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現代社会では価値観やライフスタイルの多様化によって『他者と共有できる常識・慣習的規範』の幅が狭くなってきている。その結果、過去には明確なマナー違反あるいは礼儀(常識)からの逸脱と考えられていた行為を注意することが難しくなってきており、周囲の人に物理的危険が及ぶようなよほど重大な違反行為が行われない限りは『他者の迷惑行為・マナー違反』を強い態度で注意しようとする人はほとんどいなくなった。都市部の公共空間では知り合いではない『他者の行為』に対して無関心な態度を貫くことがデフォルトであり、『他者の迷惑行為』をやめさせるために干渉しようとするには儀礼的無関心の規範からはみ出るための相当な覚悟が必要となる。 電車内や図書館などで全くの赤の他人の行為を注意することも難しいことだが、狭い地域社会の中で同じマンション・アパートに住む『隣人の生活騒音(夜間の騒音・音量の大きな音楽)』などに注意を促すことも結構気疲れする行為であり、大半の人は『注意をしたほうが相手の感情を逆撫でして余計に面倒な状況になるのではないか?』と尻込みする。こういった小さな迷惑行為やマナー違反が気になる神経質な性格の人は、『何で迷惑を掛けられている俺(私)のほうが、こんなに注意の仕方や相手の反応を心配してあれこれ悩まなければならないんだ』と考え納得のいかない悶々とした気分を引きずることになるだろう。 なぜ、相手のほうが間違った行為をしている可能性が高いにも関わらず、堂々とした態度で改善の要請や注意をすることができないのかというと、『自分の常識・迷惑の尺度が相手に通用しないケースを想定するから』であり、マナーや常識というのは相手がその価値判断(迷惑の尺度)を共有してくれていないと心理的な強制力を殆ど持たないからである。迷惑に耐えかねて他人に注意や叱責をするだけでも相当な心理的負担がかかるのに、覚悟を決めて他人に注意をしたら逆に『あんたに俺(私)の行為をやめさせる正当な権限でもあるのか?マナーや常識に少しくらい違反したからといって偉そうな態度で注意してくるな』とでも言い返されれば『二重の不快感』を味わわされる恐れもある。 道交法に違反する迷惑駐車でも一般市民が注意をすれば『警察でもないお前に注意される覚えはない』と捨て台詞を吐く人もいるし、警察の説諭に対しても従わずに暴れまわったり暴言を叩きつける人もいるのだから、注意をする相手によっては幾ら正しい意見(マナー)を優しい言葉で言い聞かせても通用しないかもしれない。そもそも『正しさや常識の感覚があなたとは違う』といわれれば、注意をする側には一般世間の『数の論理』か『慣習的な常識感覚』にしか正しさの拠り所がないので、注意の仕方が高圧的だったり感情的になったりすれば、どっちもどっちの激しい言い争いになることだってないとは言えないのである。 普段は遵法精神や規範意識が乏しいように見えるトラブルメイカーに限って、やたらと法の権威や公権力の強制性を持ち出してくる傾向もあり、頻りに『お前にどういった公的な権限があるのか・どういった法律で俺(私)の行為が禁止されているのか・注意を聞かなかったとしてどんな罰則や制裁があるのか』といった反論を試みてくることがある。マナーや常識が決定的に通用しない相手の絶対数は多くないと思うが、その場合には『二重の非常識性(社会常識の共有の放棄・強制力を伴う公権力以外には屈服しない頑迷な態度)』によって、注意をした側のほうが『二重の不快感(注意する前の気の重さ・注意した後の後味の悪さ)』を経験するだけの徒労に終わるだろう。 ここまで極端なケースは多くないと思うが、いずれにしても現代社会では『他人に注意すること』にも『他人に注意されること』にも慣れていない人が大半なので、注意しても注意されてもある種の『気まずさ・その場への居辛さ』というものを感じやすくなりやすい。 電車内や公共空間で、厳しい口調で注意をした後にどのような態度を維持すれば良いのか(自分が笑ったり楽しそうにするのも注意の行為との一貫性がないように感じられる)、注意をされた側はやはり神妙な面持ちで反省した態度を取り繕うべきなのか(こちらもなかなか注意される前の気分や心境には戻れないだろう)など、注意をする側と注意をされる側の間に『注意の対象となる問題行為・迷惑行為』以外へのいろいろな感情が起こってきて、結局、お互いがその相手から早く離れたいという衝動に襲われるだろう。二度と顔を合わせることもない相手を注意したり、相手から注意されたりする行為には、『所属コミュニティ・帰属文化圏の共有性』がないと何となくその行為だけが宙に浮いたような気まずさや非現実感が漂いやすくなるのかもしれない。 その根底には、『大人の世界』における社会常識・マナー感覚の共有性の低下があるだろうし、地域コミュニティの衰退と所属コミュニティの多元化(共感不能な“他者”を回避しようとする島宇宙化)がそれを後押ししている。労働形態や所属組織などによって規定される『社会人としての働き方・生き方・集団規律との距離感』が多様化していることも、社会全体に共通するマナーや規範性を拡散している面があるかもしれない。これは平たくいうと、過去の時代には同じ社会に属するみんなが暗黙裡に従うべき『マナー・慣習』がカバーしている領域が広かったということだが、現代では『自分が同意できないマナー・慣習を持つ相手』を選択的に回避しようとする人が増えたということを意味する。 強制力のある法律には嫌々ながらも従わざるを得ないが、自分とは異なるマナーや規範を持つ相手から注意された場合には、その相手と異なるコミュニティ(同質性の高い集団)に所属することで対立や不快を回避しようとするので、『マナー違反の注意・叱責』がその相手の行動原則や日常的な態度を決定的に改めるという可能性が低くなっているのではないかと思う。簡単に言えば、『コミュニティの細分化』と『異質性の排除』により、自分と趣味や価値観が似通った者同士でリアルやバーチャルのコミュニティを形成するようになったということだが、こういった異質な他者を拒絶する『島宇宙(閉鎖集団)』では、自分と異なる価値観や感受性を持つ他者とのコミュニケーションが基本的に難しくなる。 『他人が嫌がることや迷惑になることをしない』という一般的な倫理規範における『嫌なこと・迷惑なこと』を、島宇宙と一般社会の間で法律レベルではない『倫理・マナーの次元』で共有していけるかどうかが今後の自由社会の自律的秩序における大きな課題になってくるように思う。 以下のはてなの匿名ダイアリーにあるような携帯電話や騒音のマナーに対する注意のしづらさというのも、上記してきた幾つかの理由が関係していると思うが、プライベートとパブリックの境界線が曖昧になっている個人や他人の存在に無関心な個人が増えているという傾向はあるのだろう。
自分の価値観やマナー感覚のほうが『正しい(その正しさが相手に通用する)』と確信できなければ、大半の人は注意や叱責といった行為を取れない。実際的には、家庭の親と小さな子、会社の上司と部下、学校の教師と生徒(生活面の指導力低下などの指摘もあるが)のように『社会的な関係性』によってある程度『指導・注意の合理的正当性(立場の差異)』が担保されていないと思い切った注意ができない。現代人の多くが、他人に注意や叱責ができなくなった理由のひとつとして『“私”に他者の行動を是正させるだけの正当性があるのだろうか?』という懐疑があり、自分以外の他人が注意しようと動かない姿を見ると『“私”ひとりが不快を感じているだけではないか(“私”ひとりが少しの間我慢すればトラブルを回避できるならそちらのほうが良いか)』という方向に自己疎外的な思考(状況把握)を進めてしまうからだろう。 『公共の場では静かにすべき』というマナー(社会常識)にどれくらいの普遍性があるのか、その場にいる過半数の人が騒いでいて楽しそうにしていても『公共の場では静かにすべき』のマナーは正当性を担保できるのだろうかというのは、『合理的な解』ではなく『慣習的な合意』に近いものであるから幾ら頭で考えても正しい答えを断定することはできない。ただ、人間の一般的な感覚や感受性からすると、『自分が一人でいる時』や『何かに集中している時』に周囲で大きな音を立てられたり騒がれたりするとうるさく感じて心理的に不快になるという傾向はあるだろう。『賑やかな場所が好き』か『静かな場所が好きか』という性格的な差異や時々の気分も関係するだろうが、一般的に自分が一人でいる時(図書館で本を読んでいる時)に隣にいる集団が大騒ぎをしている状態を快適と感じる人はまずいないし、自宅でくつろぎたい時に隣室で大音量の音楽を流されたり酔客の罵声がとどろくような環境を希望する人はいないだろう。 学校教育や家庭で教えられてきた伝統的なマナーの多くは『他者がいる公共空間における静態(静けさ)』を正しい振る舞いと規定し、『他者がいる公共空間における動態(騒がしさ)』を間違った振る舞いと規定してきたが、集団生活で静かにするというマナーは集団の無秩序性や乱雑さを縮減する効果を持っている(集団に特定の目的や活動がある場合には特に、集団成員を静かにさせたほうが目的行動の効率性が高くなる)。電車内や公共施設で静かにすべきというマナーは『集団の楽しみ(盛り上がる環境)』よりも『個人の快適さ(落ち着ける環境)』を優遇したマナーと言えるが、集団で騒ぎたい人やケータイで話す必要を感じる人は『個人の快適さ』を享受するメリットが低くなりやすい。 電車よりも自動車(マイカー)での移動を好む人は『他者のいない自分専用の空間』で快適に移動できるところに付加価値を感じることが多いが、電車内(公共空間)で静かにすべきというマナーも基本的には『パブリックな空間に生まれやすい喧騒』を『プライベートな空間に近い静けさ』に転換するという効用がある。ある意味で、公共空間で必要以上の音を出さないというマナーは、『儀礼的無関心』を効果的に機能させる効果を持ち、目の前に大勢の他者がいてもそれを意識しなくても良い『擬似的なプライベート空間』を心理的に創出するのである。 匿名ダイアリーの最後では『そういう概念をもっていない人は、ファースフード店や電車で今日も最大音量で会話を楽しみ、人生をエンジョイしている』という皮肉めいた心情が綴られているが、上記したような相互に『自分』を『他者』に意識させない(他者の知覚領域にできるだけ干渉しない)マナーによって形成される『擬似的なプライベート空間』を、本気でプライベート空間と思い込んだ人がケータイでの大声の通話や場違いな大騒ぎをしてしまうのではないかと思う(個人的には小声で短時間の通話をするのであれば、電車内でケータイで話していてもそれほど気にならないが)。 しかし、大多数の人がマナーを守ることによって形成される『擬似的なプライベート空間』は飽くまで擬似的なものであり、他人の迷惑を顧みずに大声でケータイを話す人の前でそれ以上の大声で電話をすれば相手もさすがに迷惑に感じるだろうし、3人で大騒ぎしている集団の横で10人でどんちゃん騒ぎを始めれば相手も迷惑に感じるということになるだろう。公共空間で騒いだり大声を出す人たちがその楽しみを享受できるのは、周囲にいる他者が自分たち以上の騒音を出さない(知覚領域に干渉してこない)というマナーを守ってくれている状況に全面的に依存しているのである。そのため、最大公約数的な『個人の快適環境』を他者が集う公共圏において確保するためには、『公共の場では静かにすべき』というマナーが『公共の場で騒いでも良い』という自由の極端な拡大よりも承認されやすい(そちらのほうが快適な人が多い)ということになるのではないかと思う。 ■関連URI コミュニケーションで満たされる“4つの対人欲求”と対人評価を高める“5つの性格行動特性” “贈与―応答の原理”によって維持されるコミュニケーション:贈与(パロール)と人間関係の距離感の調整 Appleの“iPhone 3G”の日本進出で、ケータイの価値や利用法はどのように変わるのだろうか? ■書籍紹介 図解 マナー以前の社会人常識 (講談社プラスアルファ文庫) 講談社 岩下 宣子 ユーザレビュー: 難しい話ではありませ ... 廉価かつ内容豊か。な ... 読みやすくて、どれも ...Amazonアソシエイト by ウェブリブログ |
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ビジネス化・マニュアル化されたサービスの気楽さと『他者の贈与』を受け取ることで得られる人間関係の喜び
前回の記事の続きになるが、丁寧な個別的接客のない『小売業(スーパー・コンビニ・ファストフード・ファミレス)』では、自分が『特定の個人』として認識されない『匿名空間の気楽さ・サービス提供(商品購入)のスピーディーさ』そのものが市場価値になっている部分がある。こういった場所では大半の人が店員と個人的関係を築きたいとは思っていないし、マニュアル的なやり取り(決まったあいさつと笑顔・注文の確認・レジでの決済)以外の親密なコミュニケーションは通常発生しない。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/02/04 06:43 |
電車・バスの中における携帯電話の通話はどうして迷惑に感じるのか?儀礼的無関心とマナー違反
前回の記事で書いた『迷惑』というのも、『自分がして欲しくないことを、他人にしてはいけない』という風に理解するだけでは、『自分がされても構わないこと』が『相手にとっての迷惑行為』になる可能性がある。こういった迷惑行為に対する認識の違いというのは、知らない他者が集まって形成する『公共空間(道路・電車・バス・公園・図書館・病院の待合室など)』において良く見られるが、大半の人が迷惑と感じる行為にも『実際的な被害・他人の行動の妨害』が殆どないというものは意外に多い。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/02/20 21:03 |
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