カウンセリングルーム:Es Discovery

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS エリザベト・ルディネスコ『ジャック・ラカン伝』の書評

<<   作成日時 : 2008/11/02 10:53   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 6 / コメント 0

『ジャック・ラカン伝(河出書房新社)』はエリザベト・ルディネスコの原書を藤野邦夫が翻訳した本だが、邦訳されたジャック・ラカンの伝記ものでは最も詳細な解説が為された作品だと思う。『ジャック・ラカン伝』は本そのものの版型が大きく内容も重厚長大で、ラカンの私生活の細々した部分や当時のフランス思想界の時代的背景の解説にまで踏み込んでいるので気軽に持ち運んで読めるような本ではない。また、ジャック・ラカンの思想や精神分析のアウトラインをざっと読みたいというような読者に向いている本ではなく、どちらかというと今までラカンを専門的に読み続けてきたような人で、ラカンの構造主義的な精神分析理論をひととおり理解し終えて、ラカンという精神分析家の実像に深く接近してみたいという人が読んでみると様々な発見があってきっと面白い。

哲学史・文学史と精神分析に関する予備知識を一定以上持ってから丁寧に精読するというスタイルが取れるのがベストであるが、仕事がある社会人では隅々まで細かく読み解く時間を取るのは難しいので、自分の興味のあるラカンの時間軸と人間関係を切り取ってピンポイントで読むのが良いだろう。ジャック・ラカンは『フロイトへの原点回帰(フロイトへ帰れ)』を唱導した個性的な精神分析家であるが現実に『フロイトの忠実な弟子』であったわけではなく、『クライエント重視の誠実な臨床家』としてのアイデンティティを身に付けていたわけではない。ラカンは言語によって人間の精神構造とイメージ、現実世界を分析する思想家であり、真理探究に時間を捧げる哲学者としてのアイデンティティを現実的なものへと敷衍する形で、精神科医としての仕事に携わっていたという特異な人物である。

ラカンの祖先は比較的大きな食酢業者を営むブルジョワ階級であり、カトリック系のスタニスラス中学に通ったラカンは負けず嫌いの野心家でトップクラスの成績を維持していたが、学校の権威・規則には反抗的で他の生徒と協力することが苦手な尊大な性格の持ち主だったという。他者のやり方や社会の権威に迎合せず、自分の主張を曲げてまで周囲に妥協することはないというラカンの知的優越感は『父性の欠如・去勢の遅延』とも相関しているが、その後も多くのトラブルや軋轢を引き起こしながらラカンはフランス精神分析界を代表する人物へと成りあがっていく。

ラカンにとっての精神分析的な『父の名・去勢』があったとしたら、精神分析に興味を持った初期の時点での国際精神分析協会とS.フロイトの冷淡な拒絶的態度(無視)であり、ドイツ・ナチズムが台頭してフランスを占領したときの全体主義権力(圧倒的暴力)に対する不本意な屈従だったのかもしれない。実際、ラカンが精神分析家として意欲的な活動を行い始めるのは、ファシズムの猛威が吹き荒れた第二次世界大戦後のことであり、フロイトのファシズム(集団力学)に対する論考に鋭い批判を加えている。なぜ、個人が全体の政治権力や民族主義の目的に自発的に服従するのかをエーリッヒ・フロムとは異なる視点で分析し、反権威主義的だった自分(ラカン)さえも戦時中には権威的な有力者に承認されることに快楽を覚えたことを述懐しているのである。

ラカンはナショナリズムや戦争を直接的に否定するいわゆる平和主義者ではないし、宗教が衰退した近代社会の空隙を共産主義(マルキシズム)が埋めると危惧したフロイトのように、共産主義思想の魔術性(集団催眠性)をそれほど重要視したわけではなかった。フロイトは共産主義思想の中に宗教的な原理主義と同類の『異質性(不従順な逸脱者)に対する不寛容』を見出しており、『大衆の指導者に対する投影同一化』が集権的なファシズムの原動力になるとした。一方、ウィルフレッド・ビオンの集団力学理論の影響を受けていたラカンは、『専制的な指導者の支配力』よりも『自由な個人の協調』のほうが集団のパフォーマンスを高めると考え、独裁者が指導する総動員体制のファシズムは独裁者のいない自由社会の民主政治よりも『最終的な競り合い』で必然的に劣るという結論に行き着いた。

社会的資源を総動員するファシズムが一時的に優位に立つことはあっても、『個人の可能性・自発性に根ざした欲望』を強権的に抑え付けるファシズムの活力や成長力が長期にわたって維持できない以上、『ファシズムの集団』と『自由民主主義の集団』の競争においてファシズムが最終的な勝者になることはないというのが戦後のラカンの政治的洞察となった。ラカン自身の去勢体験には抽象的・観念的部分が多いが、自我意識の成立(鏡像を通した統一的な自己の同定)と関係する『鏡像段階論』や父性的な他者による『幼児的全能感の去勢』は、ラカンの精神分析理論の中で重要な位置づけとなっている。

自己完結的な鏡像段階論の想像界を超えて、自己の有限性・不完全性を曝露する『他者・象徴界』と言語的に関係することで、人間は現実適応的な精神構造を自律的に形成していくことができるのである。人間の自我意識や現実感覚は『自己の不可能性・限界性(現実の世界や他者は基本的に思い通りにならないという実感)』によって担保されているが、その一方で、ラカンの言う『現実界』は言語によってもイメージによっても『客観的な現実(他者と共有される現実)』に直接的に触れることができないという不可能性が前提にされている。この現実界の持つ不可能性という性質は、インマヌエル・カントが『純粋理性批判』で直接的に知覚・認識することが不可能とした『モノ自体(客体そのもの)』として解釈することもできるが、現実界の不可能性は哲学における伝統的な主客問題のアレゴリーとなっている。

本書では、フロイトやラカンが生きた第二次世界大戦やナチズムの政治的背景についても随所で触れられており、イギリスに亡命したユダヤ人のフロイト、ナチスの強圧とフランスで対峙しユダヤ人の親族を機転を利かせて救ったラカンの個人史からナチズムの台頭の歴史を切り離すことはできない。第一次世界大戦前後のフランスの華やかな知識階層やヨーロッパの権威的な医学界についても、多くのページを割いて人物と思想の解説が行われている。ラカンが思想的な影響を受けた主要な哲学にはエドムンド・フッサールの現象学やジャン=ポール・サルトルの実存主義、マルティン・ハイデガーの存在論などがあり、サルバドール・ダリを筆頭とするシュールレアリスムの芸術作品にも多くの感化と刺激を受けたようである。

ジャック・ラカンは社会主義運動に傾いたサルトルのように『政治領域へのアンガージュマン(主体的参加)』によって人間の実存的な存在意義が担保されるとは考えなかったが、『三人の囚人の論理命題』を元に考察を進め『予期される確実性の断定(“理解のための時間”が“結論の瞬間”に論理必然的に帰着すること)』こそが人間の自由の条件であると結論づけた。簡単に言ってしまえば、『本当に物事の道理を理解した時』に人間は自由になれる可能性をつかみ、『自分が理解した内容に沿った決断』が実際に可能である時に人間は本性的な自由を現実界で発現させることができるのである。ラカンの語る『予期される確実性の断定』が成立する時には『理解のための時間』は既に必然的な結論に到達しているという哲学的な洞察であるが、詳しくは『第5部 戦争、平和』の『2章 人間の自由の考察』を読んでみて欲しい。

精神分析学は理論家の家族歴や生活履歴との深い結びつきを持っている。ラカンとラカンの二人の兄弟(弟・妹)が父親アルフレッドが継いだ食酢業者の家業を捨ててそれぞれの道に離散していったことが、その後のラカンのプライベートな家庭生活・異性関係の行く末を暗喩しているような感じがある。ジャック・ラカンは哲学者の夢を現実的な精神科医の道へと切り替え、知的権威として自己を打ち立てていき、妹のマドレーヌは結婚して遠い異国へと渡っていった。弟のマルク=マリ(改名してフランソワ)は世俗を離れたオートコンブ修道院で聖職者として叙階することになった。ラカンが生まれた中産ブルジョワ階級の家族は統一性を失って解体したが、ラカン自身も自らの家族を維持することが適わず、複数の女性と同時進行的に情熱的あるいは観念的な恋愛を楽しむことになった。

当時のフランスの知識人階層のサロンでは、既婚者が家庭とは別に感性・思想の合う愛人を持っていることも少なくなかったようだが、特にジャック・ラカンは結婚の規範や社会道徳というものに無頓着なタイプであり、その時々の自分の異性への情熱や好奇心を押し殺すような道徳的抑制とは無縁であった。容姿端麗でファッションセンスにもこだわりを持っていたジャック・ラカンは、近代的な性道徳に束縛されない『奔放な恋愛遍歴』を持っているが、その辺の私生活の話も前半の『第3部 男ざかり』に詳しく書かれている。ラカンは親しい友人の妹であったマリ=ルイーズ・ブロンダンにベタ惚れして求婚するのだが(ラカンが結婚したかったからというよりも、マリ=テレーズが愛人のようなイレギュラーな関係を容認しない男性経験の少ない清楚なタイプの女性であったという理由が大きいようだ)、その時にもオレジアとマリ=テレーズというマリ=ルイーズとは全く異なる種類の魅力を持った二人の愛人が存在していた。

常識的見地からは、ラカンは結婚した配偶者のマリ=テレーズと子供に対して不誠実かつ無責任ということになるだろうが、ラカンは『統合的な一人の女性』を継続的に愛することができず、『部分的な魅力を備えた女性』を並列分散的に愛するという特殊な恋愛形態を当然のものと考えていた節がある。マリ=テレーズと一緒に長期のスペイン旅行に出かけながら、愛人のオレジアに向けて長い文面の手紙を送り、スペイン旅行で受けた知的興奮や学術的な薀蓄、オレジアの渇望を熱く語るというはちゃめちゃぶりである。旅行に一緒に行く相手としてはマリ=テレーズのほうが楽しいが、外国旅行で感じた知的興奮や文物の刺激を熱く真剣に語り合う相手としてはマリ=テレーズでは役不足で、オレジアの洗練された言葉による承認がなければ満足できないとでも言わんばかりの振る舞いであった。

ラカンは異性関係において、『未来への欲求』と『過去への未練』を同時に手に入れようとする完全主義志向の貪欲なところがあり、現状維持に留まることを否定しながら、一度手に入れた女性と絶縁することも惜しむような身勝手な葛藤を幾度も経験している。ジャック・ラカンは『一人の女性の美点・魅力』だけでは『自分の欲望』を十全に満たせない現実界の男女関係のあり方を知り、『複数の女性の美点・魅力』によって個別的・随時的に自分の欲求や知的好奇心を満たそうとしているかのようにも見えるが、これは『父性的な去勢(思い通りにならない現実)』に対する虚しい抵抗とも解釈できる。

実際、ラカンに限らず不倫をするような男性の多くは『家庭(配偶者)では得られない安らぎ・会話の楽しみ』を不倫相手に求めていることが多いものだが……ラカンのような凡人ならざる各種の魅力・思想を持つ人物であればともかく、不倫の誘惑に流された大半の男性は失ったもののかけがえの無さを思い知らされることや晩年に一人の寂しさをかこつことのほうが多いようである。ラカンの場合には、オレジアには手紙のやり取りを介した知的承認(言語的コミュニケーション)を求め、マリ=テレーズには旅行・娯楽を介した遊興の快楽を求め、マリ=ルイーズには結婚を介した理想の異性像を求めたが、ひとりの異性や現在の生活状況のみに継続的に愛情と関心を注ぐことは困難であった。

後年のマリ=ルイーズとの家庭生活の破綻のきっかけも、新たに登場した魅力的な女性のシルヴィア・バタイユ(ジョルジュ・バタイユの妻)との愛人関係であったが、ジョルジュ・バタイユの妻で美貌をたたえた女優であったシルヴィアがラカンの愛人になったというのは有名なエピソードでもある。こういったラカンのプライベートな異性遍歴が、ラカンの構造主義的な精神分析にどのような影響を与えたのかを想像しながら読むというのも一つの読み方であるが、シルヴィアと破局したジョルジュ・バタイユの伝記的な部分を読むと、バタイユの破天荒かつ破滅的な人生の歩み方についていける女性もそうそういるものではないという気もする。バタイユの生々しい性的快楽やグロテスクな人間観をテーマにした文芸作品は、バタイユの退廃的な人生の履歴と密接な関係を持っているのだから、バタイユ自身がどういった人物であったのかはおおよそ推測がつく部分もあるが。

日本の芸術家や作家にも際立ったパーソナリティや生活履歴(恋愛遍歴)を持った人は多いのだが、近代の西欧社会のサロンやカフェに集まった著名な哲学者や思想家にも、それぞれの特徴的なパーソナリティ(人間性)や人生過程がそのまま自分の思想・作品に反映されているという人が多い。ジャック・ラカンはそういった生活が思想に直結するタイプの思想家(精神分析家)ではないのだが、ラカンのプライベートな生活履歴や異性遍歴は『精神分析は言語活動の科学である』としたラカンらしい象徴界優位の世界観(人間観)へと結びついているのかもしれない。ラカンは言語によって人間存在と精神構造(無意識)の本質を分析しようとしたが、ラカンの女性や家族を巡る人生過程を本書で振り返っていると『人間は言語活動によって束縛され痛めつけられる』という命題以前の問題として、『人間は他者の行動によって束縛され痛めつけられる』ということにも多少自覚的であるべきではないのかと考えさせられたりもするのである。






■関連URI
パラノイア(妄想症)の特徴とジャック・ラカンの『エメの症例』に見る自罰パラノイア・理想自我の投影

好きな相手との関係を終わらせないために『相手から欲望される』ということ:双方向の“贈与”の反復

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』の書評

自我(エゴ)中心の精神分析学と自己(セルフ)の相補性を重視する分析心理学:無意識の補償作用

■書籍紹介

ジャック・ラカン伝
河出書房新社
エリザベト ルディネスコ

ユーザレビュー:
二十世紀精神分析残念 ...
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ

設定テーマ

関連テーマ 一覧

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(6件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
ジャック・ラカンの『現実界・象徴界・想像界』の視点から見た人間の欲望・言語活動と信頼関係の本質
S.フロイトに還帰しようとしたジャック・ラカン(1901-1981)は、『すべての人間は神経症者である』という命題を現実界を言語化することの不可能性の中に求めた。なぜ、人間は神経症(neurosis)と呼ばれる広義の精神疾患に苦悩するのかというと、『他者の不可知の内面』を推測する関係性の中で展開される『人間の欲望(desire)』が決して全的に充足されることがないからである。『不完全な欲望の充足』を求めざるを得ない人間の存在形式を前提とすれば、どんなに幸福な人生の外観を持っていても、どれほ... ...続きを見る
カウンセリングルーム:Es Discov...
2008/11/10 16:18
藤野邦夫
藤野邦夫 ブログ 事件 フランク・ウィルソン/著 藤野邦夫/訳 古賀祥子/訳、新評論 価格:3675円 (本店)左利きの本棚/研究書・実用書 まだ全巻通して読んでいないので紹介文を入れていません。 おもしろそうな本です。脳の進化が手の進化を促進したのか、はたまた手の進化 ...(続きを読む) エリザベト・ルディネスコ『ジャック・ラカン伝』の書評 『ジャック・ラカン伝(河出書房新社)』はエリザベト・ルディネスコの原書を藤野邦夫が翻訳した本だが、邦訳されたジャック・ラカンの伝記ものでは最も詳細... ...続きを見る
無料ニュース
2009/01/23 17:19
藤野邦夫
エリザベト・ルディネスコ『ジャック・ラカン伝』の書評 『ジャック・ラカン伝(河出... ...続きを見る
なおこの日記
2009/01/24 00:40
藤野邦夫
エリザベト・ルディネスコ『ジャック・ラカン伝』の書評 『ジャック・ラカン伝(河出... ...続きを見る
まりえの出来事
2009/01/25 14:42
藤野邦夫
エリザベト・ルディネスコ『ジャック・ラカン伝』の書評 『ジャック・ラカン伝(河出... ...続きを見る
りさの日記
2009/01/25 17:26
子どもに対する“遊戯療法”と“自由な遊び”によるカタルシス効果・内的世界の投影
霊長類である人間は『知恵ある人』や『言葉(概念)を用いる人』であると同時に、『遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)』でもあります。チンパンジーやボノボ、ニホンザルなどのサル類も遊びますが、人間の『遊び』ほどレパートリーやルールの深さがなく、人間以外の動物は成体(大人)になると生活上の必要性が薄い『遊び』の頻度が大きく減少します。サル類以外の各種の哺乳類も、『生存維持(食料確保)・繁殖行動』に役立つ知識や技術、コミュニケーションを『遊び』の中で学習する傾向はありますが、いったんそれらの適応能力を身に付... ...続きを見る
カウンセリングルーム:Es Discov...
2009/04/01 13:53

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コンテンツ&本の紹介

Es Discovery's Encyclopedia(百科事典的なアーカイブ)

ESD ブックストア(インスタントストアで色々なジャンルの本を紹介しています!)

心理学の事典や臨床心理学の概説書

S.フロイトとC.G.ユングの書籍