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『平成19年(2007)の殺人発生数は戦後最低』という記事によると、去年2007年は戦後で最も殺人発生数(1199件)が少ない年だったようで、日本は一億人を超える人口数から考えると世界的に見ても極めて安全な治安状況を実現していると言える。凶悪な少年犯罪や子どもに対する犯罪も昭和40年代前半をピークに実際には減り続けていて、昭和60年代頃からは大方横ばいになっている。あらゆる犯罪を完全にゼロにすることが出来ない以上、過去と比較して改善傾向にある現在の治安水準が危機的な状況であるとは言えないが、一般的には日本の治安は悪くなったという認識を持っている人のほうが多い。一つの事件を元にしてマスメディアが伝える日本の治安状況は大体『昔の日本は安全だったが、最近の日本は治安が悪化して安心して住めなくなってきている・若者の道徳意識の低下が犯罪増加につながっている』という悲観的なもので、客観的な犯罪統計(警察統計)の実証データを参照した意見にはなっていない。戦前から昭和中期頃までの日本と現代日本を比較すると、人口が増加しているにも関わらず殺人発生件数も対人口比の凶悪犯罪の発生率も低下しており、現代の日本は過去の日本よりも他人による危険な犯罪に遭遇するリスクは低くなっている。 リンクしたブログ記事にあるアメリカのニューヨークと日本の比較も興味深いが、日本の体感治安の悪さには『マスメディアのセンセーショナルな事件報道・未来に対する閉塞感・主観的な幸福実感の低下・共同体的な連帯感の喪失・物語的な生きる意味の欠落』などが複合的に絡まっているように感じる。現在の生活に対する不満や未来の日本に対する希望の無さが『原因帰属の誤謬』を導き、現在の生活への不満や慢性的な将来不安の原因の一つとして『日本社会の治安悪化・日本人の道徳的な人心の荒廃』を認識してしまう側面があるのではないだろうか。 厳密には、『実際の犯罪行為』と『道徳心の低下』とは直接的な因果関係がある項目ではなく、道徳心が低下していて社会的なマナーを守らない人でも、法律を破って逮捕されるようなことや他人に暴力を振るうことまではしないという人が大半のはずである。現代日本で治安の悪化がまことしやかに囁かれる背景には、『非常識で道徳心の低下している人は犯罪を起こしやすい=マナーや礼儀を守らない人が増えてきたから犯罪も増えているはず』という認知も影響しているように思えるが、「マナー違反・礼儀知らず・非常識な人」と「実際の凶悪犯」の間には大きな落差がある。 上記のような原因帰属の誤謬があると、各種メディアの伝える『日本社会の治安・安全・安心に問題がある』という主張に無意識的に同調しやすくなる。『こんな暮らしにくい時代だから仕方ない・現代社会は人間関係が希薄になって他人に冷たい』と嘆息する人たちは多いが、『暮らしにくい時代・人情味の乏しい社会』を形成する一つの要素として『社会治安(犯罪発生状況)の悪化』が暗黙の了解として織り込まれている部分がある。無論、『暮らしにくい時代・理解し合えない他者の増加』を実感する人たちの実際の原因が、『犯罪増加による治安悪化』のみにあるとは考えにくいわけだが、分かりやすく納得しやすい原因の一つとして『日本の安全神話の崩壊』が上げられていると考えることもできる。 犯罪件数の統計データから見る限りは、既に戦前から安全神話は崩壊していたということになってしまうのだが、実際に多くの人たちから問題とされているのは『客観的な認知件数』ではなくて、『主観的な生活の満足度・安心感』であり『社会構成員間における世界観(価値観・行為規範)の共有の程度』なのではないかと思う。みんなが等しく貧困を享受しながらも『同じような価値体系・未来の繁栄』を信じて懸命に働いていた戦後間もない時代には『犯罪による不安』を『未来への希望』が上回っていたと考えられる。しかし、経済成長の停滞や社会格差(雇用待遇など経済格差)の拡大、少子高齢化による社会保障不安など各種の問題を抱え込んだ現代の日本では、一般的に『未来への希望』よりも『未来への不安』が強まっている。その結果、社会全体に瀰漫(びまん)する将来不安や生活上の不満の原因を、分かりやすく理解(納得)するための仮説の一つとして『犯罪増加説(治安悪化説)』に説得力が生まれているのではないかと思う。 認知的不協和の解消を目的として、将来不安や現状の暮らし難さを上手く説明してくれる仮説が強く求められているとすれば、治安悪化や少年の凶悪化を嘆きながらも、通時的な統計学的根拠(客観的証拠)に殆ど関心がないという人たちが多いのは不思議なことではないと言える。自分が信じたい内容と客観的な現実状況が矛盾している時に不快な認知的不協和を感じるので、『社会治安が悪くなっているという仮説』と『自分の生活の範囲内での主観的な社会認識(他者認識)』が一致していればその仮説の説得力は相当に高くなるのである。マスメディアの事件報道の大半は、識者の印象やキャスターの主張に基づいたもので、厳密な科学的・統計学的根拠が問題視されることはまずないが、それは視聴者の側から統計学的根拠を示して欲しいというような需要(要請)がほとんどないからではないかと思う。 専門的な社会学者や経済学者などはともかくとして、一般の人の大半は具体的な数字を持ち出しての議論には慣れていないし、一つ大きな事件が発生すれば過去と比較した相対的な『数(量)』の議論が霞んでしまい、その事件の悲惨さや心理的な影響といった『質』のほうに国民の関心は向かってしまう。インパクトのある一つの事件が起こってそれにマスメディアの報道が集中すると、どうしても事件を自分の身近な生活圏に引き付けて考えてしまいやすくなる。瞬時に日本各地の情報が伝達されるメディア社会では、犯罪がゼロにならない限りは治安が悪化しているのではないかという印象を持ってしまうようなショックな事件が年に何回かは大々的に報道されることになる。年に数件でも記憶に深く残る衝撃的な事件が起これば、日本社会全体がおかしくなっているような印象を受ける可能性がある。日々のニュースを見聞きする中で『家族間・親族間の事件』と『他人による犯罪』との区別が曖昧になると、家族関係の問題よりも外部社会(他人)の危険性のほうを強く感じてしまうかもしれない。治安悪化の認識を持たれやすい理由の一つとして、現代における家族像の変化や家族のつながりの変質(衰退)が影響しているのではないかと思うし、実際の殺傷事件の大半が家族や恋人など深い関係にある面識者によるものであることにも留意が必要である。 日常生活の中で何か大きな事件が起こった時に『最近はほんと怖い時代になってきたよね』というのはある種の決まり文句のようになっているが、それは過去の時代と比較しての不安感というよりも、現在の社会生活の中で感じているさまざまな不安感(違和感)や閉塞感が抽出された不安感なのではないだろうか。『個別の犯罪に対する不安』というのは社会に遍在する不安感・不満感・生きにくさの原因を構成する一つの要素として話題にされているに過ぎない。そのため、厳密に過去の統計データと比べ合わせてどのくらい増えたかどのくらい減ったかというのは、極端に言えば大多数の人にとっては『関心の範囲外』になるのかもしれないし、『体感治安(時代や社会に対する自分の評価)』と『統計データ』のほうに大きな食い違いがあれば体感治安(時代に対する評価)のほうを信じる人の方が多いのではないかと思う。 しかし、この問題の複雑さは、体感治安といっても実際に自分(家族)が生活している地域において、今日や明日何かの被害に遭うかもしれないという治安に対する直接的(物理的)な不安とは異なっていることである。体感治安の悪化の多くは、マスメディア報道やインターネットを中心とした情報環境によって段階的に形成された『社会治安に対する漠然とした不安・他人のマナー違反や迷惑行為に対する不快感』が元になっていて、(財産犯・軽犯罪を除いて)自分が犯罪被害に遭遇する実際のリスクと体感治安が直接的に結びついていないことが多いのではないだろうか。また、マスメディアの刺激的な事件報道ばかりを見ていると、自分の生活半径には今のところ直接的な影響は出ていないが、社会全体の安全は少しずつ脅かされているという治安悪化の認識を持つことはごく普通の反応とも言える。 更に考えると、社会治安を構成する『自分とつながりのない他者』に対する不信感が強まっていて、地域コミュニティの崩壊や人づき合いの希薄化によって『価値観・世界観・善悪判断を共有できない他者』が増えたことが体感治安の悪化や社会秩序への不満に影響していると考えられる。現代社会の風潮を悲観する人たちには個人主義・自由主義の行き過ぎに反対して公共精神や責任意識(義務感)の復権を強調する人が多いが、個々人が自由に振る舞う現代社会には法律以外の『統一的な価値判断の基準=誰にでも通用する慣習的規範』が明確に確立していないことも一部の人たちの治安悪化の印象に影響しているかもしれない。『法律に従うこと・道徳に従うこと・常識に従うこと・同調圧力(空気)に従うこと』はそれぞれ異なる規範意識であるが、自由至上主義的な『法律にさえ違反しなければ何をやっても良い』とする価値観には根強い抵抗があり、多くの人たちは、形式的な遵法精神以上の道徳的・共感的な精神性を持っていないと何をするか分からない危険な人物というような先入観を持ちやすいのではないかと思う。 法律で取り締まられていないような種類の迷惑行為(マナー違反)やグレーゾーンの行為に対して『何とか早く法規制できないものだろうか』という意見が良く出ることがあるが、個々人がバラバラの行為規範や価値観を持って動くアノミーな社会、かつての“常識(社会規範)”に“世間(集団圧力)”のような強制力が無くなった社会が何となく居心地が悪いという人もかなりの数存在しているように思う。治安悪化の印象の背景には『価値観や世界観を共有できない他者の増加』があり、自分と他人の常識感覚や善悪の判断基準が一致せずに不快感を感じる場面が増えたことで『今の社会はどこかおかしい』と感じやすくなっている面もあるのではないか。過去の時代には、犯罪件数が多くても社会全体で共有される価値基準と理想の社会観(目標とすべきビジョン)があったために社会治安の悪化という発想が生まれにくく、現代の日本では、犯罪件数が相対的に少なくなっても『自分が理解できない(理解したくない)他者』が増えたために体感治安の悪化、他者への不信感が強まったのではないかと思ったりする。 また時間を見つけて、他者への加害行動の増減と自由主義的な価値観との関係についてもう少し考えてみたいと思います。 ■関連URI 他者の評価や反応を求めるB群(クラスターB)の人格障害:“特別な自分の価値”を自己顕示する方法の違い パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』の書評 “主観的な幸福感”を重視するスピリチュアルな世界観と“客観的な根拠”を重視する科学的な世界観:2 ■書籍紹介 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)
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“閉鎖的な人間関係”における対人トラブルを生む“非社会的な自己愛”の高まり
前回の記事の続きになりますが、他者に危害を加える『反社会性』と自己愛の過剰による『利己性』とは必ずしも相関しません。他人に関心が向かないほどに自己愛(ナルシシズム)が極端に強くて、自分自身に関係する事柄にしか興味がないような人は、内的世界(内向的行動様式)に退却して社会適応性が低下することはありますが、他人を攻撃するような反社会性が高いとは言えないからです。自己愛や利己主義が強い場合には、外的世界において他者の行動や財産を力ずくで不当に支配しようとする『反社会性』として問題が現れることもあ... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/02/14 23:12 |
鈴木伸元『加害者家族』の書評:“一つの重大事件”が生み出す被害の拡大とウェブ時代の社会的制裁
平成20年度の警察庁による犯罪認知件数は253万3351件、悲しみと怒り、苦悩に打ちひしがれる膨大な被害者家族(遺族)と共に、世間から非難され排斥される加害者家族も生み出されている。犯罪被害者やその遺族の『心理的ケア・加害者による謝罪と補償・公的補償と生活再建』というのは極めて重い課題である。近年まで刑事裁判で被害者遺族の苦悩に満ちた感情と犯罪後の生活の混乱が、余りにも軽く扱われてきた事にも真摯な反省・改善が求められる。重大事件に関する裁判員制度の導入も、量刑・判決に市民感情や常識感覚を反... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2011/05/07 13:23 |
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