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前回の記事でスピリチュアルな対話について書いたが、無論、科学的な意味で死後の人間とコンタクトを取る霊媒・霊視や前世へのタイムスリップが事実であるわけではない。『スピリチュアルの世界観の前提』を共有する人間同士であれば、精神的な苦悩を和らげたり、充実した人生を過ごす支えとなる「物語的な意味」を手に入れることができるかもしれないが、それは第三者が客観的に認識できるという意味での科学的事実とは異なるものである。その意味で、スピリチュアルな技法や特殊能力というものは、科学技術のように万人に通用するものではなく、スピリチュアルの世界観と霊能者の権威を初めから承認している人だけにしか通用しないものだと言える。J-CASTに「江原啓之がフジを痛烈批判 「虚偽の提案でだまされた」という記事があったが、江原氏の「望まれていないカウンセリングとは知らされなかった」という批判的な主張を読んで、ホットリーディングのための準備が出来なかったということ以上に、スピリチュアルな世界観や霊能者の権威性を承認していない相手に『感動的な物語の共有』を引き起こすことの難しさを感じたのではないかと思った。 自分が遭遇した人生の苦難や精神病理の因果関係を“科学的”にではなく“物語的”に了解して受容することで、心理的な苦悩や絶望感を緩和していくという面接技法は心理療法のナラティブ・セラピー(物語療法)などにもある。しかし、ナラティブ・セラピーではスピリチュアルのように死後の世界や霊魂の存在を自明の前提と考えるわけではないし、当然のことながら死んだ近親者のメッセージを聴いて伝えるようなことは出来ない。ナラティブ・セラピーというのは、クライエント自身が主体的に自分の人生のエピソードを整理していくプロセスであって、物語的な時間系列や効果的な言語表現について支持的なアドバイスをすることはあっても、『正しい人生の物語の流れや意味・本人の認知できないエピソード』についてカウンセラーの側が断定的に語ることはまずない(そもそも、本人さえ知らないような関係者のエピソードを事前調査無しに言い当てることは出来ないし、カウンセリングで想像的な解釈や物語的な表現をやり取りすることはあっても、推測内容を事実として伝えることはない) 宗教的世界観と科学的世界観との対照でいえば、生きている人間と目に見える現象以外の実在をすべて否定してしまえば、すべての問題は『生きている人間同士の利害調整』という功利主義的な価値判断に結実するほかないが、人間を超えた存在(心霊)や死後の世界を仮定すれば『超越論的な人生の意味・死後にまで続く因果の法則』などが形成されてくる。また、スピリチュアルにはさまざまな理論や手法、サービスが存在しているが、死後の世界や輪廻転生(生まれ変わり)といった宗教的言説に必ずと言っていいほど、恋愛や仕事の成功、お金儲けやセレブな生活、心身の健康(美貌)の実現など『現世利益の要素』がつきまとっている。科学的世界観の枠組みで考える限りは、スピリチュアルなものが客観的事実でない可能性が高いことは誰にでも分かっているが、『科学的な判断基準の外部=主観的な精神世界』に敢えて出ることで『スピリチュアルの恩恵(現世利益メインの効果)』を得ようとする人たちがいることもまた理解できるのではないかと思う。 スピリチュアルや宗教というのは、コミュニティの要素を無視すれば“主観的な体験と確信”にどこまで深くはまり込むのかという問題に行き着き、実際に現実的な利益を得ることは難しくても、精神的な安心感や満足感は手に入りやすいのである。宗教の唯一神は『汝、試すなかれ』と言い、敬虔な信仰者は『不合理ゆえに我信ず』と言ったが、これら宗教の本質を摘出する言葉はスピリチュアルにも共通するものではないかと思う。客観的な検証によって真偽を明らかにすることよりも、主観的な体験(信仰・信念)によって世界や人生に“揺るぎない意味(相対化されない価値)”を与えることが優先されるのである。あるいは、主観的な体験を科学的な事実性よりも優先することで、“お手軽な現世利益の期待”を持つことができるのである。こういった想像力を活用した希望的観測を持たない限り、スピリチュアルの価値を実感することはできないが、悪質な霊感商法や危険な新興宗教(カルト)などに引き込まれるリスクを考えると、個人的な趣味として楽しむ以上にのめり込むことには慎重であったほうが良い。 科学的世界観に従って判断したほうがスピリチュアルにハマって生活するよりも、霊感商法などに騙されるリスクは低くなると思うが、『明るく楽しく生きること』を重視している人の場合にはスピリチュアルを信じることが必ずしもマイナスになるわけではない。印象論になってしまうが、スピリチュアルを信じているような人のほうが、科学的な真偽に細かくこだわって議論しているような人よりも、日常生活における精神的な負荷(自説の正しさを確保するための負担)が低くなるかもしれない。科学的な妥当性にこだわるということは『自説の客観的根拠』についていつも意識していることを意味し、スピリチュアルのような客観的な論拠(データ)を特別に必要としない内容と比較すると、『懐疑的・批判的なスタンス』がどうしても強くなる。仮説の確からしさを検証しようという懐疑心や批判精神がなければ、科学的な思考は出来ないからである。科学的検証に厳密にこだわろうと思えばキリがないし、日常生活のちょっとした雑学や豆知識、健康情報が正しいのか否かまで気にしていたら、情報処理のコストが大きくなり過ぎて疲れてしまう。 科学的に正しい知識と適切な判断力を持っていても、その正しさが毎日の生活の楽しみや面白さを保証してくれるわけではないので、『科学で説明できない不思議なものを信じたほうが面白く生きられるという発想』をする人の気持ちも分かる。特別に宗教やスピリチュアルを信じていない人でも、現代の日本では過半数の人が『死後の世界は存在する・死後の祭祀には意味がある』と考えていて、かなりの割合の人が『死後の生まれ変わり(輪廻転生)』を信じているという。『死ねば完全な無になって何も残らない』というニヒリスティックな発想を拒絶する人は意外に多いし、人生における様々な不幸や障害、困難に対して何らかの物語的な意味づけ(自分が更に成長し新たなことを学ぶためにこの苦難があるのだといった意味づけ)をして乗り越えているという人も少なくない。その意味では、目に見えない信念や物語的な価値体系(家族・恋愛・正義・成功)に小さな自分の存在を投影して、明日を生き抜くための『固有の意味』を見つけ出すというのは人間一般に共通する心理機制なのかもしれない。 現代日本で、スピリチュアルがかなりのブームになった背景には『(多くの人にとっての)宗教のデメリット(禁欲性・規範性・コミュニティ参加・教条性)』を最大限排除して、自由主義・個人主義などの現代的価値観と両立可能な『宗教のメリット(現世利益・生きる意味の付与・世界の仕組みの物語的説明)』だけを凝縮した結果かもしれない。『科学的真偽の判断軸』というのは様々な判断軸の中の一つに過ぎず、恐らく一般社会の中では『科学的な妥当性(真実性・根拠)』によって自分の行動や考えを決めるという人はそれほど多くないのではないかと思う。『何となく科学を装った外見』によって人を信じやすくさせるような効果は確かにあるが、自然科学の厳密な定義や方法(ルール)、理論にまで踏み込んで自分の判断基準にしようという人は少数派だろう。 『科学的な正当性』が『個人の幸福』と直接的に関係しているわけではないので、真実(事実)にこだわることに喜びを見出せる人もいれば、感動と幸福を実感(期待)できるような物語に価値を見出すスピリチュアルな人もいる。しかし、テレビの公共放送で非科学的なスピリチュアルや霊能力を無批判に正しいものとして取り扱うことには、『科学的な判断能力』を軽視しても良いというメディアバイアスにつながる恐れがあり、メディアリテラシーの低い子どもなどの場合には、外的現実性(客観的現実性)と内的現実性(心理的現実性)の区別が曖昧になるという問題もある。現実社会や司法制度は、死んだ人間は生き返らない、死後の世界は存在しないといった『科学的世界観の共有』によって成り立っているのだから、通常の社会生活に必要な科学的認識の形成を阻害するような番組作りには自主規制が望まれる。 一時期、水が人間の言葉(感情)や音楽のメロディの善し悪しを反映して結晶を作るという『水は答えを知っている』の擬似科学が話題となったが、学校の教育現場などでも擬似科学やスピリチュアルを科学的主張と誤認させるような教え方は控えるべきだと思う。国語教育・道徳教育などで擬似科学的な要素のある童話・説話(生き返りや死後の世界が登場するような物語は多くある)などを使うケースでも、『創作的物語』と『科学的事実』との違いを無粋に強調すべきなのかは微妙な問題ではあるが、宗教と科学との間に優劣の価値判断があるわけではないので『科学ではないものを科学と誤認しない教育』をどのように進められるのかが課題になる。現代のスピリチュアルは、人生の成功哲学(自己啓発)と宗教言説のアマルガム(融合)といった印象が強いが、確固とした自己の存在意義や幸福のあり方を見失いやすいアノミーな現代社会において生まれるべくして生まれた現象の一つと言えるだろう。 ■関連URI 精神的ストレスとフラストレーションに対応する自我防衛機制の働き:環境適応の視点から見る人間 池田晶子『41歳からの哲学』の書評:自分の頭で不思議や疑問を考える哲学 男性原理と女性原理の二元論(dualism)が相対化する現代社会:C.G.ユングの無意識の二面性 ■書籍紹介 死にたくないが、生きたくもない。 (幻冬舎新書)
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日本社会の良好な治安を示す統計データと“治安悪化・将来不安・他者不信”を感じる主観的な心
『平成19年(2007)の殺人発生数は戦後最低』という記事によると、去年2007年は戦後で最も殺人発生数(1199件)が少ない年だったようで、日本は一億人を超える人口数から考えると世界的に見ても極めて安全な治安状況を実現していると言える。凶悪な少年犯罪や子どもに対する犯罪も昭和40年代前半をピークに実際には減り続けていて、昭和60年代頃からは大方横ばいになっている。あらゆる犯罪を完全にゼロにすることが出来ない以上、過去と比較して改善傾向にある現在の治安水準が危機的な状況であるとは言えないが... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/02/12 17:35 |
香山リカ・五木寛之『鬱の力』の書評:「躁の時代」と「鬱の時代」の循環に適応するための考える視点
ポップで読みやすい心理学関連の本を多数出版している香山リカと『百寺巡礼』など仏教関連のエッセイなどを精力的に書いている五木寛之の対談本です。現代日本に蔓延している『鬱の気分』を、精神疾患としての臨床的な『うつ病』と人間本来の思考力に内在する『鬱の傾向』とに分類して、『鬱』を完全には排除できない人間の本性を肯定的に受け止め、『これからの現実』を生き抜いていくにはどうすれば良いかを語り合っています。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/12/21 00:33 |
ルネ・デカルトの近代的自我の発見と“私(自我)”の精神の限界:自己と社会(他者)の相互作用の視点
京極夏彦の『邪魅の雫』では、自分の自我意識が現実世界そのものであるという画家・西田の『独我論』が展開されますが、独我論というのは“私(自我意識)”以外の“他者・物質の実在”を否定する思想です。常識的に考えると、自分以外の他者や外界が実在しないというのは馬鹿げた観念論のように思えますが、“私の意識”と“世界・他者の実在”を切り離すことができないというのは合理的事実であり、“私の意識”が消滅すれば世界や他者も消滅するというのは物理的次元における変更不可能な現実と言えます。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/03/12 21:20 |
香山リカ『キレる大人はなぜ増えた』の書評:“自己防衛的な攻撃性”と“利益獲得的な攻撃性”
少し前に、少年犯罪・校内暴力などの事例を挙げた『キレる若者』というフレーズが流行したことがあったが、最近は若者の特徴を評価するフレーズが『草食系男子・消費や結婚をしない若者・雇用の安定志向』といったマイルドで抑制的なものへと変化してきているようだ。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/10/15 21:40 |
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