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前回の記事の続きになるが、一般的には、高校生くらいの発達年齢になると『個人の発言権の平等性・個人の人格性の尊重』を意識するメンバーが増えて、クラスの中に固定的な階層序列が生まれにくくなりいじめ行動に関心を示す人もほとんどいなくなる。しかし、高校や生徒の気風によっては、頻度依存的な『いじめの娯楽化』の雰囲気が残っていることもあり、金銭目当ての恐喝などが絡むといじめの犯罪化が顕著になることもあるだろう。神戸市の私立高校で発生したいじめ事件では、特定の個人を侮辱して笑いものにすることで楽しむ卑劣な『いじめの娯楽化』があり、恐喝して現金を巻き上げようとする『いじめの犯罪化(実益化)』との間で負のフィードバックを形成してしまったように思える。 愚劣な嫌がらせと脅しをし続けた加害者集団が悪いことは間違いないし厳しい処分・罰則が下されて然るべきであるが、精神的なダメージを与えるいじめの要素の両極として“笑い”と“脅し”があることで“いじめ現場における反論”が骨抜きにされやすいことにも注目する必要がある。真面目な正論や真剣な善悪を語ることが、暖簾(のれん)に腕押しの“笑い(嘲笑)”の中では簡単に無効化してしまうのである。軽いノリですべてを面白おかしく解釈しようとする集団では、真面目にいじめの卑劣さを語る側が笑われてしまうという『常識的判断の転換』が起こることがあり、いつもふざけたり冗談を言っていないとまともに相手にされないような場が形成される。悪ふざけや冗談、突っ込み、馬鹿騒ぎなどのコミュニケーションが常態化すると、『面白いか面白くないか・笑えるか笑えないか・イケてるかイケてないか』といった価値判断が大きな力を持つようになり、『娯楽化したいじめ』を否定する正論は多数者の“笑い(嘲笑)”の中で無効化されてしまうのである。 教育関係者がいじめに厳正な対処ができない一つの理由として『いじめの定義が曖昧であること』が上げられるが、いじめ自殺などが起きた場合にも『生徒同士の悪ふざけや冗談、じゃれあいと思い込んでいた』という教師のエクスキューズが為される場合がある。これは、本当は教師がいじめの存在を知っていたのかもしれないが、多数者の笑いや明るさの雰囲気に隠蔽された“いじめの実態”に気づけないというケースもあるだろう。精神的嫌がらせが主体となるいじめは、特定の人物を“スケープゴート(犠牲の山羊)”にして、“侮辱の籠もった多数者の笑い”の対象(さらし者)にするところに本質があるのだが、『単にその生徒が笑われているという現象』からだけでは教師がいじめの存在を断定することは難しい。 実際、自発的にふざけたり間抜けな行動をすることで“クラスの笑い”を受けることが好きな“道化的な役割の生徒”もいるので、本人がいじめの被害を訴えてこない限り、外見からだけでは“道化(非いじめの笑いの対象)”と“スケープゴート(いじめの笑いの対象”の違いを見極めることが難しいケースはあるかもしれない。普段から丁寧に、生徒ひとりひとりの人間関係や表情の変化を観察しているような教師でないと、“笑いの現場”からだけでいじめの有無を判断するのは無理だろうし、一見するとみんなで楽しくふざけ合っているように見えることもある。 また、いじめをする加害グループや人物も、担任教師に対して必ずしも反抗的であるとは限らない。いじめる側の生徒たちが、普段は教師と気軽に冗談を言い合ったりするような友好関係があり、教師から活発で明るい生徒、何の問題もない良い生徒として好意的に評価されていることも少なくないだろう。教師は必ずしも道徳的に正しい生徒や大人しくて目立たない生徒に肩入れしているわけではなく、基本的には、外見的な特徴やクラス内の権力関係などの色眼鏡で見ないようにしようという人のほうが多いだろう。教師自身が活動的で大声でしゃべって冗談を言うようなタイプだと、自分に近似した明るくて行動的な性格特徴を持つ生徒のほうに無意識的にシンパシーや親しみやすさを感じても不思議ではない。 精神的嫌がらせが主体の軽度のいじめの場合であれば、いじめられている本人でさえいじめている側にいじめの存在を承認させることは難しく、相手の悪口やちょっかいに対して怒ると『なに、冗談でムキになってんだよ・洒落の分からない面白くない奴だな・お前と遊んでやっているだけだろ』といった感じで笑われるだけで、ふにゃふにゃと怒りの発言はいじめる側の笑いに吸収されてしまうだろう。 大人になってまともに話の通じる相手とばかり関係しているとつい忘れがちになるが、『真面目に相手の話を聞く態度ができていないへらへらとした生徒』に真剣な言葉や正論の意見を心に響かせるのは結構難しいのである。特に最近は、教師−生徒間の社会的な序列関係が弱くなり、物分かりの良い教師の側が生徒のペースや雰囲気に合わせて楽しくおしゃべりすることも多いので、普段そういった友達のようなコミュニケーションをしている生徒の“笑いの壁(真剣な注意・指導などを無意味化する壁)”を突き崩すような指導が出来ないこともある。普段から立場の対等性を強調して付き合っている相手にほど、厳しい注意や指導ができにくくなるというのは、教師−生徒に限らず一般の人間関係でも同じである。 いじめをしている加害集団のリーダーの心理については、ユング心理学の元型で言う“影(シャドウ)”の統合の失敗と“孤独耐性の低さ(他者依存性の強さ)”を指摘することができる。神経心理学的には“ADHDのような脳の覚醒水準の低さ(過剰な外的刺激を欲求するぼんやりした覚醒レベル)”も想定できるかもしれない。ユング心理学の元型(archetype)にある“影(shadow)”とは、意識的な精神生活の中心である“自我(エゴ)”と相補的に作用する元型イメージであり、現在の自分とは正反対の性格特性や価値観を持つ受け容れがたい“劣等コンプレックス”としての側面も持つ。いじめをする原因として急速な学力不振や劣悪な家庭環境、自分がいじめられる不安などのコンプレックスが指摘されることがあるが、いじめとは自分が認めたくない“影(シャドウ)”の要素を“いじめられる人間”に投影して行われる加害活動であり、“いじめられている人間”には“いじめる人間”が最も恐れている状況や嫌がらせが投影的に加えられるのである。 では、“いじめる人間”が“いじめられる人間”に投影している無意識の劣等コンプレックスとは何なのだろうか?それは簡単に言ってしまえば、『集団の中に居場所がなくなること』であり『集団の中でさらし者にされて侮蔑の笑いの対象にされること』である。いじめる人間とは、過度の外向的性格によって『他人の視線や評価』を意識し続けている人間であり、『他人から無視されたり否定されたり笑われること』を最も強く恐れているある意味で精神的に脆弱な人間である。なぜ、いじめの加害者はいじめ状況を維持し続けなければいけないのかという大きな理由の一つは、“いじめられている人間”を“笑い(嘲笑)の対象としてのスケープゴート(犠牲の山羊)”にしておかなければ、自分が広義の意味でのスケープゴート(みんなの娯楽の的)として屠られるかもしれないという抑えがたい不安があるからである。 悪びれずにいじめを肯定するいじめ加害者は、『面白くて楽しいからいじめをやった。いじめは単なる遊びで娯楽に過ぎない』と言うこともあるが、これはいじめを引き起こさざるを得ない精神的な切迫感や焦燥感の本質の一面を突いている。彼らは、強迫的に帰属集団に対して『誰かをネタにした娯楽(差別的な笑い)』を提供し続けなければならない自発的な義務を背負っており、その義務を果たせなくなった時には肯定的な自己評価を保てなくなってしまうからだ。 “いじめられる人間”が集団の“スケープゴート”だとするならば、“いじめる人間”はスケープゴートがいなければ何もできない“道化(エンターテイナー)”なのであり、お笑い芸人が素人をいじって笑いを取るように、クラスの道化(エンターテイナー)である“いじめる人間”はスケープゴートをいじらなければ笑いを取れない。 分析心理学者のC.G.ユングは、個人的無意識(コンプレックス)として“影”を定義したが、更にその深層に普遍的無意識として“普遍的影(collective shadow)”を仮定した。普遍的影とは、あらゆる人にとって悪であると判断されるような『悪そのもの』を示唆する元型であり、自分のコンプレックスである影との統合に失敗し続ける中で、人は普遍的影の誘惑へと引きずり込まれてしまうことがある。相手の心身を徹底的に破壊するような『執拗ないじめ』を激化させていくような加害者は、“残虐性・嗜虐性・依存性を特徴とする自我の一面性”を“影(自分の見たくない弱さ・欠点・孤独)”によって補償することができず、“普遍的影(絶対悪)”に飲み込まれて破滅するまで“影(自分自身が恐れる状況や特性)”から目を逸らし続けた臆病(小心)な人なのである。 ここまで、いじめをする加害者のリーダーの心理について『影の統合の失敗』という見地から見てきたが、もう一つの『孤独耐性の弱さ(他者依存性の強さ)』というのもクラスの道化(エンターテイナー)として振る舞い続けなければ自己の存在価値を確信できない心の弱さを示している。つまり、いじめる人間というのは『スケープゴートとしての他者(いじって笑いを取る相手)』がいないと自己の対人魅力や存在価値を発揮できないタイプの人間であり、自分一人で自立的に行動をしたり他人に依存せずに自分一人の時間を過ごすことができない『孤独耐性の弱さ』という特徴を持っている。彼らが自分自身の“影”として最も恐れる状況や特徴が“いじめられる人間”に投影されるという話をしたが、いじめる人間が最も恐怖するのは『自分が笑われる側(集団内の弱い立場)の人間になること』、そして、『自分自身が面白くない人間であることが暴露されること』である。 クラス(学級)の道化(エンターテイナー)である“いじめる人間”は、スケープゴートである“いじめられる人間”をさまざまな侮辱や暴言、脅しでいじることでしか“卑劣な笑い(嘲笑)”を取ることができない。彼らは、クラスに“娯楽としてのいじめ(笑い)”を与えることで自分自身のクラスの中での『相対的な居場所(他者の価値の引き下げによる地位上昇)』を確保しているとも言える。しかし、彼らの生み出す娯楽や笑いは全面的にスケープゴート(いじめられている人間)に依存しているので、『スケープゴートがいないと、お前ら自身は全く面白みのない退屈な人間だったのか(誰かを無理やりいじめることでしか、自己表現欲求や承認欲求を満たせない集団だったのか)』という客観的事実の指摘によって幼児的な全能感や脆弱な自尊心がガラガラと崩れ落ちる心理面の弱さもあるだろう。 いじめる側が目を背けている“影(シャドウ)”は、『自分だけでは、新しい娯楽や遊びを生み出せないこと』を思い起こさせ、『自分自身には、エンターテイナー(学校の権力者)として何の魅力(実力)も面白さもないこと』を冷徹に指摘し続ける。その為、自分たちの劣等コンプレックスや存在価値の消失を過度に恐れる人たちは、“影”をひたすら学校内のスケープゴート(抵抗力の弱い他者)へ投影して、束の間の安心感や見せ掛けの自尊心(優越感)を得ようとするのかもしれない。 ■関連URL “抑うつ的な希死念慮”を構成する心理的要素が“強迫的な焦燥感・責任感”と結びつく危険性 学校環境でのいじめや対人関係で追い詰められた子どものクライシスコール:遺書を作成する行為と心理 福岡県筑前町と北海道滝川市のいじめ問題2:教師の言動が生徒に与える影響と学校心理臨床の課題 ■書籍紹介 解決!いじめ撃退マニュアル―教室からネットまで、これで安心
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学校教育におけるいじめの認知件数の増大と関係者全員が連携した危機介入的アプローチの必要性
文部科学省が『いじめの定義』をいじめられる側の心情を中心にしたものに書き換えた影響もあり、学校現場におけるいじめの認知件数が約6倍に急増しました。文科省実施の『児童生徒の問題行動調査』によると、2006年度に認知されたいじめ件数は小・中・高校・特殊教育学校などを合わせて約12万5000件ですが、認知件数が少なかった2006年度以前に実際のいじめが少なかったわけではないでしょう。いじめ件数が急増した要因は、いじめの定義の変更といじめ問題の隠蔽(学校側の責任回避)に対する社会の強い圧力にあると... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/11/19 13:42 |
コミュニティの流動性と学校環境におけるいじめ問題:集団活動の本来の目的からの逸脱と優越欲求
学校・職場などにおける『いじめの問題』については、過去の記事でも何度か取り上げてきましたが、いじめとは『異質性を排除しようとする集団力学』に基づいて発生する現象です。いじめは、特定の集団内において暴力・嫌がらせ・侮辱・からかいなどを伴う『擬似的な階層序列(上下関係)』を作り出しますが、いじめが激しくなるか弱まるかは頻度依存的(数的優位性を競う)な集団力学によってコントロールされ、この頻度依存性は『場の空気』という概念に置き換えることもできるでしょう。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/09/24 00:40 |
アクスラインの遊戯療法の8つの基本原則とロジェ・カイヨワの『遊びと人間』に見る“遊び”の本質
箱庭療法は『作品の共感的な鑑賞』と『作品の無意識内容を絡めた解釈(物語性)』がセットになって行われますが、作品を見た瞬間に受けるイメージや雰囲気を味わいながら、より深いレベルの無意識的意味や象徴性などの分析を進めていきます。分析家(カウンセラー)が分析した作品の無意識的意味や解釈を、直接的に伝える必要がある場合もあれば無い場合もありますが、子どものクライアントが自由な保護された空間の中で、自己の内的状況を生き生きと表現できることに箱庭療法の意義があります。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/04/01 14:01 |
A.アドラーとC.G.ユングの劣等コンプレックスに関する理論1:なぜ思春期に劣等感が強まりやすいのか
人間の悩みや葛藤が強化される原因として『劣等コンプレックス・自己不信感・過去のトラウマ』などがあるが、自分に自信が持てない劣等コンプレックスが顕著に影響する精神障害として“社交不安障害(対人恐怖症)”がある。社交不安障害とは、他人と会話をしたり人前で何か話そうとしたり、社会的な場面に直面した時に、異常に強い不安感・緊張感を感じて、“手足の振るえ・大量発汗・心悸亢進・言葉の吃音(どもり)・息苦しさ・顔面紅潮”などの生理学的な自律神経症状が出る問題である。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2011/08/10 09:13 |
自分と似た人を好きになるか、自分と異なる人を好きになるか2:ユングの影(シャドウ)と恋人選び
『自分と似た特徴を持つ人を好きになりやすい人』というのは、上記した類似性・自己愛・生活適応などの要因を踏まえて、ある程度『今の自分自身の特徴や状況が好きで満足している人』である可能性が高いのですが、自分の特徴や現状がそれほど好きでないにしても、自分と類似した特徴や状況にある相手のほうが気兼ねなくリラックスして付き合えるという良さはかなり大きなものなのです。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2012/04/03 18:19 |
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