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help リーダーに追加 RSS 藤原光明子・聖武天皇・称徳天皇をめぐる奈良時代の歴史2:摂関政治の萌芽と律令制の変質

<<   作成日時 : 2007/12/26 10:30   >>

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前回の記事の続きになりますが、天武系の天皇の系譜は女帝の称徳天皇の代で断絶することになります。称徳天皇の時代は藤原氏が関与する朝廷の権力闘争がもっとも激化した時代でもありましたが、称徳天皇(孝謙天皇)自身も父親が聖武天皇、母親が光明皇后であり藤原氏の血筋を引いていました。しかし、母親の光明皇后(藤原光明子)とは違って、称徳天皇は『藤原氏の権勢の存続維持』を至上命題にして政治を行っているわけではありませんでした。光明皇后は飽くまで『藤原氏の権力の継続』『藤原氏がコントロールできる天皇の擁立』を考えながら政治を行っていましたが、称徳天皇は摂関政治には反対の立場で本来の『天皇親政の政治形態』を再興したいと考えていました。称徳天皇の時代の政治情勢を理解するために重要な人物は、光明皇后(光明太皇后)とその影響下にあった藤原仲麻呂(恵美押勝, 706-764)であり、称徳天皇の愛人として記述されることの多い道鏡です。

藤原仲麻呂は藤原南家の藤原武智麻呂の子であり、道鏡の前に称徳天皇から深い寵愛を掛けられた人物とされますが、称徳天皇以上に光明皇后からも強い期待と信任を寄せられていました。称徳天皇は従来の日本史観では、藤原仲麻呂と愛人関係にあり怪僧の道鏡へと気持ちが移り変わったことで、それに怒った藤原仲麻呂を討伐したとされています。天皇家と血縁関係のない愛人の道鏡に唆されて皇位を譲ろうとしたことで、称徳天皇に対する歴史的評価は一般に低いのですが、実際には、藤原氏の政治介入を抑止する天皇中心の政体再建への強い意欲を持っていたとも言われます。『自国こそが世界の文明・文化・軍事の中心地である』という唐の中華思想に憧れを抱いていた藤原仲麻呂は、朝廷の官職を唐風に改称させ、中華思想に基づく外交政策として日本の権威に服従しない朝鮮半島の新羅を討伐しようと計画しました。

しかし、当時、軍事的な弱小国に過ぎない日本が、唐の冊封秩序(封建的な主従関係)に組み込まれている新羅を攻撃することは、唐の反撃を招いて日本が『存亡の危機』に立たされることを意味していました。中国に対抗できるだけの軍事力がなかった古墳時代から奈良・平安時代にかけては、日本が東アジア諸国に対して強硬な外交姿勢(海外侵攻)を取ることは非常に難しかったし、下手をすれば中国の侵略を招いて日本の独立を失う恐れがあったのです。道鏡と結んだ称徳天皇(孝謙天皇)が『藤原仲麻呂の乱(764)』で藤原仲麻呂を討った背景には、感情的な好き嫌いの問題もあったかもしれませんが、新羅や唐に対して攻撃的な外交を仕掛けようとする仲麻呂と対外的な無干渉(現状維持)を貫こうとする称徳天皇との外交上の厳しい対立があったと推測されます。

称徳天皇と道鏡が、当時の先進国であった中国(唐)のような皇帝制へと政治体制をシフトしようとしていたという説もありますが、もし仮にそれが事実だとすれば称徳天皇は『万世一系の天皇制(血統による世襲で皇位継承するシステム)』を放棄しようとしていたことになります。当時の天皇家は、近代以降の日本のように長い歴史があったわけでもないので、万世一系というような永続性の認識は余り無かったでしょうが、それでもやはり『男系の天皇の血統を引かない人物を皇位に就ける』というのは革命といって差し支えない思想だったでしょう。『万世一系の血筋』を皇位の普遍的な前提とする近代以降の歴史観からすると、皇位を男系天皇と無関係な人物(道鏡)に譲り渡そうとした称徳天皇は、『血統で正統性を保つ天皇制』を消滅させようとした反逆者の位置づけになってしまいます。

しかし、悠久の歴史を通して絶えず『外来思想(先進思想)の影響』を受けてきたのが日本の姿ですから、称徳天皇に限らずほぼすべての貴族は、当時の最先進国であった中国(唐)の思想や文化、技術、政治制度に強い憧れを抱いていたと考えて間違いないでしょう。そう考えると、『日本的な天皇制(血縁主義による天皇の即位)』が平安時代以降ほど深く根付いていなかった奈良時代に、有徳の君子(天子)が禅譲・放伐によって皇位を継承していくという中国の『儒教的な皇帝制(実力や名望による皇帝の即位)』に魅力を感じた天皇がいてもおかしくはないのかもしれません。

唐が世界帝国としての繁栄を誇っていた奈良時代には、文化的・技術的な水準だけでなく軍事的・政治的な実力においても中国と日本には圧倒的な差があったので、日本は中国・朝鮮からさまざまな思想や技術を輸入しました。日本は中国から朝鮮を経由して、先端的な宗教や技術、文物、制度を取り入れましたが、最後まで採用しなかったのが皇帝制(易姓革命)と科挙(一般庶民からの官吏採用制度)、宦官、奴隷制(古代に奴婢はいましたが制度的なものではない)などでした。近世江戸時代までの日本は、『学問(道徳)としての儒教』を摂取しても、『政治(徳治主義)としての儒教』には批判的であったと言えます。儒教の朱子学(宋学)が日本に与えた影響は非常に大きく、明治期以降の皇国史観の背景にも朱子学の王道政治(王政復古)の理念がありましたが。江戸時代以前に朱子学に深く傾倒して、天皇親政を確立しようとした人物に建武の新政を行った後醍醐天皇がいますが、軍事力を直接掌握することが出来なかった後醍醐天皇は結局、室町幕府を創設する足利尊氏から追い落とされることになりました。

藤原摂関政治は平安時代中期(10〜11世紀半ば)に最盛期を迎えますが、藤原氏を外戚に持たない後三条天皇の即位によって藤原氏の影響力が弱まり、摂政・関白が政権を握る『摂関政治』から上皇(太上天皇)が主導権を握る『院政』へとシフトしていきました。後三条天皇の後を継いだ白河天皇(白河上皇)の時代(1086)に、天皇(幼帝)の補佐をする上皇が政権を掌握するという『院政』が確立しますが、保元の乱(1156)・平治の乱(1159)の後の平氏源氏の武士勢力の台頭によって、源頼朝の征夷大将軍就任を妨害した後白河上皇(1127-1192)以降の時代には武士勢力が政治の実権を握ることになります。

源頼朝は、1185年に源義経の軍略に助けられて平家を滅亡させ従二位に叙せられ、1190年に右近衛大将となり1192年に後白河上皇が死んでから征夷大将軍に任じられますが、朝廷の権威・文化への憧れが未だ強く、娘の大姫を後鳥羽帝の妃にするための宮廷工作を熱心に行いました。大姫が早逝して協力関係にあった九条兼実との仲が悪くなったことで、頼朝の宮廷工作は失敗に終わり、1199年に頼朝は落馬事故によって死去します。二代将軍・源頼家は、妻の生家である比企氏が北条氏打倒のために起こした『比企の乱』をきっかけにして伊豆に幽閉されることになりますが、実際には、将軍頼家が妻・乳母の実家ということで肩入れしていた比企能員(ひきよしかず)の権力拡大を恐れた北条氏が比企一門に濡れ衣を着せて謀略にかけたと言われています。

『金槐和歌集』を残し和歌の名手として知られる三大将軍・源実朝は、朝廷文化と和歌の道(言霊思想)に心酔して実力主義(リアリズム)の武家政治を無意味化しかけました。結局、実朝は頼家の子とされる公暁(くぎょう)によって鶴岡八幡宮で暗殺されることになりますが、源氏の将軍家が三代で滅亡したことにより関東武士団を統率する北条氏による執権政治が確立していくことになります。京都の貴族政治(朝廷文化)への憧れと劣等感を引きずっていた賜姓源氏の将軍家が滅亡したことで、関東武士団の権益を確保する北条執権体制(得宗専制体制)が誕生し武家政治の本格化の時期を迎えたのでした。


■関連URI
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プラトンの善を志向する政治哲学とクリティアスの寡頭政(オリガルキア)の挫折:善の意図と悪の結果の乖離

■書籍紹介
藤原摂関家の誕生―平安時代史の扉 (歴史文化ライブラリー)
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