カウンセリングルーム:Es Discovery

アクセスカウンタ

help RSS “主観的な幸福感”を重視するスピリチュアルな世界観と“客観的な根拠”を重視する科学的な世界観:1

<<   作成日時 : 2008/01/30 00:15   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 4 / コメント 0

テレビで放送されている江原啓之氏のスピリチュアル番組がBPO(放送倫理・番組向上機構)からの倫理的勧告を受けたようだが、時にカウンセリングとも結び付けて語られるスピリチュアルとは何なのかを現代社会のアノミー(中心的価値観の衰退)と結びつけて考えてみたいと思う。スピリチュアルに対する倫理的批判や科学的検証などは意図せずに書くつもりだが、スピリチュアルというのは基本的に『自分の人生にとって意味のある想像的な物語(霊的世界の前提)を受け容れるか否か』という信仰に近い問題である。ただし、教義に基づく規範・戒律やコミュニティ(閉じた人間関係)のある宗教活動よりも気軽に参加できるという意味で、スピリチュアルでいう信仰的なものは、義務的要素(不自由な要素)の多い宗教上の信仰とは明らかに異なっている。スピリチュアル関連の書籍は総体的に現代社会の倫理や物質重視の風潮に対しては批判的であるが、煩わしいコミュニティ(人間関係)への参加を避けて個人単位で自由に信じたり参加したりすることができ、現世的な欲求や目標に対しても肯定的である。

神仏・教祖・信者との継続的な人間関係(コミュニティへの参加)を強制されないスピリチュアルは相互扶助的なコミュニティを前提とする既存宗教とは異なり、個人主義的に好きな時にだけコミットできる融通の効く霊的な体験となっている。創造神による一元的な世界観を説く宗教のように、そのスピリチュアルな教義を信じなければ不幸になるとか地獄に落ちるとかいうようなネガティブな言説はあまり前面に出てこないし、スピリチュアルでは『明るく楽しい雰囲気』の中で『今の自分をメタレベルで肯定する物語』が感動的に語られることが多い。前世や守護霊、死後の世界、オーラなどが登場するスピリチュアルが一般受けした理由の一つに、占いのような手軽さと感動重視の世界観の分かりやすさ、既存宗教のような束縛の少なさがあると思うが、一般的なカウンセリングや日常生活では得られない『これから先、どのように生きていけば良いのか?私が生きている意味は何なのか?』といった霊的な指針(啓示)が得られるというのが大きいだろう。反対に、自分の人生や価値観について他律的・断定的なアドバイスを受けたくないという人にとって、スピリチュアル・カウンセリングのようなサービスは抵抗感の強い怪しげなものと映ることになるし、一般社会における科学世界観の共有を混乱させる原因にもなる。

人生のあり方を導くような霊的な指針は、特別な能力を持たない普通の人間から人間に伝えられたのでは説得力を持たないので、必ず『心霊・故人・神の声を聴くことができるとされる超能力者(霊能者)』を媒介してスピリチュアルな人生の教訓・指針が与えられるという仕組みになっている。死後の世界にいる人間や霊界(天界)にいるとされる神・天使などの声(思い)を媒介して伝えるという意味では、青森県・恐山のイタコや聖書に登場する預言者といった役割にも近いが、スピリチュアルを信じるということは『霊視・霊媒などの特殊能力を持つ人物の存在』を信じるということでもある。

霊界を見たり死後の人物(祖先)と話したりできる特殊能力の存在を信じられない人がスピリチュアルな事柄に関心を持つことは考え難いし、科学的根拠のないスピリチュアルな言説を聞いても全く説得力を感じず、胡散臭いものとして否定的に見るだけである。しかし、冒頭に書いたようにスピリチュアルの本質は『心霊・死後の世界などの前提条件を信じるか否か』にあるのであり、『信じることによって何らかの幸福(メリット・希望)を感じられるか否か』が重要なのだから、『科学的な真偽判断』のみによって、スピリチュアルを信じている人の考え方を変えることはまず出来ない。

スピリチュアルや擬似科学に批判的な人は、『(物理的な次元で)真実であるか虚偽であるかという判断軸』を高く評価するので、実験・観察によってスピリチュアルな能力や現象が本当なのかどうかの結果を出せば良いと考えるかもしれない。事前にどこの誰と面談するのかを一切教えずに抜き打ちで霊能力者に霊視をしてもらい、その人の亡くなった近親者のエピソードや職業などを質問するとか、未解決事件の被害者と交信してもらって真犯人についての情報を得るとか色々な検証法は考えられるが、恐らくそういった反証はスピリチュアルを信じる人への批判としては有効ではない。スピリチュアルを信じて楽しむためには『目に見えない霊的世界・霊能者の特殊能力の前提』を信じる必要性があるが、その特殊能力の真偽に関する精密な検証を望んでいる人はまずいない。逆に言えば、超能力・霊能力・神の存在に対する科学的な検証を経てからでないと信用できないというタイプの人は、『宗教やスピリチュアリティの本質』からもっとも遠い場所にいるのであり、良くも悪くも『目に見えない世界・超自然的な事象・非科学的な理論』に熱狂的にのめり込む要素が無いのである。

なぜなら、『懐疑的な科学精神(確実に実証されたものしか信じないという科学的態度)』を否定することにこそスピリチュアルの存在意義があり、客観的に存在するのか否かといった疑いの気持ちを捨てないと、霊的・宗教的な事柄に真剣にコミットすることなど出来ないからだ。ルネ・デカルトの近代的な自我は『知識の明証性の根拠』を追求する余り、『我思う、故に我あり』という極端な独我論的懐疑主義(正しさを志向する孤独)に陥ってしまったが、スピリチュアルはデカルトやロック以降の近代思想が葬ってきた『経験・論理によって実証できない精神的現象(超越的なものとのふれあい)』を蘇らせる試みとして解釈することもできる。スピリチュアルは、『科学が幾ら発達しても心が満たされない・どんなに客観中立的な正しい知識を手に入れても幸福になれない・人生に究極的な目的がないなんてつまらない・退屈な日常生活の背後に大いなる何かがあって欲しい』という一部の現代人にとっての福音となった。

迷信や宗教・伝説の虚構性を次々と暴き立ててきた自然科学(合理的経験主義)は、『正しい知識の増大』『生活水準の向上』には役立ったが、『人生の存在論的な苦悩・絶望・苦痛の解消』にはほとんど役立たなかったからである。ニーチェが近代社会の発展によって『神の死』が訪れると予言したように、客観的な認識と結びついた科学的世界観の普及によって根拠薄弱な宗教的世界観は衰退し、『絶対的な生の意義・物語的な世界の存在根拠』は失われてしまった。『なぜ、苦しくてもつらくても諦めずに生きなければならないのか?』という問いに自然科学の客観的な知識(正しい認識)は答えてくれないし、かつて超越的な権威であった神や聖職者の言葉はどこか空々しく現実味のないものになってしまった。

近代以前の日本では西欧のキリスト教や中東のイスラム教のような絶対的な宗教権威は存在しなかったが、天国や地獄といった死後の世界を信じている人は多かったし、“天皇という神話的な権威”と“世間(コミュニティ)による自己規定”によって自生的な社会秩序と存在意義が形成されていた。現代社会の相対主義的な緩やかな秩序と前近代社会の統合的な秩序のどちらが良いのかは人それぞれだが、他者に拘束されずに自由に振る舞いたい人は現代的な分散の秩序が心地よく、みんなが同じような規範・価値を信じている社会が好きな人は前近代的な集権(統合)の秩序が心地よいだろう。

超越的な権威(神)や不可視の世界の原理(普遍的規則)が何も存在しないと考えるならば、『正しく生きなければならない・悪事をしてはならない・自殺してはならない』という倫理規範の究極的な根拠は希薄化してしまい、お互いの自由と権利を尊重する『相互的な社会契約』としての倫理しか残らないことになる。少し前まで、欧米圏では宗教を信仰しない無神論者の倫理観を疑うような風潮があったが、それは『法律(権力)以外に、自分以外の如何なる超越的権威も認めない個人』は現実的な損得勘定でしか自分の行動を抑制できないと考えられたからである。

死後の世界や最後の審判に配慮しなくて良い無神論者であれば、生前に善行を行い悪事を避けなければならない絶対的な根拠がなくなり、人生に絶望したり他者に憎悪を抱いたり、絶大な権力を握った時に何をするか分からないというわけである。無論、歴史を振り返ると宗教に傾倒し過ぎて狂信ゆえの暴挙を起こした事例も多くあるので、無神論者・無宗教者のほうが逸脱行動を起こしやすいとばかりは言えないのであるが、論理的には『死ねば全て無に帰すと考えている人(幸福も不幸も現世限りの問題である)』『死後にも何らかの審判・生まれ変わりがあると考えている人(幸福や不幸は現世だけで終わりではない)』とでは人生に対する向き合い方が変わってくる可能性はある。

絶望的な苦境に直面した時の粘り強さや生きる意欲の強さという点でも、価値判断の上位審級や宗教的な世界観(目に見えない価値ある存在)を信じているほうが強い傾向があると推測されるが、それは結局、『自分だけで生きている(私の生命の所有権は私にあるので、生死を自己決定できる)』と考えるか『誰かに生かされている(私の生命の所有権は私以外の何かにあるので、勝手に生死を自己決定してはいけない)』と考えるかの認識の違いかもしれない。『死後の世界』について何も言及しない科学的世界観を率直に信じるならば、人はどんな生き方をしていようと死ねば完全に“無”となって消滅するだけの存在であるから、ニヒリズム(虚無主義)へと続く実存的な空虚さを感じる人がいてもおかしくはないだろう。近代以降のニヒリズムとは、客観的に観察可能な現象を見る限りにおいて『人は一人で生まれて一人で死ぬ』という絶対的な孤独であり、『一度死んだ人間は決して生き返ることはない(今生きている人生以外の別の人生を生きられる可能性がない)』という厳粛な生の一回性である。

人間は絶対的に孤独であり厳格な生の一回性という運命に貫かれているが、それだけではなく、メタレベルで人間の存在意義を保証してくれていた神(神話・伝承・ゲマインシャフト)が死に、万人に共通する真理(世界の物語的意味)も既に失われてしまっている。出来合いの既存宗教やスピリチュアルに頼らないとしても、ありのままの自然的事実を受け容れ、科学的世界観が予示する人間の生の究極的な無意味さを理解することは多くの人間にとって非常に困難であり、精神的な危機を招来する危険さえある。伝統的コミュニティにおいて社会秩序や生きる意味を支えていた中心的価値観が衰退して、現代では各人がバラバラに自分の生きる意味や価値を追求するアノミー(無規範状態)が常態化している。特に、伝統的宗教の影響力が元々弱く、敗戦によって国家主義の挫折も経験した日本では、『他者と共有できる価値基準』は結婚(家庭)・恋愛(性愛)・ビジネス(経済的成功)・趣味・教養などプライベートなものに限定されてきており、それらの領域で成功や幸福を実感できなければ『生きる意味』を見失いやすい社会構造になっている。

また、『生きる意味』を多元的に実感して楽しめるような個人はそれほど多くなく、結婚(家庭)・恋愛・ビジネスなどのどれかに一極集中的に偏って楽しんでいる人が多くなっている。一極集中的な価値承認は人生のプロセスの足元の弱さやメンタル面の不安定につながる。最近相次いで起こった、離婚を言い出されて配偶者を殺害した事件や別れに耐え切れず恋人に暴力を振るう問題なども、『それ以外に自分には生きる目的がない』という人生の生き甲斐の喪失に対する切迫した精神状態を反映していると言える。近代的なアノミー(無規範状態)やアトミズム(個人化)が呼び寄せるニヒリズム(生の意味の喪失)を補填する意味で、スピリチュアルのような『物語的意味・啓示的メッセージを伝達するコミュニケーション形態』が生まれたと考えることができるだろう。

一般的なカウンセリングにはないスピリチュアル・カウンセリングの特徴とは、『死去した近親者からのメッセージ・守護霊からのアドバイス・前世の自分のイメージ』などによって現実社会や科学的世界にはない『自分に対する特別な価値承認と癒しの時間』を得られることである。近親者との死別・離別の悲しみをダイレクトに本人の声を聴くことで癒したりすることも出来るようだが、表象的な想像力を駆使するカウンセリングのイメージ療法では、客観的現実と治療的想像を混同しないような配慮をするという違いがあり、死後の世界からの伝言を現実のものとして体験するようなことは出来ない。


■関連URI
ユング心理学の元型(archetype)や魂(soul)の概念が持つ神秘的宗教性と臨床的応用性

レオナルド・ダ・ヴィンチの複雑なセクシャリティと『モナ・リザ』『三人づれの聖アンナ』の分析

ギリシア神話の『パンドラの箱』と旧約聖書の『創世記』に見るジェンダーのアナロジー(類似性)

■書籍紹介
スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)
スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)

テーマ

関連テーマ 一覧

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(4件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
“主観的な幸福感”を重視するスピリチュアルな世界観と“客観的な根拠”を重視する科学的な世界観:2
前回の記事でスピリチュアルな対話について書いたが、無論、科学的な意味で死後の人間とコンタクトを取る霊媒・霊視や前世へのタイムスリップが事実であるわけではない。『スピリチュアルの世界観の前提』を共有する人間同士であれば、精神的な苦悩を和らげたり、充実した人生を過ごす支えとなる「物語的な意味」を手に入れることができるかもしれないが、それは第三者が客観的に認識できるという意味での科学的事実とは異なるものである。その意味で、スピリチュアルな技法や特殊能力というものは、科学技術のように万人に通用する... ...続きを見る
カウンセリングルーム:Es Discov...
2008/02/01 15:14
香山リカ・五木寛之『鬱の力』の書評:「躁の時代」と「鬱の時代」の循環に適応するための考える視点
ポップで読みやすい心理学関連の本を多数出版している香山リカと『百寺巡礼』など仏教関連のエッセイなどを精力的に書いている五木寛之の対談本です。現代日本に蔓延している『鬱の気分』を、精神疾患としての臨床的な『うつ病』と人間本来の思考力に内在する『鬱の傾向』とに分類して、『鬱』を完全には排除できない人間の本性を肯定的に受け止め、『これからの現実』を生き抜いていくにはどうすれば良いかを語り合っています。 ...続きを見る
カウンセリングルーム:Es Discov...
2008/12/21 00:32
ルネ・デカルトの近代的自我の発見と“私(自我)”の精神の限界:自己と社会(他者)の相互作用の視点
京極夏彦の『邪魅の雫』では、自分の自我意識が現実世界そのものであるという画家・西田の『独我論』が展開されますが、独我論というのは“私(自我意識)”以外の“他者・物質の実在”を否定する思想です。常識的に考えると、自分以外の他者や外界が実在しないというのは馬鹿げた観念論のように思えますが、“私の意識”と“世界・他者の実在”を切り離すことができないというのは合理的事実であり、“私の意識”が消滅すれば世界や他者も消滅するというのは物理的次元における変更不可能な現実と言えます。 ...続きを見る
カウンセリングルーム:Es Discov...
2009/03/12 21:19
ホメオパシーの効果の科学的根拠の否定。疑似科学や自然主義思想の何が問題と成り得るのか?
ホメオパシー(同種療法)の治療効果に科学的根拠はないというニュース報道が為されているが、従来、自然療法や代替療法、民間療法(健康食品)の多くはエビデンスベースドなものではなくプラセボ効果(偽薬効果)を主とする心理効果に期待する療法である。 ...続きを見る
カウンセリングルーム:Es Discov...
2010/08/29 03:33

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コンテンツ&本の紹介

Es Discovery's Encyclopedia(百科事典的なアーカイブ)

ESD ブックストア(インスタントストアで色々なジャンルの本を紹介しています!)

心理学の事典や臨床心理学の概説書

S.フロイトとC.G.ユングの書籍
ブログアーカイヴ
2005年
3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
2006年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
2007年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
2008年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
2009年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
2010年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
“主観的な幸福感”を重視するスピリチュアルな世界観と“客観的な根拠”を重視する科学的な世界観:1 カウンセリングルーム:Es Discovery/BIGLOBEウェブリブログ