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1910年の韓国併合以前にも、日本では西郷隆盛を中心とする板垣退助、江藤新平らの征韓論がありました。征韓論を唱導した西郷や板垣、江藤は、政権中枢の大久保利通や岩倉具視らとの論争に敗れて故郷に下野しますが、その後、朝鮮に強引に開国・国交を迫るための江華島事件(1874)が起こりました。征韓論を唱えて鹿児島県(旧薩摩)に下野した西郷隆盛は、日本側が策謀的な挑発行為を行った江華島事件には批判的であったといいます。 その事を踏まえると、西郷が西南戦争の自滅的な決起に追い込まれず政権中枢に残り続けていたならば、(対ロシア外交の進展によっては併合やむなしの状況に至ったかもしれませんが)実質的な植民地化に当たる韓国併合よりも、韓国統監府の指導・保護による韓国人自身による国家の近代化にこだわったかもしれません。近代日本の初代内閣総理大臣と初代枢密院議長を歴任した伊藤博文(1841-1909)は、政治家としての最後のキャリアとして韓国統監府の初代統監に任命され1905年から1909年までの約3年半にわたって大韓帝国を実質統治しました。 文官の最高位にあった伊藤博文もまた最晩年に至るまで、軍部と政界に強い影響力を持つ元老・山県有朋(やまがた・ありとも, 1838-1922)が中心となって主張する韓国併合に対して反対の姿勢を見せていましたが、暗殺される直前(1909)の霊南坂会談では、桂太郎首相や小村寿太郎外相の韓国併合の打診に対して「やむなし」と承諾の意向を伝えています。その時の伊藤博文の職階は枢密院議長でしたが、伊藤は維新期からの日本政界の重鎮であり実際の権力はその時々の首相を遥かに凌いでいました。更に、明治天皇の信任と親愛がもっとも厚い文官でしたから、伊藤の意見如何によっては1910年における併合は見合わされた可能性もあったわけです。ハルビンでの暗殺時には、伊藤博文が韓国併合に同意したことは韓国人だけではなく日本人にも知らされていませんでしたが、日本の韓国併合は1909年4月の霊南坂会談において実質的に既定事項になったとされます。伊藤博文は1907年辺りまでは、韓国を併合することによって生まれる将来の憂いは計り知れないので現行のまま保護主義政策を継続すべきという意見を政見スピーチなどで述べていました。 明治期の対朝鮮政策は『韓国の独立強化(国家主権の保護・尊重)』と『韓国の併合(国家主権の剥奪)』の間を揺れたわけですが、日本は日清戦争(1894)の辺りまでは『東洋の平和を維持し、韓国の独立を強化する』という詔勅を掲げていて積極的に朝鮮半島を併合しようとする勢力が政権を掌握していたわけではありませんでした。しかし、1904年の日露戦争開戦に至ると明治天皇の詔勅は『東洋の治安と、韓国の保全のため』という微妙な表現に改められており、韓国の永世独立に対しては何ら保障を与えない詔勅へと変質しました。韓国を併合することによって生まれる将来の憂いは計り知れないので、現行のまま保護主義政策を継続すべしという伊藤の従来の主張は変化しましたが、その背景には、ロシアの南下政策と対日本の露清同盟に対する根強い警戒感(不信感)、満州と朝鮮における軍事的プレゼンスの保持があったといいます。 以前書いた吉田松陰門下(松下村塾)の人材に関する記事では伊藤博文(1841-1909)と山県有朋(1838-1922)について殆ど触れませんでしたが、初代内閣総理大臣と日本軍閥の大立物となったこの二人は松下村塾出身者の中で最も立身出世に成功した人物であると同時に、性格や政治信条、国家ビジョン(理想の政体)において極めて対照的な二人でした。 多面的な配慮と国際的なビジョンを持って政治に臨んだ伊藤博文は、官界や財界、皇室だけでなく一般国民からも幅広い支持を得ており国際的な大政治家としての名声も高い人物でした。一方、議会での発言力を強める為に軍部や警察で自分に与する長州閥(長閥)を強化し、「治安警察法(1900)」に代表される独裁的な政治手法(言論弾圧につながる非民主的手法)と権力を保持する策謀を駆使した山県有朋は、反長閥の政治家や明治天皇から疎まれ一般国民の評判も良くありませんでした。 日本が朝鮮の江華島砲台を不当に挑発する江華島事件によって、興宣大院君(1820-1898)が支配する朝鮮から領事裁判権と関税自主権を奪い、強引に開国・通商させる日朝修好条規(1875)が結ばれました。その為、李氏朝鮮の官僚貴族(両班)や民衆の間では、華夷秩序や鎖国体制を守ろうとする攘夷論的な反日感情が高まりを見せ、西欧列強や日本が迫る近代化(資本主義に基づく自由貿易・近代法に基づく法治主義・外国資本の参入や投資)への反対も強くなっていきました。 鎖国政策を取る封建的な李氏朝鮮は、門戸開放(機会均等)による自由貿易や政治体制の近代化に対して根強い反対を示していました。これは、西欧列強の軍事的な脅威と帝国主義的な拡張路線(利権拡大)を甘く見ていた幕末の日本にも見られた旧態的な攘夷思想であり、変化を拒もうとする鎖国思想でしたが、日本と朝鮮ではその後に歩むことになった歴史に大きな違いがありました。無論、保守的な幕府と革新的な薩長連合(朝廷)の間で政治権力の正当性が揺れた幕末期の日本にも、朝鮮や中国と同じく西欧列強の圧力による自主独立の危機が差し迫っていました。 しかし、旧弊と停滞を退ける戊辰戦争における薩長連合軍の勝利によって、封建的な幕藩体制が崩壊し日本を近代化する明治維新に成功しました。時代の変化を拒む頑迷な攘夷思想を脱け出し、和魂洋才の柔軟さによって西欧の先進的な技術や制度を導入し続けた日本は、富国強兵と殖産興業を達成して極東地域(東アジア)における有力な近代国家(帝国主義国家)へと成長しました。李氏朝鮮にも日本の明治維新のあり方を参考にして西欧的な近代化を急ぐべしという開明派の「独立党」がありましたが、清王朝との冊封体制を守って緩やかに改革すべきという守旧派の「事大党」の影響力が相当に強かったのです。 儒教的な中華秩序や封建的な文化伝統を死守しようとする興宣大院君(1820-1898)は、朝鮮の近代化に前向きであった開明的な閔妃(明成皇后, 1851-1895)の一派を政権から追い落とす政治クーデターを起こしましたが、これを壬午事変(じんごじへん, 1882)といいます。閔妃(明成皇后)は大院君の子の高宗の妃ですが、外戚である閔妃は李氏朝鮮の宮廷において非常に大きな権勢を振るっていました。大院君主導の壬午事変(壬午軍乱)の影響によって清と朝鮮の冊封体制を守ろうとする守旧派の「事大党」が勢いを盛り返し、李氏朝鮮は反日的な政治姿勢を明らかに示すことになりましたが、大院君自身は、朝鮮の平和秩序を乱すクーデター(軍乱)を犯したということで宗主国であった清国へ連れ去られ幽閉されることとなりました。 大院君が清国の天津で軟禁され続けたことにより、守旧派の事大党が勢力を拡大した壬午事変以後も閔妃(明成皇后)が政権を掌握し続けました。しかし、壬午事変の鎮圧で清国軍が閔妃を守って活躍したので、閔妃は近代化推進の親日政策を捨てて、旧態的な清国との冊封体制を維持する方向へと政策をシフトしました。1882年の壬午事変(壬午軍乱)では清国との宗属関係を維持しようとする保守的な事大派が勢いを得ましたが、1884年の甲申政変(甲申事変)のクーデターは、李氏朝鮮が西欧と日本に伍する近代的な立憲君主制を敷く大きなチャンスとなりました。 壬午事変(1882)による閔妃(明成皇后)の儒教秩序(華夷秩序)への後退と1884年の甲申政変の失敗によって、李氏朝鮮(韓国)は近代国家として独立する可能性を決定的に不意にしたとも言えます。甲申政変(1884)とは、事大政策を行う閔妃を排斥して高宗を国王とする立憲君主制を樹立しようとした政権転換のクーデターですが、開明派の独立党のリーダーである金玉均や朴泳孝、徐載弼らを中心に決行されました。清国に従属する閔妃の事大主義と対立した金玉均らの独立党は、明治維新を達成した日本に留学した開明的な学生や朝鮮の近代化の必要性を痛感する運動家によって構成された革新的な政治勢力でした。 甲申政変の政治クーデターは、宗主国である清国がベトナム(インドシナ地域)の支配権を巡ってフランスと戦った清仏戦争(1884-1885)の最中に行われ、独立党と日本軍は昌徳宮の占拠に成功して新政府樹立を宣言します。しかし、フランスに連敗を重ねてインドシナを奪われた清国の袁世凱(1859-1916)は、属邦である朝鮮を死守する為に軍隊を率いて進軍し、朝鮮を実効支配していた独立党(クーデター派)と日本軍を攻撃して追い落としました。 李氏朝鮮を属邦とする冊封体制によって東アジアでのプレゼンスを維持したい清国(中国)と、地政学的な重要拠点である朝鮮半島を勢力圏に入れて対ロシア(対清)の国防と権益の獲得を図りたい日本は、やがて1894年に日清戦争で軍事衝突を起こす事になります。封建的な社会制度を維持することにつながる甲申政変の失敗、甲午農民戦争(東学党の乱)に伴って勃発した日清戦争によって、日本は、『対等な独立国家』が連帯してアジアを防衛するというアジア主義的な地域安全保障の本旨から大きく逸脱していきます。 日本が、日清戦争後の下関条約(日清講和条約)や日韓議定書で『韓国の独立性(清と韓国の無関係性)』にこだわった大きな理由は、清の朝鮮に対する内政干渉(支配権)を排する大義名分を得る為ですが、日本の知識人や政治家の中には、李氏朝鮮を近代国家として独立させようとする考えを真面目に持つ者も多くいました。明治期を代表する開明派の知識人である福沢諭吉も本来はアジア全域の近代化という理想的構想に同調していたようですが、甲申政変の失敗と政治犯に対する清や朝鮮の前近代的な取り扱い(野蛮な残虐刑)などを見るに当たって、中国や朝鮮の近代化の可能性に疑念を感じ脱亜論に傾いたと言われます。 明治期の日本にあった中国(清国)や李氏朝鮮の近代化を促進してアジア諸国の独立を確保しようとする構想や、侵略主義的な西欧列強に対してアジア全域で大同団結する集団安全保障の理想は次第に忘れ去られていきました。その結果、大日本帝国は次第に西欧列強のようにアジア諸国を支配する方向へと外交政策をシフトしていき、日清戦争と日露戦争、清とロシアの干渉を排した韓国併合、東南アジアへの侵攻、日中戦争、日米戦争(太平洋戦争)へと戦線を拡大し抜け道のない世界大戦の泥沼へと呑み込まれていきました。 ■関連URL 近代の朝鮮半島の歴史と日本・韓国・中国の民族アイデンティティの揺らぎ 『河野談話』以降、外交カード化した慰安婦問題の混乱:日・中・韓の国家アイデンティティの歴史的変遷 ■書籍紹介 「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
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朝鮮半島の保護権益を巡る日露戦争と近代日本の政党政治の衰退
過去の記事で朝鮮半島の近代化の困難と儒教的な冊封体制について書きましたが、清国や李氏朝鮮(大韓帝国)が西欧的な政治体制や経済政策を迅速に導入して日本との集団安全保障体制を確立していれば、東アジアを起点として世界史の粗筋は大きく変化していたかもしれません。19世紀後半(明治維新)から終戦に至るまでの日本の戦争の軌跡と政治体制の変化を振り返ると、第二次世界大戦(太平洋戦争)での敗戦がなければ、現在のような自由民主主義体制や価値観の多様性(プライバシー権)、経済優位の政治状況が日本に根付いていた... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/06/01 22:55 |
日清戦争・日露戦争後の東アジア情勢と「併合」へと傾く日韓関係
日露戦争の勝利によって朝鮮半島における影響力を確固たるものにした日本は、1905年9月にロシアとポーツマス条約を結んだ後すぐに(11月17日)、漢城(ソウル)で大韓帝国との間に「第二次日韓条約」を締結します。特派全権大使として韓国に乗り込んだ伊藤博文が締結した第二次日韓条約によって、韓国は植民地にはされなかったものの国家主権を大幅に制限される保護国となります。独立運動に身を投じていた韓国人の中には、日本が大義名分として掲げた『韓国の自主独立のための戦争(日清戦争・日露戦争)』を信じていたも... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/06/02 00:11 |
清王朝における儒学的な中華思想(華夷秩序)の変質と雍正帝による中外一体(一君万民)の原則
前回の記事の続きですが、中国王朝が広大な版図を獲得できた理由の一つに異民族に莫大な恩恵(回賜)を与えた朝貢貿易があり、大半の異民族は本音で中華文明を崇拝しているかはともかく、形式的に中国王朝に帰属して朝貢貿易の実利を獲得しました。李成桂(りせいけい)が高麗へのクーデターを起こして樹立した李氏朝鮮(1392-1910)は、例外的に中華思想に基づく明の冊封秩序を積極的に受け容れていました。李氏朝鮮が明の冊封体制を好意的に認めていた背景には『李氏朝鮮が儒教の朱子学を国教とする王朝であったこと・国... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/05/15 17:25 |
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