|
『前回の記事』の続きになるが、仏教思想では『煩悩(欲望)』によって人間の心が曇り汚れるという人間観が前提にあり、俗世間は人々の無数の不浄な煩悩に覆われた『穢土(えど)』と仮定される。穢土(俗世)から離れて煩悩を断ち切った禁欲生活(修行・学問・布施の物乞い)を静かに続ける出家者や隠遁者、巡礼は、世俗に生きる人たちよりも道徳的に尊い存在(聖なる存在)であると考えられていたが、近代社会では基本的にこの道徳的価値判断が労働規範によって転倒されることになる。 俗世で働かず貧しくて薄汚い身なりをしていても、欲望(煩悩)を捨て去って宗教活動に打ち込み、人並みの豊かさ・楽しみを放棄しているというだけで、人格的・宗教的な価値が高いと見なされる。こういった貧しさとみすぼらしさ、欲望の乏しさの背後にある『学識・世界観の深さ』などに『聖性の威光(凡庸ならざる精神性)』を感じるというのは、中世封建主義の日本だけではなく中世ヨーロッパの修道院や古代ギリシアの犬儒派などでも見られた価値観である。現代に名前が残る高名な修道僧の多くも、風呂に入らず髪を整えず外見的には悪臭を漂わせる乞食との区別がほとんどつかなかったとされるが、キリスト教の信仰・布教・学問以外のことに欲求を向けないことが逆に聖性を増強するというように見なされた。 こういった『貧困・無欲・非生産性に付随する聖性(宗教性)の価値観』は、近代以降の社会ではほぼ死滅したと言ってよく、現代日本で無職で貧しく薄汚い身なりをしてお布施(施しの寄付)を求めるといった行為は、軽蔑・敬遠されることはあれど尊敬・崇拝されるということは滅多にありそうではない。仏教僧のイメージも江戸時代の檀家制度が成立してからは、檀家から安定所得がある生活には困らない僧侶といったものに変わっており、原始仏教が持っていたようなストイックな修行僧や在家の布施によって生きる脱俗の僧といったイメージとはなかなかつながってこない。 近代産業社会では貧しくて働く欲求が無い人に『聖性』のイメージが付与されることはなく、『怠惰』という侮蔑や差別を受けることのほうが多くなった。各種の世界宗教が生成してきた『聖性のフィクション』を失った結果、無欲で働かない出家者・隠棲者・乞食などは『社会的コスト』として取り扱われることになる。中世・近世まで聖性を生み出していた宗教権威の低下の原因としては、自然科学の発達と迷信の除去によって『怨霊信仰に基づく鎮魂・五穀豊穣を祈る祭祀・病気治癒の加持祈祷・占い・縁起・お祓い(除霊)』といった宗教固有の社会的役割が削減されていったこともあるだろう。目に見えないものや実際に役に立たないもの、経済的な利益を生み出さないものは社会的には『存在しない』と同じことであるという共通認識が近代化のプロセスを通して強化されたと見ることもできる。 基本的には、現代を生きる一般的な社会人には『働かずに出家(隠遁)するという選択肢』は与えられていないが、世俗社会から離脱すること(金銭・モノ・人への欲望を捨てること)が尊いというような価値観がほとんど消滅してしまったことがその背景にある。資本主義にせよ社会主義にせよ『欲望実現のための労働意欲・俗世の責任感』がその経済システムを支えているのだから、モノや金銭、権力への欲望(執着)をすべて捨て去った者が尊いというような仏教的人間観が認められる余地はそもそもないと言える。近代産業社会の前提は、すべての国民は世俗に生きる労働者(生産者)であり消費者であるということであり、金銭やモノに欲望を持たずに社会システムから禁欲的に遠ざかろうとする人は、どちらかというと社会規範を乱して経済発展を阻害する社会悪と見なされる恐れのほうが強い。 近代社会では『聖』と『俗』の境界線が消えただけに留まらず、非労働者・非生産者である『脱俗(非社会的存在)のカテゴリーにあった人たちの評価』は極端に低くて侮蔑的なものになってしまった。フランス革命や明治維新などを転換点として、『勤勉−怠惰』『富裕−貧困』の軸のみで価値判断する労働道徳と貨幣経済が急速に社会に浸透していくことになったが、これによって『お金(資産)が無いのに働かない人=貧しい失業者・無職者・乞食』が社会的コストとして最も社会的に非難される傾向が生まれた。 近代以前には、キリスト教でも仏教でも『貧しくて無欲であり俗世間から離れること』が社会的非難からの免責要件になっていたが、すべての国民が経済主体(労働者・経営者・資本家)という前提に立つ近代産業社会では『貧しくて無欲であること』は自分の経済的自立に責任を持たない『怠惰(怠け者)』として戒められ批判されることになる。そもそも、現代社会では『金銭・モノ・異性への欲望』を捨てて俗世間から離れたいなどと言っても、最低限の生存を維持するための労働(仕事)と無縁でいることはできないし、『中世的な聖域』として機能していたような寺社・無縁のコミュニティ・庶民の布施のようなものは存在しない。 近代的な経済社会からは中世的な農業社会にあった『高貴さ(身分制度の貴族性)』と『宗教性(無欲の聖性)』の価値が段階的に奪われていき、『貴族階級・聖職者階級・非社会的個人』は非生産的(寄生的な支配階層)で怠惰な存在として道徳的非難の対象になっていった。江戸時代以前の封建主義体制において『身分の高貴さ』や『宗教的な聖性』の観念が残存していたのは、士農工商の身分制度があったこともあるが、商業・貨幣(金儲け)を蔑視する非生産者階級である武士が統治者であったということも大きいだろう。 寛政の改革や天保の改革の『質素倹約・風俗取締・質実剛健(武士道の再建)』の理念を見ても分かるように、江戸末期の老中首座・水野忠邦に代表される重農主義を採用した為政者は『華美・贅沢な経済生活』や『奢侈・優雅な文化的発展』を道徳的な堕落(風紀の悪化)と見なす傾向が非常に強く、現代的な経済成長や物質生活の豊かさを重視する価値判断とはかなりかけ離れた理想を持っていた。金儲けをする商業や遊興・活気で賑わう町人文化に否定的であったため、『現代的な景気回復・財政再建の方向性』とは正反対の方向に突っ走って、余計に経済財政状態をこじらせてしまうといった側面が江戸幕府の政治改革にはあったが……その根本には社会の中軸を『武士(政治)』と『農民(食糧生産)』が担うべきだという封建制の農業経済(定常型経済)を変えまいとする信念があった。 世俗の権力・トラブルや責任追及の手が及ばないという意味での『宗教的な聖域』は前近代の西欧にも日本にも確かにあったが、すべてを世俗化する近代国家の成立によって、国家の生産性・成長性に貢献する『労働・仕事』こそが人間の本質や義務と見なされるようになる(この近代社会を覆う労働規範と労働者の中心化は、カール・マルクスの社会主義・共産主義のプロレタリア独裁や不労所得廃絶の発想にもつながっていく)。その結果、近世以前の宗教的世界観で聖性を帯びていた『貧しさ・無為・無欲』は次第に道徳的価値を失っていき、非世俗的な無私無欲は『規律訓練すべき悪いこと(=社会不適応な怠惰)』へとその内在的価値を転換したのである。 個人の欲望と労働規範によって成立する資本主義社会では『宗教的な聖域』も『中世的な無縁』も必然的に消滅していくことになるのだが、その事によって、預貯金と労働意欲(世俗の社会適応に向かう欲望)を喪失してしまった労働者(失業者・無職者)への社会的圧力・道徳的非難は非常に強くなりやすくなった。近代的な経済社会の大きな特徴は、労働道徳と職業意識の浸透によって『世俗の外部に通じる選択肢(無欲・脱俗・隠遁が通用する場所)』が基本的に無くなったということである。社会的に共有される人間の価値判断の指標が『労働(生産への意欲)』と『金銭(資産)』に集約されて、それ以外の金銭(所得・利益・投資)につながらない活動のすべては『趣味・娯楽・余暇』にカテゴライズされてしまったということなのかもしれないが、中世日本の無縁と聖性についてもう少し書いてみたい。 ■関連URI 孔孟思想の『陽(世俗)』の原理と老荘思想の『陰(脱俗)』の原理2:ニーチェの力への意志と社会道徳 資本主義(自由主義経済)と社会主義における労働観と『努力−結果』の因果応報を求める規範意識 新自由主義の自己責任原理と「派遣村」の支援に対する批判について:失業・貧困の原因帰属の心理 親鸞の浄土真宗と悪人正機の思想1:自力本願の功徳から他力本願の救済への転換 ■書籍紹介 |
| << 前記事(2009/01/29) | ブログのトップへ | 後記事(2009/02/01) >> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
ビジネス化・マニュアル化されたサービスの気楽さと『他者の贈与』を受け取ることで得られる人間関係の喜び
前回の記事の続きになるが、丁寧な個別的接客のない『小売業(スーパー・コンビニ・ファストフード・ファミレス)』では、自分が『特定の個人』として認識されない『匿名空間の気楽さ・サービス提供(商品購入)のスピーディーさ』そのものが市場価値になっている部分がある。こういった場所では大半の人が店員と個人的関係を築きたいとは思っていないし、マニュアル的なやり取り(決まったあいさつと笑顔・注文の確認・レジでの決済)以外の親密なコミュニケーションは通常発生しない。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/02/04 06:43 |
絶対王政・幕藩体制による“平和な社会”の実現と戦士階級(武士階級)の支配の揺らぎ:戦闘と労働の義務
前回の記事の続きになるが、近代産業社会では仏教世界のパラダイムにおける『悟り・解脱』などには一銭の価値もないと見なされ、キリスト教世界で世俗の経済生活からひきこもっていた修道院も批判に晒されることになった。寺院に篭もって仏教の学問や修行を禁欲的に死ぬまで続けたり、俗世の欲望を捨てて布施を求める乞食坊主になられることは、国家・産業社会にとっては労働力・納税者の損失という好ましくない事態を意味することになるというわけであるが、科学精神と理性主義、資本の力によって『静謐な聖性の幻想』のヴェールは... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/02/18 22:48 |
松尾剛次『破戒と男色の仏教史』の書評1:日本仏教の戒律の歴史と宗性の童子(稚児)との男色
『戒(シーラ)』とは個人が自分で守ることを誓う内的な倫理規範であり、『律(ヴィナヤ)』とは違反に罰則を伴う僧侶集団(サンガ)の規則であるが、日本の古代仏教で尊重された戒律の原典は『四分律(しぶんりつ)』と『梵網経(ぼんもうきょう)』である。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/07/23 01:10 |
人間はどうして働くのか?1:近代産業社会における労働・定職と道徳規範(正しい生き方)との結合
『人間はどうして労働するのか?』という労働論の問いについては、過去に資本主義経済の歴史や『怠惰・無為』を蔑視する近代的な労働規範の観点から書いたことがあるが、日本語の語感では『労働(labor)』と『仕事(work)』という言葉から受ける印象がかなり異なる点にも留意する必要があるのではないか。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/12/20 05:04 |
“国家(法権力)”と“社会(民衆社会)”のズレが生む無縁の世界:朝廷・幕府・寺社の多重権力
白河上皇の院政期(1086年〜)を『中世の始まり』として、織田信長の京都入京(1568年)による武家政権の全国的政権化を『中世の終わり』とするのが通説であるが、伊藤正敏氏は著書『寺社勢力の中世――無縁・有縁・移民』の中で、祗園会を主催する感神院祗園社が京都に広大な『不入地』を獲得した1070年を『中世の始まり』とする仮説を出していて興味深い。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2010/05/10 11:57 |
新型うつ病と規律訓練型システムによる超自我の形成4:“中心的・権威的な価値規範”との向き合い方
前回の記事の続きになりますが、従来のうつ病は『〜しなければならない・〜できない自分には価値がない』という社会的・権威的な価値規範への同一化があり、それが実行できない自分に罪悪感や自罰感情を感じることが多かったのですが、新型うつ病では通俗的な道徳や価値規範を懐疑しつつも、『自分がどのように生きていけば良いのか分からない』という自己アイデンティティの拡散(=方向感覚・価値規範の喪失)のほうが大きな悩みになっています。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2011/11/28 18:19 |
| << 前記事(2009/01/29) | ブログのトップへ | 後記事(2009/02/01) >> |