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『前回の記事』の続きになるが、1787年に茂姫は徳川宗家との家格の釣り合わせのために、寧姫として近衛経煕(つねひろ)の養女となり、1789年に近衛寔子(このえただこ)として婚儀が執り行われた。11代将軍の家斉と茂姫の間には五男・敦之助(あつのすけ)が産まれるが、既に側室の子・敏次郎(12代・徳川家慶)が世嗣に決まっていたので清水徳川家の養子になった。しかし、敦之助はわずか4歳で病死した。徳川家斉は10代の頃から複数の側室を持っており、26男・27女の53人もの子を設けた徳川家の歴史の中でも特に精力的な将軍として知られる。いずれにしても、大奥を掌握した広大院(茂姫)の家斉との婚姻が、島津家の天璋院篤姫が近衛敬子として徳川家定に輿入れする先例となった。 12代将軍・徳川家慶(いえよし,1793-1853)は、有栖川宮織仁親王の娘・楽宮喬子(らくのみやたかこ,浄観院)と縁組みして3人の子を設けたもののすべて夭折している。徳川家慶も父の家斉と同じく子沢山で正室・側室との間に、13男・16女の29人の子を授かったが、その殆どが幼少期に病没しており10代以降にまで成長できたのは、徳川家定(13代将軍)・徳川慶昌(よしまさ,一橋徳川家の当主)・暉姫(てるひめ)だけであった。 13代将軍・徳川家定(1824-1858)は生来的に虚弱体質であり精神発達にも何らかの問題があったとされる。だが、NHK大河ドラマの『篤姫』では自分の見識・ビジョンを幕臣に隠蔽しながら日本国の未来に深い思慮を巡らし、御台所の篤姫と静かに心を通わせ合う魅力的な徳川家定(歴史学の通説とは異なる家定)を堺雅人が演じていた。 徳川家定は初め18歳の世子の頃に1歳年上の鷹司任子(ただこ)と縁組みするが、鷹司政煕の娘・任子(天親院)は1848年に疱瘡のため25歳で死去した。その翌年には、一条忠良の娘・一条秀子(澄心院)と婚姻するが、この継室の秀子もわずか一年でこの世を去ってしまう。そして、島津忠剛の娘・お一(おかつ)が藩主・島津斉彬の養女お篤(篤姫)となり、斉彬が篤姫を実子として届け出ることで近衛忠煕の養女・近衛敬子(すみこ)となることができ、将軍家定への輿入れの運びとなるのである。 家定が病弱であったこともあり、家定が存命中から『将軍後継者の選定』を巡る幕臣の争いがあった。井伊直弼ら紀州派(南紀派)は紀州藩主の徳川慶福(よしとみ,後の徳川家茂)を推挙し、島津斉彬・松平春嶽・徳川斉昭ら一橋派は一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙していたが、徳川家定は紀州の徳川慶福(徳川家茂)を後継者にすることを決定した。そして、ペリー来航後の外圧や尊王思想(王政復古・倒幕運動)の勃興、雄藩の反幕府感情の高まりによる『幕政の難局』を乗り切るために『公武合体』が模索されるようになる。朝廷と幕府が密接不可分な関係であることを強調するために徳川将軍家と天皇家の縁組みが計画され、既に有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)と婚約していた和宮(かずのみや)が関東の江戸に降嫁することになるのである。 和宮は先帝・仁孝天皇の第八皇女であり孝明天皇の妹だったが、公武合体による江戸幕府の求心力・権威の回復に期待する老中の強い要請を受けて、第14代将軍・徳川家茂(1846-1866)に嫁ぐことになる。江戸幕府の幕藩体制や国防(海防)の備えが磐石であった17〜19世紀初頭の時代には、幕府(将軍家)が朝廷の伝統的権威を政治的に利用しようとする政略結婚の意図はなく、また外国の開国要請の圧力がない時代にはその必要性も乏しかった。将軍の正室も摂家・宮家の娘がほとんどであり皇女を積極的に求めることもなかったのだが、幕末になると『弱腰の外交(西欧列強との不平等条約の締結)・旗本の軍事力の弱体化・幕政を批判する雄藩や志士の台頭』によって幕府の求心力と威信が急速に失墜する。 江戸幕府は天皇家の権威を借りる『公武合体』や大老・井伊直弼が中心になって反幕勢力を弾圧した『安政の大獄』によって、政権の正統性を補強し幕藩体制の建て直しを図った。しかし、徳川家茂と和宮の縁組みによっても尊皇攘夷(王政復古)や錦の御旗を掲げる倒幕勢力(薩長主体の新政府軍)を鎮静化することは最早不可能であり、幕藩体制や封建秩序を瓦解させる大きな時代の流れを押し戻すことはできなかった。 いくら幕府と朝廷が一体のものであることを将軍家・幕臣が強く訴えようと、新たな政治秩序を確立しようとする薩長土肥の連合軍がそれを認めることはなく、朝廷の権威を十分に活用した新政府軍(官軍)は幕府を『朝敵・賊軍』の立場に位置づけて戊辰戦争の火蓋を切ったのである。『国家制度の近代化・国民アイデンティティの成立・開国と国際貿易』を要請する不可避な歴史の波濤(明治維新の到来)によって、約260年にわたって日本国を統治し続けた徳川幕府の封建主義体制と身分制度はあっという間に押し流された。 ■関連URI 幕末の攘夷主義の精神と儒教(儒学)の伝統的な世界観 横井小楠の破約攘夷論と吉田松陰の国家(国体)の認識:幕末を通底した儒学の道理 士族最後の反乱となった西南戦争と西郷隆盛の生涯:2 プラトンの『国家』と儒教の『論語』に見る徳治主義の原型とギリシア精神の結実としての『哲学』 ■書籍紹介 天璋院(てんしょういん)と徳川将軍家101の謎 (PHP文庫) PHP研究所 川口 素生 ユーザレビュー: 読みやすい♪分かりや ... 篤姫・大奥・幕末の内 ...Amazonアソシエイト by ウェブリブログ |
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家茂のこと
楽天から検索された商品羽生雅 『武蔵野の露と消ゆとも?皇女和宮と将軍家茂?』…¥ 2,000■武蔵野の露と消ゆとも?皇女和宮と将軍家茂?』■著者:羽生雅■発行: 小学館スクウェア■送料は1点につき別途630円(税込)をお申し受けます。 …東海道五十三次将軍家茂公御上洛図... ...続きを見る |
日々の人気キーワードより 2008/12/10 19:29 |
童門冬二『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』の書評
水野忠邦(1794-1851)の復古的な『天保の改革』に己の人生のすべてを捧げて歴史の狭間に散った幕閣・鳥居耀蔵(とりいようぞう,1796-1873)の伝記小説。耀蔵の“耀(よう)”と甲斐守の“甲斐(かい)”の音を合わせて『妖怪』の異名を取ったとされる鳥居耀蔵は、江戸南町奉行・目付として市中の厳しい風紀粛清・文化統制を行い、改革方針に逆らう一切の人間を強権で握りつぶそうとした余り評判の良くない人物として知られる。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/02/06 14:28 |
童門冬二『内村鑑三の「代表的日本人」』の書評:西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮
内村鑑三(1861-1930)は東京英語学校(東京大学の前身)で英語教育を受けた『英語名人世代』の代表格であり、日本に一神教の神に帰依するキリスト教信仰を導入した人物として知られる。内村鑑三は『少年よ、大志を抱け』の名言で有名な札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)の薫陶を受けて、メソジスト(プロテスタントの宗派)のキリスト教徒に転向した。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/04/05 12:23 |
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