるのかというのはかなり微妙で難しい問題だと思う。

最近のニュースでは、神戸市須磨区で児童連続殺傷の酒鬼薔薇聖斗事件を起こした元少年が、自らが殺害した女子児童の両親に宛てて手紙を書き、それを読んだ母親が『これまでの手紙は無機質な印象があったが、今回は感情が入っているように感じた,償いとはどういうことか考えてほしいと思った』とコメントしている。無論、許されない罪を犯した元少年への怒りや憎悪、事件の悲痛な苦しみが無くなったわけではないと思うが、少なくとも社会復帰に取り組んでいる元少年を同じような方法で殺害したいという原理的な復讐感情は弱まっているようにも感じられる。被害に遭った女子児童の両親が、元少年の逮捕時に復讐感情をどれくらい明確に主張していたのかは分からないし、初めから少年の極刑までは強く望んでいなかった可能性もあるが。

遺族がマスメディア向けに抑えた論調でコメントしているだけかもしれないし、その本心はコメントから推し量れるものではないかもしれない。一方で、事件発生から年月が経過して医療少年院から退院した元少年に、『過去の少年』とは異なる何らかの心理的・行動的側面の変化が起こり、『少年からの手紙』を何度も目にする遺族の側にも何らかの肯定的な気づきが得られた可能性も否定できない。このケースは、加害者の年齢や精神(人格)の病理性の問題などもあるので、精神医学的に正常な精神状態にある成人が加害者になる事件と同列視することはできないが、仮にこの少年が事件後すぐに処刑されていて、その後一切の手紙も言葉も遺族が見聞きできないとしたら、余計に娘が失われた苦しみや加害者に何の言葉もぶつけられない虚しさが強まったのではないかという思いもある。

加害者が完全にこの世から抹消されたほうが良いのか、加害者に自らの言葉や感情をぶつけられる可能性を担保したほうが良いのか、どちらが遺族にとって望ましいのかは極めて微妙で各人の価値観や加害者の更正レベルによっても変わってくるので『単一の正しい答え』があるとは思わない。一つ言えるのは、闇サイト事件の加害者のように自分の犯行に対して開き直り、被害者のことなんて知ったことじゃないと無反省な態度を取ったままの加害者を形式的に処刑することは、被害者遺族にとって『人間の心を持たないモノ』を処分することと本質的な差異がないのではないかということである。

加害者の人権云々を持ち出す以前の問題として、『被害者の苦痛・被害者遺族の非難』を永遠に加害者には届けることが出来ないという現実を無視することはできず、『被害者側の苦痛や怒り』が伝わらないことを『物理的な死刑の恐怖』によって代替することなどが本当にできるのかという疑問もある。遺族が自分にとってどれだけ大切な人の生命を奪われたのかという悲痛な思いを、その悲痛さや無念さの断片さえも加害者に思い知らせることができずに処刑されることの意義がどこにあるのかという疑問でもある。

何の罪もない人の生命を奪うという『冷酷非道な犯罪』を平然と犯しておきながら、その行為の重大な意味を考えることもできず人間的な心情に基づく反省もできない、反省に必要な他者の恐怖や苦痛を想像することさえできない、そういった非人間的な加害者に死刑を科すということは『罪悪感・謝罪の念を抱かずに死ぬ許可(自分の殺人の重罪と向き合わずに、勝手な屁理屈で自己正当化して死ぬ選択肢)』を法的に認可するだけの結果に終わる可能性もある。

死刑判決を下せば確かに、まだ死にたくない、死ぬのが怖くてたまらないという加害者に『死の恐怖』を植えつけることはできるかもしれないが、それは被害者とは無関係な『自己愛・生存欲求の範疇』の問題であり、加害者が『自分の犯罪の倫理的な意味(甚大かつ回復不能な人権侵害)・被害者及び遺族に与えた苦痛の大きさ』を知る道は永遠に閉ざされる。

無反省な死刑囚が『自分の罪の深さ』と向き合わずに『自分の生命の大切さ(自己愛の深さ)』とばかり向き合って死んでいっても、『死ぬべき罪』を犯した人がその罪の内容も意味もまるで分からずに、ただ社会や被害者に責任転嫁して的外れ(ご都合主義)な恨み言や命乞いを残して死んだという結果しか残らない恐れがある。その典型的な事例として、大阪教育大付属小学校で無差別殺傷事件を起こした元死刑囚の宅間守がいるし、最近の事件では、土浦連続殺傷事件を起こした金川真大被告も『死刑になりたい願望』や『死刑にならずに出所すれば、もう一度同様の犯罪を犯す意志』を身勝手に語って反省の素振りの欠片も見せていない。

死刑前に『自分の生命の大切さ(殺される怖さ)』が分かったのだから『他者の生命の大切さ』も分かったはずという推論も成り立たないわけではないが、そういった無反省な開き直った加害者というのは死刑になる前から往々にして『自分の生命の大切さ』についてだけは分かっていることも多い。更には、自暴自棄な『自殺願望(死刑願望・社会憎悪)』を持っているような加害者に対しては、『死の恐怖』さえ与えられているかどうか定かではないという問題もある。

人権の問題と被害者救済の多様性を抜きにして考えれば、『死刑の合理性』として更正不可能と見なす他ない凶悪犯罪者の再犯を完全に抑止できるという『社会防衛』を挙げることができる。だが上記してきたように、一般に信じられている遺族の応報感情の代理的充足という『死刑の効果』については、必ずしも合理的・感情的に望ましい結果をもたらすとは確信できない部分もある。もっとも原理的な懸念としては、社会と凶悪犯罪者の間に改善不能な『敵対スキーマ(やるかやられるかのスキーマ)』を前提すると、『死刑・自爆テロを覚悟するような加害者』に対して、自分が死刑になる覚悟があれば何でもやって良い、自分さえ死ねば殺人の罪が償えるという間違ったメッセージを送る可能性がある。

殺人という『原状回復不能な罪』は、加害者が死刑になろうと自殺しようと償えるものではないという普遍的な真実を伝えることは、大多数の人にとっては難しくないが、一部の人(他者の人権を認めない人)にとっては極めて困難である。しかし、利己的で残酷な『殺人』に対して確実に『死刑』を当てはめて、加害者の反省(自己洞察)も謝罪(罪悪感の意識化)も一切求めないということになれば、『他者の生命の価値・社会的な関係性の重要性』を承認(実感)するという最も大切な要素がすっぽり抜け落ちるのではないかという不安もある。

自分が刑罰で殺されたくないから他者を殺さないという原始的な倫理観の萌芽というのも軽視できないが、本来的には『他者の苦痛・恐怖への共感性(想像力)』や『社会的なつながりや人生の生き甲斐の実感』をベースにして他者を殺してはならない(殺すという選択肢を放棄する)という心情を持たなければ犯罪を抑制することは難しい。

闇サイト事件の被害に遭われた磯谷理恵さんの恐怖や苦痛、絶望というのは想像するに余りあるし、二人で支えあって生きてきた彼女とお母さんとのエピソードを聞くことによって、自分自身も加害者への怒りや憎悪が更に激しく喚起される部分が確かにある。現実に、国家(司法)が被告の生命を奪う死刑を執行することには同意できない部分もあるが、被告三人が『死刑に相当するような大罪(償う方法が原理的にない罪)』を犯したことは間違いのない事実だと思う。

死刑廃止論の視点からも『死刑相当の加害者の処遇』をどうすべきかというのは極めて難しい問題であるし、加害者の人権保護のみを理由にする死刑廃止論では本末転倒である。そのため、死刑相当の罪を犯した加害者を、出所可能な有期懲役にして社会復帰を優先的に重視すべきという考え方には必ずしも同調的なわけではないが、死刑・終身刑と無期懲役の間にある溝をどのような判断基準で埋めるべきなのかは刑事司法制度に歴史的に突きつけられた重い課題でもある。加害者の処罰や被害者の救済(ケア)の本質を突き詰めて行くと、『死刑に否定的であること』と『加害者に温情的(支持的)であること』とは必ずしもイコールで結ばれないのではないかということを考えることがある。

人の生命が奪われる重大事件に対する司法判断では『普遍的な殺人の禁忌』という倫理規範・人権だけではなく、『被害者遺族の心理的ケア+可能な限りの損害賠償+加害者の生涯を通した罪の償い』を重視し、社会秩序(未然の犯罪抑止)と被害者支援にとって意義のある判決・処遇について当事者及び国民が考え続ける必要性を改めて実感させられる。






■関連URI
死刑存置論と死刑廃止論が仮定する人間観と自由意志の強度:自律的な倫理主体としての人間と環境

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“心脳一元論における責任能力の曖昧化”と“刑法39条の責任阻却事由の原理的考察”

三権分立を前提とする近代法の原則:心神喪失者等医療観察法の理念と処遇について

■書籍紹介

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
朝日出版社
森達也

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